いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

弱さは、希望だ。

f:id:ibaya:20170124093755j:image

 

静けさを身にまとうものが好きだ。数年前、北欧の街々を訪れた際に「この場所は、街全体が静けさを着こなしている」と感じた。コンビニやレストランでは過剰なBGMやアナウンスが流れることは少なく、生活の音だけが空間に響く。落ち着くということは「自分の内面にある静けさを護ること」かもしれないと思った。追い立てられるように過ぎていく時間の中で、周囲の声や過剰に溢れる情報の中で、ふと、自分の内面の静けさを見失ってしまうことはある。しかし、すべてのひとの心の中には「そのひと自身の静けさ」があり、騒がしい頭意識の裏側には、常に、静寂で美しい世界が広がっているのだと思う。

 

いま、広島駅前にあるホテルにいる。

 

熊本を経由して福岡県にはいり、私に声をかけてくれた方と一緒に豊前市にある求菩提山に向かった。山の中腹部にはすでに大量の雪が降り積もり、もうこれ以上先には車で進むことはできないという所まで来て、車を降りた。静けさに包まれた澄んだ空気の中、雪の上を歩く。あたりには何もない、ただ、風の音と、雪の音と、歩く音と、呼吸の音だけが響く。途中、立ち寄ったお寺の境内にはたくさんの地蔵が並んでいた。地蔵たちの頭の上には冷たい雪が降り積もっているけれど、地蔵たちの表情は穏やかで、そして、温かい。

 

花の連鎖。

私は、花が好きだ。誰かと会う予定があるとき、時間に余裕がある限り、手近な花屋さんで一輪の花を買う。花を買うと、その花を渡すひとに会うことが楽しみになる。また、日常的に言葉を扱うことが多いからなのだろうか、言葉以外のものに自分の気持ちを乗せることができた時は嬉しい。うまく言葉にできない部分を、一輪の花が代弁する。そんな風に感じることがある。だからなのだろうか、隙間時間を見つけては花を買う、いま、広島のホテルには福岡県の道端に咲いていた水仙の花が活けられている。空間に花があるだけで、何かが変わるような気がしている。

 

鹿児島で出会った女性は、私に三輪の花をプレゼントしてくれた。その方は「坂爪さんは花を贈ることが好きだと言っていたので、このお花たちを、次に会う方々に渡してもらえたらと思って持って来ました」と話す。こんな形での花の贈り方もあるのかと、そして、このような気持ちで花を購買してきてくれる女性もこの世の中にはいるのかと、ほんとうに素晴らしいものを見た気がした。また、鹿児島で出会った別の女性も、胸ポケットにさすための小さなバラをいくつも用意してくださり、男性陣の方々に渡していた。特別なことではない、大袈裟なことでもない、でも、確かに空間全体の空気に彩りを与えるこまやかな心配りを見て「美しい」と思った。

 

感謝と奢り。

様々な方々と出会う日々の中で、どうしても「このひとのことは好きになれるけれど、このひとのことは好きになれない」と感じることがある。好きなひとを好きになることはたやすいけれど、苦手なひとを好きになることは難しい。それでも、ひとりひとりの話にしっかりと耳を傾けることができた時、ああ、このひとも自分と同じ人間なのだ【みんな、頑張って生きているのだ】という共感の温もりが生まれる。そして、そのひとのことを苦手だと思った自分の感覚を恥じると同時に、最初は苦手だと思ったひととでも関係性を結び直すことができた瞬間を通じて「世界が広がる」感覚を覚える。出会えたことを嬉しく思い、感謝の気持ちが湧く。そして、なぜ、感謝という言葉の中に『謝る』という感じが含まれているのかということを、感覚的に知る。

 

自分は正しいと思っている人間に正しい人間はいない。自分は偉いと思っている人間に偉い人間はいない。そういう、人間的な「奢り」の部分をきよらかに打ち砕くもの、それが感謝と呼ばれるものだと思う。生きていると、どうしても『自分は自分の力で生きているのだ』という傲慢な思い【奢り】が生まれることがある。人間関係においても、自分は正しい、間違っているのは相手だ、だから自分は悪くない、悪いのはあいつの方だ、などと考えてしまうことがある。そういう時に、私は「奢りのど真ん中」にいるのだと思う。悪を糾弾するこころも悪であり、同じように、醜を糾弾するこころも醜だと思う。自分のことを棚にあげて他人の生き方をああだこうだと叫ぶ時、多分、その人自身のこころは汚れている。

 

それを洗い流すものが「謝」だと思う。自分の奢りが打ち砕かれた時、いかに自分が周囲の人間に対して優しくできていなかったかを知り、いかに自分が調子に乗ってしまっていたかを知り、そして、いかに自分が「自分は正しい」と思い上がっていたのかを知る。自分の力だけで生きている人間はひとりもいない、食料も、金も、空気も、自分の力ではつくり出すことはできない。自分の力で生きているのではなく、様々な恩恵によって「生かされているのだ」と痛感をする時に抱く思い、多分、それが感謝だと思う。感謝の気持ちを忘れた時、私は「世界全体から切り離される痛み」を覚える。自分の力で生きているという思い上がりは、生かされているという感覚を奪う。生かされているという感覚を失う時、私の中に奢りが生まれ、奢りによって痛みを覚える。

 

『これが私の優しさです』

f:id:ibaya:20170124093810j:image

 

今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、谷川俊太郎著作『これが私の優しさです』です。こちらの本は、鹿児島県でお会いした女性が「旅に出る時はいつもこの本を連れていく、私にとって大切な一冊です」というお言葉と共に、託してくれた一冊です。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、大分県にわたりました ※※※

 

窓の外の若葉について考えていいですか

そのむこうの青空について考えても?

永遠と虚無について考えていいですか

あなたが死にかけているときに

 

あなたが死にかけているときに

あなたについて考えないでいいですか

あなたから遠く遠くはなれて

生きている恋人のことを考えても?

 

それがあなたを考えることにつながる

とそう信じてもいいですか

それほど強くなってもいいですか

あなたのおかげで

 

谷川俊太郎『これが私の優しさです』【集英社文庫】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

弱さは、希望だ。

最近、疲れた時に「弱さを受け入れると、力が出る」ということを思った。自分は弱い、自分にはこういう弱さがあるのだと認識をした時、不思議と、そのままの自分を受け入れたいと思う力のような、これが自分なのだから、これで生きようと思う力が、そして、このままの自分を受け入れた上で「少しでも強くなりたい」と思う力が、自分の内側から静かに湧き出すことを感じる。肩に力を入れた状態で「頑張ろう!」と思うのではなく、自分には頑張れない瞬間があるのだということを認めると、不思議と、頑張ろう【これからも生きていこう】と思う力になる。

 

弱さは希望だ。様々な方々と話す機会を通じて、ひとには見えない部分で誰もが頑張って生きているのだということを思う。幸せそうに見えるひとも、誰にも言えない孤独や不安を抱えていて、後ろ指をさされるような生き方をしているようなひとの中にも、崇高な美はある。自分を責めてはいけないのだと思う。同じように、他人を責めてはいけないのだと思う。生きているということは、それだけで、充分に頑張っているということなのだと思う。

 

強くなりたいと願うこと、それが希望になるのだと思う。この希望は、弱さによって支えられている。自分の弱さが明るみに出る瞬間には苦痛が伴うけれど、その先に、いまよりも透明な、いまよりも濁りの少ない、いまよりも透き通ったこころの状態があるのだと思う。弱さは悪いことではなく、形を変えた希望なのだと私は思う。だからこそ、難しい場合もあるけれど、自分を含めた人間を咎めることにエネルギーを使うのではなく、温かな共感を生み出す方向へ、自分のこころの舵を取っていきたいと思う。

 

 

f:id:ibaya:20170124093755j:image

 

人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu