いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

お前はこどもがいないのだから、精一杯生きなさい。

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名古屋駅前のカフェドクリエにいる。移動は好きだが、自分から逃げることはできない。私は野営や海水浴が好きだ。自然と一体化できる。書くことなどの創造も好きだ。前者には「自分がなくなることでみんなになる」感覚がある。後者には「めちゃめちゃ個人的なことを出しているのに、出したものの中にみんながいる」感覚がある。前者だけでは生きることに退屈する。どちらも、自分には必要なものだ。

 

おおまかなスケジュール

3月4日(木)自著を手売りする@名古屋界隈

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激しさと潤い。

外側から与えられたものには限界がある。どれだけ移動を続けても、どれだけ素晴らしい景色を見たとしても、自分は自分のまま。薄らと続く虚無や倦怠の雰囲気から逃れることはできない。昔から「自分がやる必要のないことはやりたくない」という思いがあった。自分の代わりが利かないこと、自分にしかできないことに興味があった。それを追求した結果「俺を生きることができるのは俺だけだ」となり、自分の思いを言葉にできるのは自分しかいないのだと言う当たり前を、痛感した。

 

どれだけ美味い飯を食べても、どれだけ豊かな自然に囲まれても、それだけでは満たされない部分を感じる。その部分は自分が何かを生み出すことによって埋まる。言葉でもいい。音楽でもいい。自分の内側にあるものを自分の外側に出すことができたとき、はじめて「ああ、今日は最高の一日になった」とピリオドを打てる。自分が与えられたものではなく、自分が生み出したものを通じてはじめて「俺は生きた」と思う。男はこどもを生めない体だ。だからなのだろうか、命を差し出してでも何かを残したいと願う。残せなかった日々は、老廃物となって体内に滞留する。

 

今日お会いしたC様は認知症の母親の介護をしている。ある日、C様は母親から「お前はこどもがいないのだから、精一杯生きなさい」と突然言われた。認知症の母親だが、その言葉を発した瞬間の意識ははっきりとしており、C様は驚きと戸惑いで思わず泣きそうになった。その日から、C様は大きな問いを抱くようになった。それは「精一杯生きるとは何か?」という問いだ。これまでは母親にとって良い娘であることに長い年月を捧げてきた。しかし、母親の一言から「これまでの全部が見抜かれていた」衝撃を受け、感情は大きく揺れた。精一杯生きるとは何か。

 

祈りを生きる。

心は目には見えない。目に見えないものは目に見えないものでしか守れない。何処の国でも死者の餞に花を添える。人類の共通見解として「花は、死者に贈ることができる」というものがあるかのように。言葉も同じだ。我々は墓の前で言葉を捧げる。言葉は、死者に贈ることができる。音楽も同じだ。C様の話を聞きながら、最初は「悲しみを歌にする」というワードが浮かんだ。その後に「悲しみではなく哀しみだな」と思った。だが、哀しみというワード自体がネガティブで嫌だなと思って、もっと的確な言葉はないかなと思った時に『祈り』というワードが浮かんだ。

 

精一杯生きるとは、祈りを生きることではないだろうか。祈るだけでもない。生きるだけでもない。自分の内側にある祈りを自分の外側の世界で実際に生きること。祈りは、この世とあの世を結びつける。生者は死者によって生かされ、死者は生者によって生き続ける。ここに永遠がある。虚無や倦怠を打ち破るものは、祈りだ。

 

頑張らなくていいという励ましの言葉がある。半分は正解で、半分は不正解だと思う。私たちの本音は「頑張りたい」だ。私たちの本音は「精一杯に生きたい」だ。それは、自分にとって不向きなものを克服するための努力ではなく、自分の内側にある祈りを外側に出すための奮闘。自分を忘れるくらい熱中できるものとの邂逅。精一杯生きるとは、祈りを生きることではないだろうか。外側から与えられたものには限界がある。しかし、自分の内側から湧き上がるものには、限界はない。自分の祈りを生きること。きっと、ここに永遠がある。きっと、そこにみんながいる。

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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