いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【HND-渋谷】「(瀕死でも)生きてやるぜ」という態度を示し続けること。

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全身に悪寒が走ってトイレに30分くらい篭り、滝汗が足元に水溜りをつくって死ぬのかなと思ったけれど、峠を越えたら復活をした。悶絶しながら「自分が食べているものが自分をつくる」ということと、肉体は最大の資本だという当たり前のことを痛感した。数日前から続いている体調不良に悩まされて、現在は、渋谷にあるカプセルホテルで避難訓練をしている。食生活はズタボロで、睡眠時間もままならない日々が続いていた。様々な方々から心配の連絡をいただいているが、そのすべてに返信を出来ないでいる。メールに返信をする気力も、カプセルホテル以外の新しい寝床を探す気力もないけれど、こうしてブログを更新する気力だけは残されていた。多分、自分には何かを書くことしか脳がないのだということを、身体の何処かで強く実感しているからなのだと思う。

様々な方から「大丈夫ですか?寝る場所はありますか?何処にいるのですか?ごはんはちゃんと食べていますか?」という心配のメールが届いた。ありがたい話なのだと思う、ありがたい話なのだと思うのだけれど、心配されるほどに自分のエネルギーが奪われるのを感じていた。朦朧としながら「大丈夫です、ありがとうございます」という返信の文章を打ちながら、同時に「勘弁してくれ」という気持ちが湧き出して来て、最悪なイメージが頭の中を縦横無尽に駆け巡るようになり出した頃、消し去ることが出来ない確かな実像が実を結び、やがて、返信をするために必要な気力が尽き果てた。


多分、わたしたちは本能的に自分の無力さを知っている。だからこそ、誰かの役に立つことができたのだという瞬間の中に、言葉に出来ない喜びを覚えたりする。自分の無力さを痛感する瞬間は酷で、だからこそ、そういう瞬間を味わいそうになった時には強烈な警戒心が働く。この世の中で一番惨めなことは、金を失うことでも、世間的な評価を失うことでも、周囲の人間から馬鹿にされることなんかでもなく、自分にとって大切だと思う人に、自分は何も力になることができないのだということを身をもって痛感させられることだ。幼児期の経験や、外側の世界が崩壊するようなある種の体験を通じて、わたしたちは、多分、そのことを潜在意識に刷り込まれている。だからこそ、強くなりたいと願う。優しくありたいと願う。身近な誰かが困っているのを目の当たりにした時は、何かをしてあげたいという気持ちになる。その感情の裏側には「自分の無力さが証明されてしまう」ことに対するある種の恐怖や不安など、自分を維持するための切実な何かが含まれている。

二年前、当時、同棲をしていた彼女と別れたことをきっかけに、私の「家を持たない生活」ははじまった。その時も、様々なひとが心配の言葉を投げかけてくれた。家がなくても大丈夫なのか、金がなくても大丈夫なのか、仕事がなくても大丈夫なのか、これからいったいどうするつもりなのか、結婚はどうするのか、いまは良くても年をとったらどうするつもりなのか、親はどういうつもりなのか、など、様々なひとが様々な言葉で「お前のことが心配だ」というメッセージを私に向けて伝えてくれた。まあ、きっと、どうにかなるだろうなどと言ってくれるひとは圧倒的に少なく、そりゃあそうだろうなあと思ったことを思い出した。ただ、当時、強烈な異彩を放つ三通の連絡も届いていたことを思い出した。


一通目の連絡は、女性の友達から届いた。私の名前は坂爪圭吾(さかつめけいご)で、女性の友達は私のことを「けーちゃん」と呼んでいた。世界中を旅することが好きな、自由で、天真爛漫な同年代の女性だった。私が「彼女と別れてホームをレスした」的な内容の投稿をしたら、それを見た彼女から一通の連絡が届いた。メールのタイトルは、確か「けーちゃん、元気を出せ」的なものだった。メールに本文はなく、代わりに一枚の画像が添付されていた。私は画像を開き、そして、驚愕した。そこには満面の笑みを浮かべている全裸の彼女の写真が映っていて、手書きの下手クソな文字で「けーちゃん、元気を出せ」的なことが乳首の付近に書かれていた。

私は見てはいけないものを見てしまったような気持ちにもなったが、しかし、元気をもらった。とんでもない女だな、と思いながら、思わず笑顔になってしまっていたのだ。「こいつはバカだ!」という爽快な思いに全身が包まれて、強い驚きと戸惑いを覚えた後に、不思議とうれしさが込み上げてきた。「こいつはバカだ!」と思える瞬間の中には、涙が出るほどのうれしさが宿る場合がある。いいんだ、こんな自分でもいいんだ、生きていてもいいんだ、バカなままでいいんだ、バカなままがいいんだ、笑うことを自分に許してもいいんだという『存在に対する許可』的な雰囲気が満ち溢れていて、あらゆる人々が「お前は大丈夫じゃない」ということを伝えようとしてくる中で、大丈夫、どうにかなる、生きていける、そんな気持ちが自分の内側からふつふつと湧き出して来るのを感じていた。

二通目の連絡は、私と同じタイミングで恋人と別れた女性からの連絡だった。彼女も「けーちゃん!私も同じ日に同じタイミングで彼氏と別れたんだよ!なんだこれ!悲しいけどうれしい!」みたいなことを叫んでいた。悲しみを中和するのは喜びだけではない、悲しみが悲しみを中和することもあるのだ、というようなことを思った。三通目の連絡は、男性の友達からの連絡だった。男性からの連絡には「俺の部屋はいつでも空いている。ほんとうに死にそうになったらいつでもここに来ればいいから、安心して死ね。」というようなことが書かれていた。彼等からの言葉には、私の身に降りかかった火の粉的なものに対する憐憫の情がない。安心して死ね、だ。どちらかと言うと、私に降りかかる火の粉を一緒になって面白がっているような、そんな印象を受けた。そして、私は、紛れもなく彼等のそういう態度に助けられていたのだということを思った。


生きていると様々なことがある。家がなくなることもあれば仕事がなくなることもあるし、死ぬほど体調が優れない時もあれば、大切なひととの絶対的な別れを通過しなければならない瞬間もある。深い悲しみや強い苦しみに襲われた時、自分は何のために生きているのか、自分の日々に意味はあるのか、これがいったい何のためになるのかということで思い悩むことが、生きていれば、誰にでもあると思う。

自分自身の無力感や不安に押し潰されそうになる中で、それでも、生きようとする姿勢を示し続けてくれる存在は、大きな勇気と慰めを与えてくれる。同じように、自分には何もなくても、特別なことはできないとしても、それでも、精一杯に生きようとする姿を示すことは、それを見る人の心に何かを与えることができる。自分以外の他人に対して出来ることがあるとすれば、それは、様々な葛藤や障害に打ちのめされながら、それでもなお「生きてやるぜ」という態度を示し続けること、それだけなのかもしれない。

生きることを悩むのは、生きていたいと強く願っているからだ。不器用でも、無様でも、無能でも、無力でも、生きようとする姿を示すことは、見る人の心に何かを与えることができる。生きているのはいまだけだということ、そして、現にいま、こうして生きているじゃないかということ、生きているからこそ様々な感情に悶え苦しみ時には瀕死の状態に置かれることもあるけれど、ダイナミックな感情の起伏の中で踊りながら「生きているぜ」と、そしてこれからも図太く「生きてやるぜ」と、ニッコリと、笑っていたい。

人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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