いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

調子に乗ったら即死する。

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ごちゃまぜの家には様々な人々が訪れる。周囲からは「駆け込み寺みたいですね」とか「神社みたいですね」と言われることも多いが、多分、少し違う。私は、ごちゃまぜの家をある種の『罠』だと思っている。油断をしていると殺される。間合いを間違えると斬られてしまう。結構大変な場所だと思っている。この家は、一応「誰でも無料でいつでも使える場所」として開放している。要するに自由な家、ということになるのだけれど、自由の解釈はひとによって異なる。その結果、自由と自由がぶつかりあって「お前はいったいなんなんだ?」となることは多い。

 

 

ごちゃまぜの家に一切のルールブックはない。明文化されている禁止事項はない。が、これが結構厄介なのだと思う。基本的に「良識の範囲内で」とか「人としての不文律」みたいなもので成り立っている。昨夜、前回の記事で書いた家なし生活中の29歳男性がごちゃまぜの家に来た。最初は20時頃に行くといっていたが、結果的に彼は21時に来た。ごちゃまぜの家は自由な家ではあるが、私は、そういうところなんだよと思って彼に「一時間遅れたことをどう思っているのか」と問うた。彼の顔に緊張が走る。この緊張感こそが、ごちゃまぜの家の醍醐味だと思っている。

 

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公共性。

私に詰められた29歳の彼は言った。遅れてしまってすみませんでした。事前に連絡を入れておくべきだと思いました。一応、人の家なんですものね。と。私は、彼が言った『一応』というワードに敏感に反応して「一応じゃねえよ」と思った。しかも、彼の顔はなんだかちょっとにやけている。そういうところなんだよと思って彼を再度詰めた。私は、良識や礼儀的なものを大事にしたいタイプの人間だ。嫌な感じの人々には嫌な感じの人々が集い、いい感じの人々にはいい感じの人々が集う。私は、ごちゃまぜの家をいい感じの空間にしたい。だから、自分が嫌だと思うもの、乱暴に言えば『心に巣食うゴキブリ』を見つけた瞬間に叩き潰したいと思う。

 

ごちゃまぜの家は、みんなの家というよりも「誰の家でもない」という認識の方がクリティカルだ。人間、油断をしているとすぐに気が抜けて自分の家みたいになる。それが悪いとは言わない。むしろ、子育てなどで疲れているお母様にはこの家で好きなだけ昼寝をしていただきたい。このあたりの感覚を伝えることは難しい。誰にでも自由に使って欲しいのだが、なんだかなあと思うものには「なんだかなあ」と言いたくなる。その違いはなんだろうか。それは、要するに『感謝』だと思う。使わせてもらっているという感覚が薄れた時、人間は傲慢になり、すべてのものを当たり前だと思うようになる。ごちゃまぜの家の裏の森でホープレス生活を満喫中のUTMさんも、三食しっかりごちゃまぜの家で食べている。別にそれが悪いとは言わない。が、先日、毎日生卵ばかりを食べるのも飽きるからゆで卵にした的な発言を聞いた時、あれ、と思った。どの口がそんなことを言っているのか、と。

 

21時に来た青年は、その後、24時近くなってもストーブの前に居座って帰るんだか帰らないんだかわからない感じでしなしな体育座りをしていた。私は、彼に「今夜は泊まりますか?」と尋ねた。彼は「そうですね、では、泊まります」などと抜かした。私は再び発奮して「そうですねじゃねえよ。泊まりたいなら泊まりたいとしっかり言いなさい。誰かから『泊まっていきますか?』とか言ってもらうことを待っているような態度はまじで気に食わない。それは一番やっちゃダメなやつだ」と再々詰めた。29歳の彼の顔面に緊張が走り、体育座りから正座に切り替え、頭をさげながら「泊まらせてください」と私に言った。私は「いいですよ」とにこやかに答えた。こんな風に書いたら、私の亭主関白ぶりがやばいと思われた方もいるかもしれない。昨夜、この家の日常をラジオ配信した。年末年始の暇な時期にでも、ご視聴いただけたら雰囲気も伝わるかもしれない。ごちゃまぜの家は今日も愉快だ。

 

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わたり文庫『突破者(上・下)』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、宮崎学著作『突破者(上・下)』です。ごちゃまぜの家において、おそらく、私は父親的な存在になる。しかし、私はまだ自分の家族を築いたことがない。そこで参考になるのが極道の方々の家族感で、こちらの本からはまなばされることが大量にありました。私は、『任』や『侠』と言った世界観が大好きなのだと思う。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、埼玉県にわたりました ※※※

 

普通の親なら、子供が喧嘩してきたら理由のいかんにかかわらず叱りつけるものだろうが、わが家では問題なのはその理由であて、それがわが家の道理に合致してさえいれば大いに称賛された。喧嘩にまつわるわが家とその周辺の道理は、「身内がやられたときは、たとえこちらに非があろうとも、相手に復讐しろ。それをやらない者は人間のクズだ」という単純極まりないものだった。喧嘩をしたことだけで叱られたことは一度もなかった。

(中略)

ファミリーの論理は単純極まりないものであった。子供だろうが女だろうが、ファミリーに属する者にはそれぞれの役割があり、個々がその役割を果たしながら、どんなことをしてでも仕事を取ってくる。そして、その仕事で得た金を全員にばらまく。基本的にはこの論理だけで成り立っていた。いうなれば徹底した身内、あるいは身贔屓の論理であり、内側に閉ざされた論理でもある。それだけに身内内部の密度やボルテージはきわめて濃厚で高いものであった。その人と人との結びつきのなかで、負担をみんなで担い分けるという貧者の論理がまだ残っていた。


(中略)

その話を聞いて、男というのは土壇場で逃げる男と逃げない男の二種類しかないという厳たる一面があって、土壇場で試されるのは唯一それだけなんだということがよくわかった。これはヤクザも左翼も同じ、普通の市民だって同じだということを後でたっぷり思い知ることになる。


宮崎学『突破者(上・下)』【幻冬社アウトロー文庫】

 

調子に乗ったら即死する。

道場みたいな家だ。誰かに何かを言う時、その言葉は自分にも向かっている。誰かに「ここはお前の家じゃないんだよ」と言いながら、同じ言葉を自分に思う。無意識にこの家を私物化している自分、無意識に感謝を忘れていた自分を思い知るのだ。だから、此処は「自分はどうなんだ」と常に問われる家でもある。これは完全に修行である。精神的な加圧トレーニングであり、定期的にダメージをくらいながら日々逞しくなる『生きた勉強』である。別に関係者全員がストイックな訳ではない。私は、いろいろあるけれどそのトータルで『楽しい』と思えるからこそ、この活動(?)を続けている。楽しくなければ続かない。楽しむためには変化が必要だ。変化は時に痛みを伴う。痛みを伴うということは、間違っていないということだ。

 

師範代のほしなさんが、UTMさんに「この業界は、調子に乗ったら終わりですよ」と訓示を垂れていて笑った。明日は我が身。これは、この場にいる全員共有のテーゼである。気を抜いているとバッサリ斬られる。バッサリ斬られている人間を前に、傍観者でいることはできない。自分も同じように緊張をする。誰かに斬られる訳ではなく、この家に斬られる。もっと言えば『自分自身に斬られる』ことになる。斬られることは悪いことではない。それは非常に清々しいことだ。変わるための契機になる。私は、時折、変な感じで訪れた人に「お前は帰れ」と伝えることがある。しかし、これは「お前は二度と来るな」という意味ではない。リベンジは何度でも受け入れたい。そして、たとえどのようなやり取りを交わしたとしても、最後は握手で別れたい。罪を憎んで人を憎まず。私が嫌いなものは『心に巣食うゴキブリ』であって、そのひと自身ではない。私は殺し屋ではない。害虫駆除の業者である。

 

昨夜、広島県福山市から男性M様が遊びに来てくれた。M様は容赦無く優しい。UTMさんに「僕が資金提供をするからモバイルハウスを作ってみませんか?」と提案をした。UTMさんだけの家ではなく、より一層公共性のある家。他の誰かも泊まることが可能で、M様ご自身も次回来た時に泊まれるような空間。そんな家があったら面白いと思いませんか、と。『公共を増やす』とは貢献度の高い素晴らしい発想だ。料理も同じで、自分のためだけではなかなか凝った料理は作れない。誰かのため、というものが加味された時に頑張り甲斐も生まれるというものだ。UTMさんの頑張り、ひいていはごちゃまぜの家の頑張り、もっと言えば自分自身の頑張りが(結果的に)誰かのためにもなってしまうような、パブリックなデイズを過ごしたいと思う。調子に乗ったら即死をする。身を引き締めて生きていきたいと思う。

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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