いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

自分を殺して生きるより、自分を出して死ぬほうがいい。

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横浜駅前のドトールにいる。昨日、Agape(我々のバンド)が急遽7名になった。大所帯だ。アイドル感が出てきた。ホスト感もある。七人いたら、Agapeが好きか嫌いかの二択から「Agapeの中なら誰がタイプか?」みたいな問いが発生する。推しメン、とか言われはじめたら儲け物だ。ほぼ全員無職だが、どうやって食いつなぐのだろう。最悪の場合はホストクラブ『Agape』を開店しよう。談笑をしていたら本当に男娼になった、という流れは、悪くない(悪いのかもしれない)。

 

 

おおまかなスケジュール

9月9日 20時頃 命を賭けているライブ@東京都武蔵野市吉祥寺「曼荼羅」

SCHEDULE on 
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贈り物。

昨日、東京の四谷でトークイベント&バンド演奏があった。詳細(?)は「日記」に書いた。イベント中、贈り物の話をした。私は、もう長い間、無職だ。定期的な収入はないし、来月生きている保証もない。この星にはいろいろなタイプの人間がいるから、金を稼ぐことが得意なひともいるのだろう。しかし、私は「稼ぐ」とか「売る」という行為が苦手で、では、そんな自分がどうやって生きてこれたのかと言うと「あげる・もらう」の関係性があったからだ、という話をした。家は貰い物で、使っている楽器も貰い物で、生活に必要なものの大半も貰い物で構成されている。「買う・売る」が苦手で、これが苦手な人間は生きていくことができないと思っていたが、それでも「あげる・もらう」の関係性の中で生きている感覚がある。

 

いま、私は「文章を書く」ことと「音楽を作る」ことをやっている。別に、一円も生み出していない。だから、世間的な意味では『仕事』になっていない。しかし、私は、これが仕事だと思う。文章を書くことも、音楽を作ることも、贈り物に似ている。これを見た誰かが、これを聞いた誰かが、よろこんでくれたら嬉しい。そういう、漠然とした誰かに向けた贈り物を届けているような気持ちで、書いたり、作ったりしている。私という人間は商品ではないし、私の作ったものも商品ではない。これらは贈り物で、誰かが、これを喜んで受け取ってくれるなら無償で提供しているものになる。大事なことだから、繰り返す。私という人間は商品ではないし、私の作ったものも商品ではない。贈り物だ。この贈り物を楽しんでくれる人、よろこんでくれる人、面白がってくれる人が、それぞれの形で『贈り物』をしてくださる。それによって、いま、自分は生きている(生かされている)感覚がある。

 

幼少期から「そんなんじゃ生きていけないよ」的な説教を頻繁に受けた。生きるためには嫌な仕事でもしなければいけない、嫌な学校も行かなければいけない、嫌な人とも付き合わなければいけない、それがおとなになるということだ、など。言われるたびに、私は「そこまでして生きて行きたくないよ」と思っていた。この気持ちは、いまも変わらない。自然界を見渡してみる。りんごは、果実を収穫するものに「代わりにこれをよこせ」とは言わない。酸素も同じだ。交換の原理ではなく「循環の原理(贈与の輪)」で成立をしている印象を覚える。こっちの方が、自分には、自然だと思えた。しかし、おそらく、これは少数ものの感覚なのだろう。自然は、いま、おおいに破壊をされている。私のような人間も、遅かれ早かれ、破壊されることになるのだろう。それならば、破壊される前に、生き方を変えるのか。否、きっと、そういうことはしないのだと思う。破壊されてしまうのならば、破壊されるまで、思い切り生きてやりたいと思う。自分を殺して生きるより、自分を出して死ぬほうがいい。こういう人間がいたということを、誰かが知ったとき、なにかしら感じるものがあってくれたのならば、生まれてきた甲斐があったなと思う。

 

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自分を殺して生きるより、自分を出して死ぬほうがいい。

34年間生きてきて、思うことがある。それは「人間は、実は『あげたい』生き物なんじゃないか」ということだ。誰かになにかを贈りたい。誰かになにかをしてあげたい。誰かに(自分を通じて)喜んでもらいたい、楽しんでもらいたい、面白がってもらいたい。そういう欲求を抱く生き物だと思う。少なくとも、私は、そうだ。世間ではニートや引きこもりや不登校児などが話題になることが多いが、彼らは「働け」と叱責される。しかし、彼らは「働きたくない」とは思っていない気がする。いまはまだ「働きたくない」という言葉でしか自分の感情を表現することができていないとしても、本心にあるものは「働きたい」という思いであり、言い換えるなら「生きていたい」という思いなのではないだろうか。ただ、従来の意味での『働く』という言葉や在り方に拒絶反応を示しているだけで、決して「なにもしたくない」とは思っていないはずだ。生きているのならば、感じるこころがあるのならば、なにもしていない自分を責めてしまう罪悪感が、芽生えるものだと思う。

 

罪悪感とはなにか。それは「価値のあるものを、価値のないものにすること」だと思う。どれだけ自分のことをダメな人間だと思っていても、誰かから失礼な態度をとられたり、心のない言葉を浴びせかけられたら、イラッとするのが人間だ。イラっとするということは、自尊心があるということだ。どれだけ劣等感を抱いていたとしても、それでもなお、最後まで残る『自分を大事なものだと思う感覚』が自尊心だ。乱暴な言葉で言い換えるならば「なめんじゃねえぞ」と感じる精神がある。これが、自尊心だ。自分の価値を認めているからこそ、罪悪感を覚えたり、自分を責めたりするのだろう。真面目に生きようとする人間ほど、深く悩む。悩むということは、一生懸命に生きようとしている証だ。一生懸命に生きると言うことは、自分にも生まれてきた価値があると信じることだ。そして、信じたことを(バカにされても、理解されなくても)行動に移すことだ。自分の生き様を通じて「人間は、こんな風にも生きることができるんだぞ」と、後世に(そして、昔の自分に。昔の自分と似たような人間たちに)示すことだ。ガンジーは「世界に変化を求めるなら、自らがその変化になれ」と言った。自分が、変化のど真ん中を生きることだ。

 

和田アキ子の歌に「あの鐘を鳴らすのはあなた」という曲がある。その歌詞に「あなたには希望の匂いがする」という歌詞があり、ああ、これは俺の歌だとか勝手に思い込むことに決めた。希望を示し続けてください。希望の香りを、放ち続けてください。自分にも、他人にも、そう思う。諦めるのは簡単だ。絶望するのも簡単だ。誰かに合わせることは簡単で、嫌われないように生きることは簡単だ。しかし、それでは、希望がないままじゃないか。私は、ロックンロールの最後の可能性を信じている。それは「ダメならダメなほど、素晴らしい」という光だ。誰からも見向きもされない、打ち捨てられたような存在。そんなどん底の人間が、逆転サヨナラホームランをかっ飛ばしたら最高に気持ちいいじゃないか。最高に痛快じゃないか。ダメならダメなほど、ひっくり返った瞬間に面白くなる。だからこそ、私はひっくり返してやりたいと思う。仮に、いま、誰から見ても「お前はダメな存在だ」と後ろ指を指されるような人間にも、まだ、機会はある。まだ、希望はある。多くの人々は希望を求めている。だが、自らが希望になろうとする人間は少ない。だからこそ、自分にも、他人にも「希望を示し続けてくれ」と思う。希望の香りを放ち続けてくれ。生きることを、生きようと思うことを諦めないでくれと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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