いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

誰かのためとか言っていないで、自分のために生きること。

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3泊4日のファスティングデイズも無事に終わり、いま、東京ドームのすぐ近くにあるデニーズにいる。非常に驚いたことに早朝7時からデニーズはほぼ満席で、おそらく、競馬が大好きなのであろう男性陣が新聞を片手にたむろしている。隣に座っているおじさんの体臭がすごい。清潔であるということは物凄い大切なことなのだなあと実感をする。しかし、清潔であること以上に「愛情不足である」ことの方が問題であるような気もしていて、なんだろう、うまく言葉にできないのだけれど「これまでの人生で誰にも優しくされることはありませんでした」という雰囲気がおじさんの全身から漏れ出している(気がする)。

 

3日間のファスティングで57キロだった体重は53キロ代(身長は175弱)にまで落ちた。わたしは痩せ型なので「大丈夫ですか!?」と心配をされることが多いのだけれど、小学生時代の野球部の練習が過酷過ぎたためにいまでも謎に腹筋は割れている(特別なトレーニングは何もしていない)。ファスティング中に空腹を覚えることはなかったけれど、2日目から排毒のためなのか鈍い頭痛が終日続いた。しかし、3日目になるとトンネルを抜けたような清々しさを覚えるようになり、尿検査的なものをすると「ケトン体が出ている」ことが判明をした。ファスティングの効果なのかは謎だけれど、ずっと痛かった右足首の痛みが完全に消えた。これでまた長距離を歩くことができるのだと思うと嬉しかった。ファスティング明けに食べたおかゆの旨さは格別で、食事ができること【生きていること】のありがたみを痛感した。

 

悪態日記。

昨夜、著名人が集まる宴に御招待をしていただき、場違いを覚悟で足を運んだ。誰もが着物やドレスやスーツでビシッと決めている中で、わたしひとりだけTシャツにジーパンにニット帽子だった。ここはもうやけ食いをするしかないということになり、サラダバーと会場の隅っこに置かれている椅子の反復横跳びを繰り返した。大量のサラダを貪りながら、隣人たちの会話が聞こえてくる。「わたしにはあのような方とも面識があって…」「今度本を出すことになりまして…」「現在はファンの方々も20000人を超えて…」などなど、どうしてなのだろうか、こういう言葉の数々を耳にする度に自分の中にある大切な部分が削られていくような気がして、なんだかいたたまれない気持ちになってしまった。

 

わたしは「自分は付き合う価値のある人間です」と必死にアピールをしなければいけない空間が苦手だ。このままだと環境に殺られる!と思ったわたしは、意識を別のところに向けるために「この会場の中で一番内面的な輝きを帯びているひとを探そう。そして、そのひとに『あなたに会えて良かったです!』ということを伝えて潔く散ろう!」と決めた。が、なんだかよくわからないひとたちに「さっきからずっとおひとりですが、ちゃんと楽しまれていますか?」などと囲まれてしまったものだから、わたしの自意識は暴走をして、ああ、これは楽しまなければいけないと言われていることと同じだ!となり、結果的に「楽しくないことを楽しんでいます」という最悪の捨て台詞を残してその場所を離れた。

 

結局、今回も30分程度しか人混みの中に滞在をすることができなかった。これまでの日々の中で少しは自分も成長をしたかななどと思ってこういう宴会の席に足を運んでみたのだけれど、見事にダメだった。参加者の方から「お名前は聞いたことがあるのですが、何をされている方なのですか?」と問われた時は「何もしていません」と答えてしまった。別の方から「わたしはまだブログを読んだことがないのですが、友達が絶賛をしていたので今度読んでみますね」と言われた時は「別に読まなくてもいいです」と答えてしまった。わたしは、なぜ、このような悪態をついてしまうのだろうか。多分、精神的に恐ろしく未熟なのだと思う(そして、そんな自分が好きなのだと思う)。この瞬間の動画を撮影していたらきっと読者の方々には爆笑してもらえるような気はしているのだけれど、多分、わたしのような人間は二度とこのような席に足を運んではいけないのだと実感した(主催者の方、本当に申し訳ありませんでした!)。

 

自分の外側に軸を求めるとブレる。

自分が感じた違和感を言語化したい。わたしは、財力があるとか権力があるとか諸々の実績があるとか、何かがあることを通じて自分を誇る限り、それはとても危ういことになるのではないだろうかと感じる。何かがあるからすごいということは、それがなくなった途端に「そのひとは無価値になる」ということになる。しかし、そんなことはないような気がする。ひとりひとりの人間の価値は『不増不減』のもので、誰かに悪く言われたからと言ってそのひとの価値が下がるわけではなく、誰かによく言われたからと言ってそのひとの価値が上がるわけでもない。逆に言えば、自分の自信を世間的な肩書きや他人の評価によって築いてしまうと、それがなくなってしまった瞬間に半端なく揺らぐ。世間の人々の評価などというものは所詮日和見的なものに過ぎず、ちょっとでも自分のイメージと異なる点を見つけた時は「なーんだ、がっかり」みたいな感じですぐに離れる。そんな頼りないものに自分の価値を預けてしまっては、死ぬまで揺らぎ続ける日々を過ごす羽目になる。

 

それでは、何に自分の基準を置けばいいのだろうか。どのような瞬間を通じて「自分に対する信頼」を築けばいいのだろうか。わたしの意見はシンプルで、多分、それは『自分のこころが感じるストレートな楽しさ』だと思う。言い方を変えると、誰かに認められるためにやることではなく「誰にも認められないとしてもやりたいと思うこと」の中に、金になるからやるのではなく「まったく金にならないとしてもやりたいと思うこと」の中に、そのひと自身の純粋な魅力は宿るのだと思う。自分のこころが感じる楽しさを、自分以外の誰かの責任にしないこと。世間的に素晴らしいとされていることをやるのではなく、自分のこころが素晴らしいと感じる瞬間を重ねること。誰に何と言われても、自分にとっては「これが最高だ!」と思える瞬間を積み重ねている人間には、そういう人間だけが獲得する生命の輝きが宿る。

 

生命の躍動、それは自分のこころが感じるストレートな楽しさの中に宿る。意味はなくていい、意義はなくていい、価値はなくていい、もっともらしい理由もなくていい、ただ、自分のこころがまっすぐに反応をしてしまうもの、どうしようもなく自分のこころが踊り出してしまうようなもの、そうしたものに捧げたいのちの時間だけ、生命は充溢するよろこびを覚えるものだとわたしは思う。生きている限り、誰の中にも「ああ、どうしようもなく、いま、楽しいや」と静かに強く感じた記憶はあるものだと思う。小さな頃、意味もなく駆け出していた時間。小さな頃、意味もなく跳ね飛びまわっていた時間。小さな頃、意味もなく広い世界の探索に出かけていた時間。その中に、楽しむことの中にこそ、自分【世界】を信用するための要素が隠されているのだと思う。

 

『スロー快楽主義宣言!』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、辻信一著作『スロー快楽主義宣言!- 愉しさ美しさ安らぎが世界を変える』です。森の生活の著者でもおなじみであります、アメリカの思想家ヘンリー・デイヴィッド・ソローさんは「どれだけのモノを手放すことができるかが、その人の豊かさを決める」などとおっしゃっておりますが、手に入れる量に比例をするのではなく、手を離した量に比例をするものが、豊かさであり『自由』ということなのかもしれないと思います。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、兵庫県にわたりました ※※※

 

ぼくは少し改まって、河野さんのビジネス哲学について探りを入れることにする。まずいきなり、あなたのは一体何のための商売なのか、と聞いてみる。すかさず「儲けるためよ」という答え。「そんなに儲けたいですか」という問いにはまずニヤリと笑った。

 

「儲けたいっていうとみんなギョッとするんだよね。でもやっぱり俺は儲けたい、と言う。だって社員の給料はまだまだ低いし、ボーナスもあげたいもん。でも俺のところに金を残そうなんてこれっぽっちも思っていない。企業者の良し悪しはいかに分配するかにかかっている。社員はみんなかわいくてしょうがないし、お得意さんもとても大切。商いってのは結局、人間関係であり、地域との関係なんだ。良い人間関係がつくれれば、モノは必ず売れる。地域の循環を大事にすれば、必ず良いものがつくれる。このふたつの関係を裏切らないような良いモノをつくる。それが良い商いだ。どっかでごまかせば、必ずいつかはバチがあたる」

 

「俺は借りの多い人間よりは、どっちかって言うと貸しの多い人間になりたい。その方が自由だよね、人間の生き方として。いろんなところに貸しをつくっておけば、いつか返って来る。でもまあ、返ってこなければそれも仕方がない。別に期待しているわけじゃない。それより大事なことは、ギスギスした世の中をつくらないことだ。貸しが返ってこなくても、嫌な世の中に暮らすよりはマシだもん」

 

辻信一『スロー快楽主義宣言!』【集英社

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

自分が楽しませたいのは、自分なんだ。 

いま、第一弾は東京から(やがては世界各国に)「誰でも自由に使える家」をつくれないものだろうかと四苦八苦をしておりまして、近日中にはクラウドファンディングを通じてみなさまにも支援を呼びかけさせていただく流れになるかもしれません。「新しい何かを試す時は、どうしたって危険が伴うものなんだ」というのはスナフキン先輩の言葉で、それは、単純な言葉でまとめると「失敗をしたらどうしよう」というものになるのだと思う。しかし、よくよく考えてみると「失敗をしたら失敗をしたでいいじゃないか、駄目なら駄目でいいじゃないか、それをしなければ絶対に得ることのできなかった体感があるのだから、きっと無駄になることはない。無駄になったとしても構わない。何かをやったと思えるその実感こそが大事なのだ」などと、そのような言葉をつぶやきながら自分自身にハッパをかけている。

 

クラウドファンディングを公開しました!】ごちゃまぜの家をつくりたい! - CAMPFIRE(キャンプファイヤー)

 

わたしは数年前に「傷つく前に傷つくな」という言葉を吐いた。その意味は「実際に傷つく前に、傷つくことを恐れることで自分を傷つけてしまってはいけない」というものになる。多分、人間を駄目にするのは社会の厳しさでもなければ周囲の無理解や自分自身の能力の欠如や才能の欠如や自信の欠如でもない、それは「自分のこころが抱く恐怖心」だと思う。実際に試してみる前は到底無理だと思えるようなことでも、実際に試してみたら「意外とどうにかなった」ことは多い。わたしは、そのことを過去2年間に及ぶ家のない生活を通じて実感をした。ブルーハーツの情熱の薔薇という曲の中に「見てきたものや聞いたもの いままで覚えた全部 デタラメだったら面白い そんな気持ちわかるでしょう」という歌詞がある。これがなければ生きていけないと思っていたことのどれだけが真実で、どれだけが「実はまるでそんなことはなかった」のか。こうあるべきとされている外側の世界に触れた時、わたしは、いつだってその世界を爽やかに吹き抜ける自由の風に助けられてきた。

 

大切なことは自分の感覚を信じることなのだと思う。そのことが、結果的に自分を大切にすることに繋がり、ひいては自分に対する信頼を築く軸になるのだと思う。巷では「お客様満足」などという言葉もあるけれど、この世ランドに生きている限り、誰もが「自分にとって最高のお客様は『自分自身』である」のだと思う。自分を満たすことに成功をした者だけが、周囲にいる人間のこころも真の意味で満たすことができるのだろう。誰かのためとか言っていないで、自分のために生きること。自分が楽しませたいと思っているのは、他の誰でもない自分自身であるということを認めること。自分を真の意味で楽しませることができた時、それは決してひとりよがりなものにはならないと思う。悲しみは伝染をするように、よろこびは伝染をする。自己犠牲的な営みの先に築かれる調和ではない、各々の幸せの余剰として築かれる平和【作品】を生み出していきたいのだと、そういうことを考えている。

 

 

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飯田橋の朝日。。。

 

人生は続く。


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