情け容赦ない負債関係の諸々を新潟で行う。税理士の方から「クロマニョン人とネアンデルタール人の違いを知ってるかい?クロマニョン人は共同幻想を持つことができたから生き延びたんだよ。夢とか、言葉とか、税金を含めた社会のルールとかね。でも、ネアンデルタール人は、個としては強かったんだけど、関係性を築けなかったから滅びたんだ。コミュニケーション能力も低かったみたいで、だからネアンデルタール人は滅びたんだよ」と教えてもらった。
死に支度 致せ致せと 桜かな(一茶)
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年7月22日
死に支度も兼ねて故郷新潟県に向かっています。このまま佐渡島まで能動的に流刑するのもありなのかなと思っているのですが、奇跡的に新潟でお会いできる方がいたらお会いしましょう!基本的に、新潟市西区小針浜界隈で野営をしています。海も空も俺も青い。 pic.twitter.com/OK3tZQHgkM
多分、税理士の方は「だから税金とか社会のルールに従うことは大事なんだよ。そうじゃないと絶滅しちゃうよ」と言いたかったのだと思う。が、なんだか、この話を聞いていたら「ネアンデルタール人になりたい!」と強く思ってしまった。普通、絶滅する側と、絶滅しないでいられる側の2種類があったら、絶滅しない側につくものだと思う。が、性格的にひねくれているからなのか「絶滅する側に賭けたい!」と思った私は、今世を諦めた方がいいのだと思う。
乱世に備えて・1
負債の厄介な所は「身内に飛び火する」ことだと思う。今、私の両親は「お前(坂爪圭吾)の未払いが全部うちらに来てるぞ!」とカンカンだ。ロクでもない息子で本当に申し訳ないと思う。自分が責任を背負うならいいが、身内に被害が及ぶことは避けたい。己の管理能力不足を嘆く。俺にカネをもたせたらアウトだ。すぐにこういうことになる。これは血縁を絶つしかないのかと思った。が、税理士の方に相談をすると「現行の民法では、家族の縁を切ることはできない」とのこと。困った。が、外国籍を獲得すれば日本人ではなくなるから諸々のあれもなくなる(?)とのこと、だがしかしアメリカ国籍などは非常に取得が難しいから、これはもう電子国家エストニアに亡命(!)するしかないのかもしれない、などと考えていたら楽しくなった。エストニアでごちゃまぜの家をやったらエストニ家だな、とか、そういうことを考えてしまった。
書籍の出版依頼などに応えられなかったのも、結局、収入が増えると税金も増えるからで、そういうのが苦手な自分は「無一物」で生きるしかないのだと思った。銀行口座も、家も、車も、差し押さえの対象にしかならない。俺がモノとかカネを持ったらダメなんだなと何度も思った。熱海に別荘が欲しい人がいたら教えてください。熱海に暮らしてみたいひとや、熱海の家でカフェとか民宿をやりたいひととか、熱海の家を使って欲しい。私はモノを適切に管理することができない。管理や規制がとにかく苦手だ。無能すぎて禿げる。このままだと、多分、遅かれ早かれす差し押さえの対象になってすべてが流れていく。
圭吾坊やが坂爪家を破産に追いやってしまった、なんてことになったら洒落にならない。俺みたいな人間が管理とかしてはいけないのだなと思う。みんな破滅してしまう。とかなんとか色々考えながら、今、横浜に向かっている。自分よりよっぽど大変なひとから「大変だからごちゃまぜの家に数日滞在させて欲しい」と連絡が届いた。俺も結構大変なんだけどな、と、思いながらも横浜に向かう。今後は一応横浜か熱海にいる。熱海の家を見てみたい、なんなら買いたい、あるいは有効に活用したい、なんて方がいたらお気軽にご連絡ください(あと、一張羅のジーパンのポケットに大きな穴が開いてしまって色々なものを落としてしまったので、裁縫が得意な方からのご連絡もお待ちしております)。
※※※ 非常にありがたいことに裁縫をしていただきました ※※※
連絡先・さかつめけいご
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
乱世に備えて・2
新潟では基本海にいた。海に入ると調子がいい。鼻の通りがよくなる。肌もツヤツヤだ。乱世に備えて食事の量を減らしている。目指せ1日1食、そのためには「空腹を心地よいと思えるかどうか」がすべてだ。空腹感は幻想で、ただの暇潰しや惰性であることが多い。塩を舐めて水を飲むと空腹感は消える。これは発見だ。私の場合、理想の食事は酵素玄米に卵と納豆、余裕のあるときはここに生姜や大根おろしやアボカドなどを加えたりする。光合成で生きる道も考えたが、まだ、その境地には達せていない。冷たい飲み物とクーラーを避けることも有効だ。ここ最近、諸事情でクーラーも扇風機もない環境で数日間眠った。耐性がついたのか、冷房器具が不要になった。熱中症が問題になっているが、多分、日頃から冷房の効いた部屋にいるひと(冷たい飲み物を大量に飲むひと)ほど注意をした方がいいのだと思う。
断食の効果は栄養学を全否定した。痛快だなと思う。一昔前なら、シャンプーを使わないと話したら「不潔!」と鼻をつままれただろう。が、今から「あ、湯シャンだよね、薬品使わないから頭皮に優しいんだよね」などと言われる。ヨガも同じだ。昔なら宗教的だと訝しがられたことが、今ならお洒落な行為に様変わりしている。世間の目なんて、そんなものだ。つい数十年前まで、男が髪を伸ばしただけで退学になったり、書いてはいけないことを書いただけで警察から拷問を受けて虐殺されたりした。そんな時代があったのだ。いま、当たり前とされていることでも、数年後には「あの頃は頭おかしかったんだね」となることは多い。乱世に備えた(と言うか、乱世に突入した)日々の中で、次世代の当たり前を獲得していけたらと思う。
強がっているものの感情の浮き沈みは激しい。俺はクソだなと思ったりするが、友達と話していると「クソなのは社会制度の方なんじゃないか」などと思ったりもする。日本海のテトラポット界隈には牡蠣やサザエが群生している。密漁になるのかどうかは不明だが、食べ物はその辺に転がっている。虫食もある。過去にセミやバッタやイナゴの素揚げや佃煮などを食べたが、バッタの素揚げは美味しかった記憶がある。どんぐりも(まずいけど)食えると聞く。前回の記事を読んだ方から「今年の梅干しができたのであげるね」とか「桃の収穫が終わったら、商品にならなかったやつをみんなで食べましょう」とか「畑で採れたきゅうりをあげるよ」とか、ありがたいことに連絡をいただいた。なによりも気持ちが本当にうれしかった。人の優しさは、コンビニやスーパーでは買うことができない。私は「売るとか買うもいいけれど、あげるとかもらうもすごいいいよね!」と思う。今世は、売る・買うの関係性より『あげる・もらう』に賭けたいのだと思った。
わたり文庫『村に火をつけ、白痴になれ ー 伊藤野枝伝』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、栗原康著作『村に火をつけ、白痴になれ』です。私は、この本を、新潟市西区青山海岸の砂浜で横になりながら読みました。とても気持ちよかったです。本の内容をものすごい乱暴にまとめると「生きろ、暴れろ、女は男の道具ではないのだから、誰と付き合おうが、誰とセックスしようが、まったく問題ないばかりかそれが人間本来のあるべき姿じゃ!女達よ、男の奴隷に成り下がるな!生きろ!暴れろ!」的なものになります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※
ああ、習俗打破!習俗打破!それより他には私たちのすくわれる途はない。呪い封じ込まれたるいたましい婦人の生活よ!私たちはいつまでもいつまでもじっと耐えてはいられない。やがて―――、やがて―――。
何度でも生き直せばいい。
多動症の菩薩。多動菩薩。多動明王。なんと名付けたらいいのだろうか、やはり、動き回っている時の方が調子がいい。最近お前が興味のあるものを答えないと殺すと言われたら「内腿」と答える。バレエの先生から「あなたは内腿が硬い」と指摘を受けた。筋トレもいいけど柔軟もいい。体の硬さは頭の硬さにつながっている気がする。体が柔らかいだけで「なんかこいつやばそう!」という印象を与える。最悪の場合は旅するヨギーにでもなればいい。で、数日前から柔軟を研究している。短期間でフルマラソンを完走するためにはマッサージをやり続けろ、という、さとう式リンパケア的なものもあるらしい(間違っていたらごめんなさい)。プロのバレーボール選手は、体を痛める柔軟よりも「ひたすらマッサージに集中すること」とも聞いた。肉体をほぐすことで、結果的に全身が柔かくなるのだと。諸説あって色々迷うが、まず、自分の身体が感じる気持ち良さに従いたい。
夜、誰もいない海岸で横になる。読みたい本やギターなどを持ってきたが、風を受けているだけで気持ちいい。テントもあるが、大地にそのまま横になる。と、思わず「なんだこの気持ち良さは!」と声が出る。なんだ、こんなにも気持ち良い空間が世界にはあったのかと軽く仰天する。金の有無、社会的信頼の有無、そんなものに関わらず生きとし生けるものに等しく用意されている喜びは、無数にあるのだ。ないものに焦点をあわせると簡単に鬱病になる。が、いま、色々なものがないはずの自分でも「あー、最高だな」と思える瞬間がある。これを忘れたらアウトだなと思った。逆に言えば、月を綺麗だと思えている間は、海を気持ちいいとか、風を気持ちいいと思えている間は、しっかりと笑えている間は「大丈夫だな」と思った。
最悪の場合は、また、ここに戻って来ればいいのだ。誰にでも「ここに来れば自分に還れる」場所があると思う。私の場合、それは海だ。これが私のおっさん岩(註・バガボンド参照)だ。なにもかも失った時は、また、ここに戻って来ればいい。何度でも生き直せばいい。身体がやすらぐと精神もほぐれる。肩の力が抜ける。身体が軽くなる。なんとかするより『なんとかなる』のが人生だ。なんとかする、は、主語が自分だ。なんとかなる、は、主語が宇宙だ。自分ひとりで背負わないこと。空を見上げる。視野が広がる。自分に還る。自分自身を、自分の心を、居場所にすることができるように。目の前の出来事に、多分、善悪はないのだと思う。笑う道を選ぶか、泣く道を選ぶか。意味づけをするのは常に自分。私は、笑う道を選びたい。我々、最後には土に還る。それまでの間、降りかかって来る出来事を、笑い【生きる力】に変えて生きたいと思う。
本物の自由とは、制約がないことではなく「制約や不自由を引き受け切った時になれるもの」だと聞いた。人混みにいると孤独を覚えるけれど、誰もいない自然の中に置かれると安らぎを覚える。誰もいない、が、同時に「自分がいる」という感覚。自分という制約を受け入れた、この感覚が自由なのだと思う。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年7月22日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu