いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

弱さは、希望だ。

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熱海の逢初庵にいる。逢初庵は、約四年間「誰でも自由に使っていい」と、無料で開放してきた。諸事情により、この無料開放を、昨日で終わりにした。恋愛と同じで、なぜ、別れたのかと問われても「それは当事者にしかわからない」事情がある。芸能人が離婚をすると、かわいそうだの、もったいないだの、周囲は散々なことを言う。しかし、当事者にしかわからない事情を、我々は知らない。周囲の人間にできることは、焼肉をおごるとか、一緒に焚き火を囲むとか、そういうことだ。

 

 

おおまかなスケジュール

5月20日以降、FREE【イベント出演依頼諸々募集中!】
5月26日 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」
6月2日 EVENT 音楽×トーク@千葉県千葉市「N-HOTEL

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

ひとつ、ひとつ、終わらせる。

古い関係性を終わらせたり、使わなくなったものを処分している。整理整頓、衣類を丁寧に畳んだり、部屋を掃除していると、心が澄む。ものを大事に扱う時、同時に、自分を大事に扱っている感覚を覚える。逢初庵にあるものは、愛するムラキテルミさんから譲り受けたものが多い。なにを使うか以上に「誰からもらったものを使うか」が、私の場合、精神状態に大きく作用する。どれだけ高額なものでも、それをくれたひとのことを愛することができないならば、わたしは、その高級品を廃棄する。ものを見るたびに、そのひとのことを思い出すのが耐えられないからだ。

 

逢初庵【熱海】の無料開放は終わり、ごちゃまぜの家【横浜】の無料開放は続く。ごちゃまぜの家は、新規入居者も決定した。流れがある。続くものは続き、終わるものは終わる。自分の力の及ぶ範囲と、自分の力の及ばない範囲がある。肩に力がはいっているほど展開は滞り、委ねているとサラッと決まる。きっと、そんなものだ。私は、縁のあるひととは一番いいタイミングで出会えると思っている。だから、過剰な宣伝をしたいとは思わない。最近は「熾火になりたい」と思う。常に、静かに、燃えていたい。私は、ここで、燃えていたい。素通りをするひともいれば、温まるひともいる。火傷をするひともいれば、背中を押されるひともいる。

 

熾火と言えども、ただ、じっと座っているだけではない。ただ、じっと待っているだけではない。「ここぞ」という瞬間は、火の玉になって、飛び込みたい。自分には足があり、自分には腕がある。熾火は生きている。動く熾火だ。人生で大事なことは、どれだけ、自分が前のめりになって愛していけるものと出会えるか、だと思う。「これでいいや」とか「このひとでいいや」とかではない、自分が、どれだけ前のめりに「これがいい」とか「このひとがいい」と思えるか。その瞬間、どれだけ自分の身を賭してぶつかっていけるかが、日々の充足度を決定づける。真剣にぶつかること。それが、相手に対する礼儀であり、自分に対する礼儀であると思う。

 

note.mu

 

わたり文庫『光あるうちに』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、三浦綾子著作『光あるうちに』です。私は、青年期、キリスト教とロックンロールに影響を受けて育った。共通点は「弱者の視点に立っている」ことだと思う。ロックは、誤解を恐れずに言えば、負け犬の歌だと思う。負け犬が、負け犬のまま、負け犬の自尊心を高らかに歌うこと。それが、自由を、感じさせる。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、宮城県にわたりました ※※※

 

湯たんぽのぬるきを抱きて目ざめるるこのひとときも生きてゐるといふのか

昭和二十五年、療養中のわたしの歌である。

その朝、わたしは、もうぬるくなって、体温以下になったような湯たんぽを抱いていた。ぼんやりと目をあけたまま、わたしはあたたかい床から起き上ろうとはしなかった。旭川の冬は寒い。じっと、いつまでも床の中にいたい怠惰な気持だった。起きて食事をする気すらない。療養中のわたしには、安静も食事も大事な仕事だった。しかし、わたしは何の意欲もなく、ただぼんやりと、ぬるい湯たんぽを抱いていた。

その時、わたしはふっと、そうした怠惰な自分に自己嫌悪を感じた。今の自分は、果して生きているといえるのか。この今の自分の姿が、わたしの生き方を示しているのではないか。わたしはそう思った。当時のわたしは、確かに生きる意欲を失っていた。ちょうど、ぬるい湯たんぽを抱いて、ぐずぐずと床の中にねている姿のような生き方だった。

(中略)

わたしたちにとって大切なのは、いつかは遂に死ぬ自分が、その日までどのような姿勢で生きるかということであろう。来る日も来る日も、食事の支度と洗濯と掃除のくり返しでもいい。いや、そうであっていい。ただ、いかなる心持で、それらをくり返すかが問題なのだ。家族が楽しく美味しい食事ができ、清潔な衣服を着て、整頓された部屋に憩い、しみじみと幸せだと思える家庭をつくる。それがどんなに大いなる仕事であるか、働きであるかを、考えてみることが必要なのだ。

三浦綾子『光あるうちに』【新潮文庫

 

弱さは、希望だ。

私は三人兄弟の末っ子だ。末っ子は『甘え上手』と言われる。半分正解で、半分間違い。そう思う。末っ子は、甘え上手ではある。しかし、それは「周囲の空気を読むことに長けている」だけであって、逆に言えば「ここまでなら甘えられる」とか「ここまでだったら迷惑にならない範囲で要求を通せる」など、自分が大丈夫と思われる範囲内で自由に振舞っているだけに過ぎない。きっと、誰もが、同じ部分を持っている。ここまでなら迷惑にならない。ここまでなら甘えられる。ここまでなら人間関係にかどが立たない。ここまでならたとえ断られたとしても傷つかないで済む。浅傷で済む。立ち直れないほどのショックを受けないで済む。そういう感じで、常に、決められた範囲内での『自由』を行使しているだけに過ぎないと思う。

 

だが、最近、私は思うのだ。優しさは大事だ。思いやりも大事だ。だが、常に誰かの負担にならないように、常に相手の機嫌を損ねないように、自分の感情を後回しにして、上手に、器用に、置かれた状況に適した立ち振る舞いをすること、それだけを最優先に生きていたら、心の一部がさみしいままではないだろうか。誰かの荷物を持つことはできるのに、自分の荷物を持ってもらうことはできない。誰かの愚痴を聞くことはできるのに、自分を愚痴を吐き出すことはできない。それでは、心の一部はさみしいままではないだろうか。だから、私は、自戒も込めて、こう言いたい。負担にならないように生きるのではなく、負担になればいいじゃない。と。

 

生きる強さとは、なんでも自分だけの力でできることではない。それはただ臆病なだけ。弱さがあるから、人間は、人間を必要とすることができる。強さとは、自分の弱さを受け入れる力だ。弱さを通じて、他者と、世界とつながりを築く力だ。よろこびだけではない、うれしいという感情だけではない、嫉妬を覚えるとき、さみしさを覚えるとき、自分を責めたいと思うとき、違和感を覚えるとき、悔しさを覚えるとき、怒りを覚えるとき、憎しみを覚えるとき、あらゆる感情の中に、自分が進みたいと思うヒントが、自分が「こうありたい」と思うヒントが、隠されている。埋蔵された宝物は、自分が、瞬間瞬間に感じる感情のなかに眠っている。それを押し留めるのではなく、開放すること。外側に答えを求めるのではなく、内側にある答えを生きるとき、世界は、想像を超えて優しかったことを知るのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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