いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

ちょっとの勇気があれば、人生はとても楽しい。

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バンコクのよくわからない場所にいる。日本だと「お客様は神様です(従業員は奴隷です)」みたいな構図をよく見るが、タイは良くも悪くも無関心で、あ、いたの?みたいな対応が多い。人間的にフェアで、それが心地よかったりする。ほっといてくれる感じがいいのだ。スペインでは「俺の店にようこそ(俺の店を選ぶ君のセンスは素晴らしい)」みたいな対応を受けた。誤解を恐れずに言うと、日本は気を使いすぎて全滅していると思う。何を隠そう、私自身が頻繁に自滅をしている。

 

 

おおまかなスケジュール

7月18日以降、FREE@日本【呼ばれた場所に行きます】
7月21日 15時 定期演奏会@静岡県熱海市「逢初庵」
7月28日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

Live to the point of tears.

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Agape(愛)× anthos(花)= Agapanthus(愛の花)

 

この花は『アガパンサス』というらしい。Agape(我々のバンド名)と同じだ。 花は美しい。儚い。儚いということは流れていくと言うことだ。忘れると言う言葉と、流れると言う言葉は似ている。厳密には異なるが、忘に「氵」がつくと流になる。ちなみに、戻に「氵」がつくと涙になる。水に戻ると涙になる。海に還ると言うことか。曲作りをするとき、それを聴きながら『涙を感じるか』を基軸にしている(気がする)。明るい曲でも、悲しい曲でも、グッとくる曲はグッとくる。涙が出そうになるかどうか。そこに涙はあるか。これが、自分の行動基準になる。どれだけ金を儲けても、どれだけ安定の生活を得ても、涙が出なければ大概は虚しい。

 

帰国したら車に野営道具とギターを積んで各地を遍歴するなんてことをやりたい。サーフボードも一緒に運べたらなんかもう家とかいらないんじゃないかとさえ思う。素敵な音楽を作るためには、音楽ばかりやっていたらダメだ。そう思った。人生を楽しむこと。自分を楽しませた余剰が、音楽に乗っかる気がする。私は遊ぶことが苦手だ。好きなことは野営程度。燃える炎を眺めると和む。最近、そこにサーフィンが増えた。自然と戯れたい。所有することの自由さと、所有することの不自由さ。家は便利だ。だがしかし、メンテナンスが面倒だ。維持費もかかる。テントならすぐに直せる。最悪ビニールシートでいい。簡易な家屋で暮らすタイ人は多い。車で気ままに移動しながら生きられたら素敵だなと思うが、肝心の車がない。

 

4ヶ月で100曲作った。ライブ活動をやりたい。保科さん曰く「少年野球で強いチームと弱いチームの差は何か、それは試合をしている数である、という持論を元に我々Agapeはライブを重ねたいのである」とのこと。完全にアグリー。本番でしか鍛えられない筋肉がある。成長の鍵は「短期間にどれだけ恥をかけるか」だと思う。成長、なんて言葉を使ったが成長という言葉は嫌いだ。成長もクソもない。あるのは『躍動』だと思う。成長したいというよりも、躍動したい。咆哮したい。跳躍したい。ギャラもいらないし交通費もいらないから、誰か、私をライブに呼び出してください。エレキもほしい。エレキギターは格好いい。エレキギターで創作をしたらまた生まれる曲も変わるのだろう。エレキを獲得する道も同時に模索したい(熱海と横浜の家は引き続き開放しています。利用希望の方はご連絡ください)。

 

note.mu

 

100曲記念カバー「ひだまりの歌(山形弁ver.)」

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ちょっとの勇気があれば、人生はとても楽しい。

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そのひとが抱く答えより、そのひとが抱く葛藤に惹かれる。選挙期間中だからなのか、様々な意見を聞く。誰もが「自分は○○のためにこれをやっている」と声高に叫ぶ。正直、全部綺麗事に聞こえる。社会活動家などは、明確なビジョンを持つことをよしとされる。自分はこれのために頑張っているのだと、動機が明確なひとほど評価をされる社会だ。しかし、まったく、魅力を覚えない。私は、答えに興味がない。答えを持っているひとは止まっている。魅力的なひとは、答えを求めているひとだ。葛藤を抱くひとだ。矛盾を生きるひとだ。自分がなぜこれをやっているのかわからず、それでもなお、この中にしかない『光』のようなものを感じているからこそ、それを止めることができない。自分がやっていることの理由や意味なんてわからないまま、それでもなお、どうしても感じる光があるから、これをやっている。そういう雰囲気をもつ人間が、言語化しきれない世界を生きるひとが好きだ。

 

動き出した理由が、動き続ける理由になるとは限らない。理由さえも流転する。そっちの方が真実だ。流転を続けるなかで、それでもなお『変わらないもの』を握り締める。私は、いま、道を示したいと思っている。過去に家も金もなにもかも失った時、周囲から「お前は終わったな」的な目線で見られた。一般的なレールを逸れた人間は、不幸になる。そう決めつけられている気がした。それが癪で、私は「なにもなくても楽しそうに生きている人間がいたら、それは痛快な出来事だ」と思った。自分の人生を、環境に決めつけられてたまるか。自分の人生を、他人に決めつけられてたまるか。泣くか。笑うか。それは、自分で決めることができる。否、自分しか決めることはできない。そういうことを思いながら、私は「置かれた状態をどれだけ楽しく生きられるのか」を検証した。金がない奴は不幸。家がない奴は不幸。そういう社会通念みたいなものに中指を立てて「そうとは限らないじゃないか」と、新しいあり方を示したいと思った。そしていま、音楽をやっている。年齢が。技術が。環境が。能力が。周囲は散々なことを言う。言われながら、私は、やってみなければわからねえぞ、と思う。「そうとは限らないじゃないか」と思う。

 

不幸だと思われる人間が、その不幸によって飛翔をすることがある。同時に、幸福だと思われる人間が、その幸福によって堕落をすることがある。短期的なジャッジが、長期的なジャッジと一致するとは限らない。だからこそ、私は、他の誰でもない自分自身に「道を示したい」と思う。こんな生き方もできるぞ。と。一寸先は光だぞ。と。どのような状態に置かれても、泣くか、笑うかは自分で決めることができるんだぞ。と。諦めるのも自由。諦めないのも自由。前を見るのも自由。下を見るのも自由。なにをするも自由。なにもしないのも自由。ただ、お前が人生に『涙』を求めるのならば、正しさを超えて、言葉を超えて、生きるの一択になるだろう。停滞した日々を打開してくれたものは、いつも、小さな勇気だった。勇気は、一度出せばいいというものではない。それは、瞬間瞬間に必要とされる、立ち向かう意思だ。そのすべてがうまく行くとは限らないが、すべてがダメになるとも限らない。自分には無理、と伏し目がちになることも多い。それでもなお「ちょっとの勇気があれば、人生はとても楽しい」ということを、自分に示したいと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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