いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

「頑張って」を超える言葉。

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誕生日の数字を足して『7』になるひと(7日、16日、25日生まれのひと)はドラゴンテイル【頭がない尻尾だけの龍】と言われるみたいで、正道よりも覇道を好み、感情や行動がグワングワンとしているために周囲や世界を震撼させる。誕生日の数字を足して『4』になるひと(4日、13日、22日、31日生まれのひと)はドラゴンヘッド【頭だけで胃袋のない龍】と言われるみたいで、王道こそ命であるものの、食べたいもの・行きたい場所・やりたいことがあり過ぎて消化不良を引き起こしているなど、尽きることのない貪欲さを意味する。

 

私は4月7日生まれなのでドラゴンテイルということになる。この話を教えてくれたMAYUCHAPAWONICA姫も8月16日生まれなのでドラゴンテイルということになる。ドラゴンテイルの特徴に「こだわりや執着は少ないけれど、まるで統制が取れていないカオス野郎になりがち」的なものがあって、だからこそ、頭意識でガッチリ統制を取ることが得意(やりたいことがたくさんあるけれど体が足りなくて困っている)ドラゴンヘッドとの相性は抜群だと言う。そのような話を昨夜渋谷のカフェで交わしていて、私は、誕生日の数字を足して『4』になるひとに混沌から救い出して欲しいと思い始めた。

 

【CHAPAWONICAとは?】まゆの懺悔部屋♡かみさまでごめんなさい - CHAPAWONICA BLOG ~らぶ&ぱぽぷ~

 

古い自分を殺す。

新しい自分になるためには古い自分を一回殺す必要があるというのは世の常で、多分、延命措置に未来はない。私の行動基準は単純に「面白いかどうか」というもので、面白そうであれば留まり、あんまり面白くなさそうな時は離れる。長居はしない。この「長居はしない」という言葉は最近のキーワードで、どれだけ素晴らしい環境や人間と一緒にいても、だらだらとした時間を過ごすほどに張り合いは失われる。さっとあって、さっと刺激を交わした【生きていることを確認した】後に、では、また会いましょうと言った感じで颯爽と別れるくらいが調度良い。

 

最近の私は、自分自身に「平和ボケで停滞をしている」ように感じている。平和にあぐらをかいている私は、多分、この辺りで一回自分を殺す必要がある。自分を殺すということは「自分の中でタブーとされていることをやってみる【自分が恐れていることをやる】」ということと同義で、私は、果たして何を恐れているのだろうかと自分を振り返ってみたけれど何も見つからなかった。現代社会を暮らしていると「金とセックスと死」の話題はタブーとされがちだなあと思うことはあるものの、私自身はこの辺のことには(いまのところは)あまり葛藤を抱いていない。その代わりに『家族』というキーワードは非常に面白くなりそうだなと感じることはある。

 

人間関係の悩みの9割は「家族(特に両親)との問題が解決していない」ことが原因で引き起こされているのではないだろうか、などと思うことがある。逆に言えば、家族との問題が解決すればひとは自由になるのかもしれない。金などの問題は表層的なもので、金を通じて湧き上がる「親の期待」であったり「親から刷り込まれた価値観と自分の本音とのすれ違い」などが、そのひとを苦しめているのではないだろうか。『親は親。自分は自分。以上!』みたいな感じに考える(あるいは、家族に対してずっと言いたかったけれどまだ言えてないことを勇気を出して言う)ことができたら楽にはなると思うけれど、多分、そんなに簡単にはいかないのだと思う。

 

現代版の子連れ狼

稀に「現代版の子連れ狼になる」なんてどうなんだろうと空想をすることがある。私の動物占いは『狼』で、群れをなすことよりも単独で動くことを好む。そのような態度が、ある種の冷たさとして周囲から受け取られることもあるけれど、代わりに「こいつは!」と思った人間には集中的に深い愛情を注ぐ。そんなことはどうでもいい話ではあるのだけれど、私は、元来実験的なことをするのが好きなタイプの人間なので「こどもをこんな風に育てたらどうな風になるのだろう」という興味がある。こんな風に、というのはつまり「赤ん坊の頃から父親におぶられながら全国各地を流転して、都度都度、その地域に『期間限定の母親』を見つけて一週間くらい放置をして世話をしてもらう」という育ち方だ。

 

私は、多分、自分だけの力で生きるつもりがないのだと思う。どのような形であれ、こどもが生まれた後も「今回は友達Aに一週間位預けて、次回は友達Bに一週間位預けて、その次は佐渡島に流刑をしよう」などと考える気がする。いろいろなひとに育ててもらった方が面白いこどもになるような気がするという言い訳を盾に、自分の元から手放していくのだと思う。この「自分のもとから手放す」というのが最近のキーワードで、多分、自分自身さえも「自分のもとから手放す」ということこそ、私は、(非常に伝わりづらい話だとは思うけれど)自分を殺すということなのかもしれないと思う。自分を守るのではなく自分を投げ出す、自分を捧げる、自分を自然の真ん中に放り投げることが、結果として『自分が生きる』のではないだろうかと思うことがある。

 

同時に「全国各地に自分のこどもが総勢100人位いたらどうなるのだろうか」と空想をすることもある。これは、大量の妻を抱えたい欲求があるということではなくて「自分のこどもとかあのひとのこどもとかそういう垣根を取っ払って、全部『みんなのこども』でいいんじゃないだろうか」と思うからです。この辺のことは非常にセンシティブな話題になるので、自分でも無意識の内に周囲のひとびとをざわつかせたり時には傷つてけしまう(魔女狩りの対象になる)こともあるから迂闊には口にすることはできない。ただ、自分が、自分が、となってしまうほどにひとは自由を失ってしまうもので、自分も他人も本質的には差異のない『全部が自分なのだ』と腹の底から感じることができた時、ひとは自由になるのだと思う。金とセックスと死だけではない、私の次の興味は『家族【家族の再構築】』にあるのだと思う。

 

【過去記事】 わたしの教育方針「10歳成人説」 - いばや通信

 

『多生の縁』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、玄侑宗久著作『多生の縁』です。玄侑宗久さんの著作をはじめて目にしたのですが、玄侑宗久さん、非常に謙虚で寛容でお坊さんなのに説教くさいところがまるでなくて、こちらの本は非常にグッドフィーリングでありました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、パリにわたりました ※※※

 

玄侑宗久宮沢賢治が蝋燭の灯芯のようにわが身を削って世の中を照らそうとした姿は偉大だと思うんですが、彼の『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない』という言葉は、人を縛るのではないでしょうか。自分が幸福だという感覚をまず持つことが、大乗、小乗にかかわらず、先だと思うんです。(中略) 私はお釈迦さまが不害の説法で、パセナディー王から『世の中で一番可愛いのは自分だと考えていいんですか』と訊かれて、『間違いない』と答えた話が大好きなんですね」

 

梅原猛「それは自利ですね」

 

玄侑「おそらく、世界の宗教家で、自利をあんなにすっきり肯定した人はいないだろうなと思います」

 

梅原「西洋哲学だと、プラトンは自己犠牲を重視するのに比べて、アリストテレスは『幸福論』でも書いているように、まず自分の幸福を人に伝えるべきだと主張している。お釈迦さんに似ているところはありますね」

 

玄侑「日蓮さんは、数々の法難に遇って、真理はそう簡単に理解されるものではないという考え方だった。キリストも、現世であまりいい目を見ていないですね。そういう生き方にこそ真理があるという考え方も成り立つと思いますが、いっぽうお釈迦さまが八十歳まで悠々と生きた、その大きな流れの中にこそ真理があるんだという考え方も成り立つと思う。私としては後者にこれから流行ってほしいと思っています」ー 玄侑宗久『多生の縁(梅原猛氏との対談部分から引用)』【文春文庫】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

「頑張って」を超える言葉。

人間は、多分、頭と心と腹の三つで感じている。頭は損得勘定で、心は居心地の良さやテンションの高低、腹は静けさと共に腑に落ちる確信や覚悟や「ああ、自分はこういう人間なんだ」というある種の諦め。頭で考えることは周囲の意見に流されやすい。心で感じることは世間の感覚に流されやすい。腹に落ちることは流されない。自分の中心にあるものだから揺るぎがない。私は、ひとの話を聞くときは「このひとの言葉は頭から出ているものだろうか、それとも腹から出ているものだろうか」ということを無意識の内に聞いているのだと思う。頭から出てくる言葉は、どれだけ素晴らしいものであろうとも心に響くことは滅多にない。腹から出てくる言葉は、表面的にはどれだけネガティブなものであろうとも、ある種の温もりを覚える。それは「生きている【このひとの言葉は生きている】」という温もりだ。

 

先日、とある女性と話をした。その方は3月いっぱいで現在の会社を辞めて、4月からはフリーランスで独立をする予定なのだけれどお金のことや将来のことを考えると時折すごい不安になることがあると話してくれた。その後、すぐに彼女は「大丈夫、大丈夫、日本だから餓死をすることはないし、不安はまだ起きていないことを先回りしているだけのことだし、助けてくれるひともきっとたくさんいるし、うん、大丈夫だと思っていれば大丈夫ですよね!」と自分の本音を訂正した。私は、彼女が自分に言い聞かせている激励の言葉は全部頭から出ているもののような気がしたので、ポジティブな言葉の中にネガティブな響き【苦しさ】を見た。きっとつらいのだろうなと勝手に思い、肩の力を抜くことができますようにと勝手に祈り、頭から出てくる言葉でカラダを満たしてしまうことで、結果的に腹から出てくる『本当の言葉』が湧きあがる瞬間を奪うことにはならないで欲しいなどと勝手に願った。

 

「頑張って」を超える言葉はあるだろうか。いま、何を言葉にして伝えたら、目の前にいるひと【そして自分自身】の気持ちを楽にすることができるのだろうか。いつも前向きでいなければいけないという思いは、ある種の罪悪感や強迫観念の鎖となって、そのひと自身を固く縛り上げてしまう。私は、頑張らないでいいと思う。しかし、そんな言葉を言ったところで虚しく響くだけだ。それならば、どのような言葉を選べばいいのだろうか。何を言えばいいのだろうか。彼女と別れた後、夜の街を歩きながら、私の中にひとつの言葉がふわっと浮かんだ。その言葉は「全部、それでいいよ」という言葉だった。悩むのも怖いのも不安になることもおかしいことじゃない、弱さでもない、醜さでもない、全部、そのままでいいのだ。自分の中にあるものを打ち消そうとするのではなく、それがあるならば、それがあるまま、ありのままの姿で生きようとするひとの勇壮な生き様が、見るひとのこころにもまた『生きていることの温もり』を生むのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

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