いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

これで終わりだと思えば取り戻すことのできない悲しみになるが、これからも続くのだと思えば、次の希望になる。

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いろいろなことを終わらせるために、新潟市内に来た。昨日、新潟地方法務局に足を運んで、およそ2年半続けた「合同会社いばや」を解散した。いばやとは、とにかくやばいことだけをやるということをコンセプトに、2013年の夏に私と(地元・新潟高校の同級生である)MAYUと一緒に、設立をした法人になる。

いばやには幾つかの仮説があった。ひとつは「自分たちが『これはやばい!』と思うことをやっていれば、それを面白がってくれるやばい人達が現れて、化学反応が起きて、結果とんでもないわっしょい状態になる」というものだ。他には「宇宙の摂理として、新しいことをやろうとしている人間は死なない」とか「世界は未来に行きたがっている」とか「自分たちの活動が未来にとって必要なものであれば、それを見た誰かが『こいつらを餓死させてはいけない!』と思って助けてくれるだろう。しかし、自分たちの活動が未来にとって必要のないものであれば、私たちは死ぬだろう」というもの、などがあった。


金になるかどうかなんて、どうでも良かった。大事なことは「生活のためではなく、生命のために生きることだ」と思っていた。生活のためだけに生きるのはむなしい。職業という限定的な枠の中に自分を押し込めて生きることは、自分にはとても苦痛な時間だった。私にとって、本当の意味で生きるとは「どれだけ想定外の出来事に遭遇し、どれだけ自分の心を躍動させることができるか」にかかっている。こうした思いはいまも変わらないし、いばやをはじめたおかげで、いばやがなければ絶対に遭遇することができなかった幾つもの面白い目に遭えた。そして、プロの定義は「飯が食えている」ことなんかではなく、食えなくても、それで生きると決めた人間の覚悟なのだと思うようになった。


私は金に弱い人間だ。そのため、当初は法人にするつもりなんて微塵もなかった。しかし、いばやという活動をやりたいのだという話を仲間内で交わしていたら、友人のひとり(名前を阿部と言い、後に、坂爪は日本中の阿部を崇拝するようになる)が「俺も、いまの時代にはバカが必要だと思っていたんだ」という言葉と共に、我々に50万円を現金で与えてくれた。それならば、ということで私も「面白いことが起こり得る使い方をしてやろう」となり、任意団体とかではなく法人にした方が面白い目に遭えそうな予感がするという、それだけの理由で会社を設立した。

その後、私はふとしたきっかけ(同棲していた彼女と別れたことをきっかけに約二年間の『家のない生活』を続けるなど)を通じて、結果的に、当初の仮説はあながち間違っていなかったことがわかった。世界は未来に行きたがっているということ、宇宙の摂理として新しいことをやろうとしている人間は死なないということ、傷つく前に傷ついてしまってはいけないのだということ、心のままに生きていれば人生は意外とどうにかなるということ、奇跡は余白に舞い込むということ、そのままでいい、自然なままの姿が一番素晴らしいのだということ、そして、調子に乗ったら即死する(自分自身ではなく、自分を支えてくれている人たちこそが偉大なのだ)ということ。

いままでは、一応会社の経営者という社会的な肩書きはあったものの、これでもう、私は何者でもないただの30歳男性(無職)になる。会社を解散するにあたって10万円近い金が吹っ飛んだので、何もない、残されているのは自分の体温とこの命だけであるという、長年お世話になっている定位置に舞い戻った。しかし、あらゆる生命は真っ裸のままで生まれてきて、そして、真っ裸のままで死んでいく。この点に関しては、誰ひとりとして例外のいない、限りなくフェアな真理だと思っている。


語り始めるとキリがないが、いばやを設立していなければ絶対に発生しなかった幾つもの出逢いに恵まれた。言葉にはならない、素晴らしい二年間だったと思う。出逢いのすべてを紹介することはできないが、ちょうど1年前、いばやを通じてみっつと出逢った。なぜ、いばやを解散するのか。それは「役割を終えたから」であり、もう、いばやは充分に役割を果たしてくれた。役割とは『価値観が大きく変わろうとしている中で、古い時代と新しい時代の橋渡し的な存在になる』というものであり、多分、この橋は(少なくとも自分自身には)もう必要がない。会社をやって、自分は経営者には向いていないのだということがはっきりとわかった。そして、生きている限り、ハッピーエンドもバッドエンドもない。これで終わりだと思えば取り戻すことの出来ない悲しみになるが、これからも続くのだと思えば、次の希望になる。


最近の私は、おかしな言い方になるが、自分の背後に「青龍」の存在を感じている。青は静けさの象徴であり、海や空の象徴でもあり、新しい暮らしがはじまる伊豆山の家の象徴でもあり、また、赤い炎よりも熱く燃えている青い炎の象徴でもある。この青龍は、常に自分の背後にいる訳ではない。自分が「自分のため」とか「名誉のため」とか「金銭のため」とか「誰かを見返すため」とか、つまらない動機で何かをやろうとしはじめた瞬間に、この青龍は姿を隠す。青龍が消えた時の自分は弱く、脆く、醜い。しかし、青龍が背後についている時の自分は、多分、無敵になる。


勝手に終わらせるひとがいるだけで、終わりなんていうものはないのだ。これで終わりだと思えば取り戻すことのできない悲しみになるが、これからも続くのだと思えば、次の希望になる。2016年の自分の脳味噌は何を編み出すのか、2016年の自分の両腕は何を抱いて、2016年の自分の両足は何処の大地を踏みしめるのだろうか。期待は自分自身に寄せるものであり、他人に寄せた瞬間に甘えになる。それならば、私は、これからの自分に期待をしたい。取るに足りないひとりの人間にも、自分にも生まれて来た甲斐があったのだと、生きてきてよかったと、全身全霊で感じていたい。

人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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