いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【MAD-マヨルカ島】自分に恥ずかしくない生き方をするということは、恥の多い生き方をするということと、多分、同じだ。

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マドリードを経由して、地中海の真珠で名高いマヨルカ島に入った。マヨルカ島の主要産業は観光業であり、事実、街並みもビーチも料理も素晴らしい。ドイツ人にとってのマヨルカ島は、日本人にとってのハワイみたいなものになる。唯一の違いは、欧州はLCC(格安航空会社)が発達しているために、ハイシーズンの九月でさえも、近隣諸国に片道5000円程度から行けることだ。


マヨルカ島に来ることになったきっかけは、日本から私のもとに届いた一通のメールだった。そこには、このような内容の事柄が書かれていた。ー いま、わたしの妹がスペインのマヨルカ島にいる。一ヶ月くらい生活をしているのだけれど、言葉の壁により精神的なストレスを抱えていないか心配なので、もしよかったら航空券代金は自分が負担するので、妹に会いにいってくれませんか?

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このメールが届いたのが今週の日曜日。私はまだマドリードにいて、大幅な金欠により「さて、これからどうしようか。野原で横になりながら、お花さんや、小鳥さんと友達にでもなろうか」などと考えていた。そのような状態の中で届いたメールだったので、マヨルカ行きは速攻で決まった。翌日の月曜日の昼には、私たちはマヨルカ島に到着した。



奇跡は余白に舞い込む。


ショパンが療養のためにも訪れていたマヨルカ島は、年間300日は晴れるという素晴らしい気候にも恵まれている。そこで私たちは合流した。待ち合わせ場所に数時間遅れたことや、現地テレビ局から謎の取材を受けたこと、途中で知り合った日本大好きなスペイン人「ダビッド君(18)」が仕事をサボって夕食をご馳走してくれたことなどは割愛する。

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奇跡は余白に舞い込むという。スケジュールが余白だらけだった我々は、こうして奇妙なご縁の恩恵を被ることができた。マヨルカ島でお会いした女性の名前はHさん。Hさんとは様々な話をしたけれど、その中でも一番印象に残った「恥ずかしさ」について、色々と思うことがあった。



マヨルカ島ヌーディスト(ではない)ビーチ「イレテス」


Hさんの案内で、マヨルカ島にあるビーチに来た。市街地からバスで30分程度の距離にあり、非常にアクセスが良好で大量の旅行客で賑わっている。海の青さが常軌を逸していた。青い。とにかく青い。こんなに綺麗な青を見たのは、生まれてはじめての経験だった。

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このビーチはヌーディストビーチな訳ではないけれど、欧州の女性陣は年齢を問わず平気で上半身裸になる。日常的に女性の裸を目にする機会は少ないけれど、このような場所では普通になる。普通だったら恥ずかしいこと、この「恥ずかしさ」とは何だろうか。人間は何に対して恥という感覚を覚えるのだろうか。

見られることが恥なのか、見られないことが恥なのか。

Hさんは趣味でベリーダンスをやっている。ベリーダンスの衣装は露出が激しい。平気でお腹を出したり、要するに自分の体型が露呈する。最初はHさんも「お腹を出すなんて恥ずかしい!」と思っていた。しかし、やがて「みんながお腹を平気で出している衣装を着ている中で、自分だけお腹を隠した衣装を着ている、まさにこのことが恥ずかしい」という風に思うようになった。

最初は「出す」ことが恥ずかしいと思っていたHさんも、やがては「出さない」ことが恥ずかしいのだと思うようになった、ということを話してくれた。恥の概念(?)が逆転したのだ。「その場に馴染まない自分が恥ずかしいのかもしれない」とHさんは話した。そして、私も思い出したひとつのエピソードを話した。

「隠すから恥ずかしい」ということ。

私は男なので、銭湯や温泉などでは男風呂にはいる。当たり前のことだけれど、そこには男しかいないので、誰もがすっぽんぽんのままで施設内を歩いている。しかし、稀に二十歳くらいの男子が、恥ずかしそうにタオルで前を隠しながら歩いているのを見ることがある。誰もが普通に晒け出している中で、彼だけが前を隠しているために、異様に目立つ。自然と視線は彼の方にいき、結果的に彼は「自分を隠すことで逆に目立つ」という、期待している効果とは真逆の事態が発生してしまっている。

隠すから恥ずかしいのではないだろうか。私は、彼を見ながらそういうことを思った。何かに対して「恥ずかしい」という感情を抱く時、その対象を出来るだけ人目に触れないように隠そうとする。この心理は理解できる。しかし、隠すから恥ずかしくなるということであれば、見られて困るものがないひとは、何も恥ずかしがる必要はないということになる。

自分に恥ずかしくない生き方をするということは、恥の多い生き方をするということと、多分、同じだ。


恥ずかしさが自分の行動を抑制してしまうことがある。たとえば、いまの私は海外にいる。言葉が通じないことを恐れて積極的に他人にコミュニケートできない(取材にまともに答えられない)時などがある。そういう時、私は何を恐れているのだろうか。何を恥ずかしがっているのだろうか。それは、安易な言葉で言えば「失敗」であり、何かがうまくいかないことを恐れてしまって、自分の行動に二の足を踏んでしまう瞬間がある。

しかし、うまくいこうが、うまくいかなかろうが、自分は自分以上でも自分以下でもないのだから、自分自身をダイレクトにぶつけて行くしかない。重要なのは「うまくやること」なんかではなく、失敗しても、恥をかいたとしても、自分はやれることはやったのだという清々しさを感じることができる限り、それは素晴らしい人生のプレミアムシーンになる。

自分に恥ずかしくない生き方をするということは、恥の多い生き方をするということと、多分、同じだ。うまくやろうとするのではなく「ダメでもいいのだ」という許可を自分におろせた時、その人は無敵になる。この「ダメでもいいのだ」という人生の素晴らしい逆説は、人間を無敵にする。そして、本来であれば誰もが無敵な存在だったということを、優しい感覚と共に思い出させてくれる。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com