そのままでいい。そのままがいい。
札幌に着く。旭川に向かう。バスを調べる。時間があるのでブログを書く。昨夜、札幌在住の方に「いつもブログやnoteを読んでいるお礼に」と、宿泊先をご用意していただいた。お心遣いが嬉しかった。夜、屋上テラスのあるカフェに足を運んだ。風が心地よかった。グレープフルーツジュースを飲みながら、色々な話を交わした。
坂爪さんが、宿泊先がなくて困っているという具体的なヘルプを出してくれたからこそ、いま、自分はこうして連絡をすることができました。坂爪さんは何度も『ありがとうございます』って言ってくれるけど、ありがとうございますはこちらの方です。実際にお会いできたことで、なんだか風が吹いたような、そんな感じがしています。これからも、どうか、このままでいてください。必要なときは、また、いつでも声をかけてください。
世界が輝きを取り戻すとき。
数週間前、大阪の鶴見緑地で女性Mさんと話した。柔らかな口調でMさんは話す。こんなことを言うとおかしいひとって思われちゃうかもしれないですが、ミニトマトとかを食べていると、なんだか感動しちゃって泣けてくることがあるんです。手にとってじっくり眺めながら、よく、ここまで来てくれたねって思うと、なんだか泣けてきて。おかしいですよね。と笑う。私は、この話を聞いた時になんだかすごい感銘を受けた。Mさんの感性を前に、なんだか絶滅危惧種を前にしたときのような、このままであってほしい(あなたが生きている世界であってほしい)と願うような気持ちになった。
熱海の家に戻る。珈琲豆を挽く。パッケージを見ると「メキシコ産」と書かれている。当たり前の話だけど、この珈琲豆は、海を越えてメキシコから届いたのだ。農場の人間や流通の人間など、様々な人々の手を通じて、いま、自分の手元にあるメキシコの珈琲豆を目にした時、ああ、よくここまで来てくれたなと感じた。ここまで来てくれたから、いま、自分は珈琲を飲むことができているのだなと感じた。きっと、すべての物事が同じなのだと思う。着ている服も、食べているものも、日常雑貨のあらゆるものは、様々な人々がそれを運んで着てくれたから、いま、自分はそれを使うことができる。そことを、私は、簡単に忘れてしまう。有り難み、と言う言葉が網羅をよぎる。
この世の全ては分子でできていると聞く。別々に見える人間も、極限までつきつめるとみんな分子になる。みんな違うようで、みんな同じだ。国は違えど、我々の祖先は一対の男女に遡る。肌の色は違えど、話す言葉は違えど、同じ血が流れている。みんな違うようで、みんな同じだ。そういうことを思うことがある。どこまでもどこまでも自分の考えを遠く馳せるとき、必ず、ひとつの地点に到達する。その地点から世界を眺めたとき、世界は、いままでとは少し違った輝きを帯びる。ミニトマトを見て感動するように。人間に対しても同じだ。私は、ひとと話している時に「よく、いままで生きてきてくれた」と思うことがある。あなたが生きて、ここまで来てくれたことによって、いま、この瞬間があるのだ。
Scenery in one's mind's eye
わたり文庫『イワンのばか』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、トルストイ著作『イワンのばか』です。大好きな作品で、読んでいると安心感のようなものを覚えます。祖父母が百姓だった(家に牛舎があり、当時の家は茅葺き屋根だった)からなのか、バガボンド37巻にも通じる、異様な親しみを感じます。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、北海道にわたりました ※※※
イワンは、今でもまだ生きていて、多くの人々はその国へ押しかけてくる。ふたりの兄たちも彼のところへ来て、彼に養ってもらっている。だれかが来て、「どうかわたくしどもを養ってください」と言えば、彼は「ああよしよし!」と言う。「いくらでもいなさるがいい ー わしのところにはなんでもどっさりあるんだから」ただ、この国にはひとつの習慣がある ー 手にたこのできている人は、食卓につく資格があるが、手にたこのないもの(註・自分の働きをしていないもの)は、人の残りものを食わなければならない。
そのままでいい。そのままがいい。
旭川に向かうバスに乗る。熱海の日々を思い出す。数日前まで、ゲストが遊びに来てくれた。一緒に蕎麦を食べたり、バイクに乗って遠出をしたり、夕日を眺めたり、温泉にはいったり、焚き火をしたり、無駄な話をたくさんした。胸に重いものを持っているひとが、自分と時間を過ごす中で、無垢な笑顔を見せてくれた瞬間のよろこびは大きい。悩み相談に乗ることだけが、悩みを解決する道じゃない。悩みを一回脇に置いて、ただ、一緒に遊ぶ、一緒に踊る、一緒に歌う、一緒に走る、一緒に生きる、それだけのことが悩みを軽くすることがある。海面に反射する太陽がキラキラと輝いている。それを見て「うわあ」とこどもみたいな声を上げる。何歳になっても何歳にでもなれるひとでいたいね、なんて、そんな会話を交わす。
嬉しくなる道が正解だよ。そう思う。ああしなきゃとか、こうしなきゃとか、多分、そんなことはない。正しさや意味や意義で自分をガチガチに縛ると、心も体も強張る。緊張する。固くなる。安らぎから離れていく。真実と呼ばれるものがあるならば、それは「自分をうれしくさせてくれるもの」だと思う。好きな音楽、好きな風景、好きな人間、好きなものたちを包み込む世界。自分を軽くするもの、自分を嬉しくさせてくれるもの、自分を柔らかくするもの、自分をほぐしてくれるもの、自分というものを溶け流してくれるもののなかに、私は、私の本当を見る。
旭川に向かうバスに乗る。北海道の自然は大きい。ふと、「どこまでも自分を生きると、みんなになる。どこまでも自分を消すと、みんなになる。みんなのなかに、自分もいる。永遠は、ここにある。」ということを思った。自分にはなにもない。この言い方はネガティブに響くかもしれない。しかし、自分には「足りないものはなにもない」と言い換えた時、途端に、この瞬間に充足感を覚える。自分とはなにか。時折、考えてもわからないことを考える。移動中はことさらにそうなる。あなたは誰のものでもない。だからこそ、みんなのものになることができる。海と同じ。風と同じ。山と同じ。空と同じ。感覚的だが、そういうことを考えていた。
こうあるべきなんてことはひとつもない。だから、自分の好きなひとには、心が軽くなる道を、自由になる道を、嬉しさを感じる道を、思わずはしゃいじゃう道を、歩いて欲しいと思う。決めつけられた価値観や、押し付けられた正しさで自分を緊張させるより、肩の力を抜いて、人生を楽しんで欲しいと思う。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年8月1日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu