いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【HND-新潟】個人的な体験から、普遍性を見出すこと。

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関東圏での予定を終えて、新潟市内に戻ってきた。早朝の新潟の空が綺麗で、太陽の光がピラミッドのような三角形を形成していた。早朝の気温は低く、青空が澄み渡っていて、私は、麗だなと思った。都内に比べて、地方都市には高層ビルの数が圧倒的に少ないために、相対的に空を広く感じる。


最近思うことあれこれを綴ります。

1・やりたいこともなければ言いたいこともない。

東京都内で開催された「坂爪圭吾のお話会」的なものに登壇(?)してきた。毎回、東京都内で定期的に私を招待してくれて、告知や集客を行い、小規模なイベントを開催してくださるYさんという女性がいる。私は、個人的な恩義をYさんに感じているために、自分の都合がつく限り力になりたいと思っている。

しかし、私には「絶対にこれを話したい!」と思うことがない。誰かに強く訴えたいこともないし、最近の自分が感じていることなどは、既に、このブログ記事などを通じて書き切ってしまっている。だから、大勢のひとの前に出ても、特に話すこと(言いたいこと)がないので、毎回、困ってしまう。

Yさんは、そんな私を横目に見ながら「坂爪さんは特に話したいこともないそうなので、せっかくの機会ですし、実際に坂爪さんに聞いてみたいことなどある方は、何でも遠慮なく聞いてください」というような内容の発言と共に、時間を進めていく。

2・「聞きたい」ではなく「言いたい」だけ。

このようなイベントに参加をしてくれるひとたちに共通点は少なく、年代もバラバラ、職業もバラバラ、この場に来た動機もバラバラで、興味本位で足を運んだだけのひともいれば、深刻な悩みを抱えてやってきた人もいる。一見普通そうに見えるひとでも、相当な過去を抱えていたことが判明することもあり、多様な人間模様を観察(?)することができる。それを楽しみに足を運んでくれるひとも多い。

Yさんが「質問のある人はいますか?」と、会場全体に投げた。

すると、私の隣に座っていた30代半ばと見られる(デザイナーとか広告代理店とかで働いていそうなお洒落な風貌をした)男性が「それなら、ちょっといいですか」と話し始めた。男性の質問は、要約するとこのような感じの内容だった。

「普通のひとは、会社などで働いているので、1日のなかでどうしてもやらなければいけない幾つものタスクを抱えていると思うんです。だから、余裕をなくして大事なことを考えることもできなくなってしまう。だけど、坂爪さんには『やらなければいけない』というタスクがない。たとえば、僕なんかも、日常を離れて旅に出たりしたときは『そういうタスクから自由になることができている』という感覚を覚えることができて、だからこそ、自分の感受性をいつもよりオープンな状態にしておけるというか、いつもは感じない気づきとかを得ることができるというか、だからタスクから自由でいられることってすごい大事なことだと思うんですけど、そして、多分、坂爪さんは常にそういう状態にあるのだと思うのですが、そんな坂爪さんにとって『やらなければいけないこと』とは何ですか?」

私は、男性の話を聞きながら「これは質問ではないな(私の意見を聞きたい訳ではなくて、自分の意見を言いたいだけだろうな)」と思ったので、男性に向かって率直に「これは『聞きたい』ではなくて『言いたい』だけですよね」と言った。その瞬間、会場が、軽く、凍った。

3・「質問する」という行為の難易度は高い。

大勢のひとと話していると、会話の難しさを感じる。Yさんは「質問はありますか?」と会場全体に投げかけるが、多分、質問というのはコミュニケーションの世界においても非常に難易度の高いもので、言うほど簡単にできるものではないのだろうな、ということを感じることが多い。

また別の女性が手を挙げて、自分の話をはじめた。

女性が話した内容は省略するが、私は、これも「言いたいだけ」だと感じてしまった。ひとの話を聞いているときに、これは面白い話だなあと感じることもあれば、このひとはいつまで自分の話をしているつもりなんだろう、早く終わらないかな、なんでこんなにも興味を持てないのだろうか、と感じることもある。

4・「そんなことを聞かれても困る」と思う質問の数々。

ある女性が「坂爪さんは、いままで様々な体験や様々なイベントを経験してきたと思いますが、そのなかでも、これは一番やばかったと思った瞬間はいつですか?」という質問を投げかけてくれた。私はこういう類の質問が物凄い苦手で、またしても困り果てて考え込んでしまった。

もちろん、いままでのイベントひとつとっても、散々罵倒されたこともあれば、参加者同士が取っ組み合いの喧嘩をはじめることもあったし、とっ散らかるときはどこまでも果てしなくとっ散らかる。しかし、そんなものは過去に過ぎないし、いま、自分が置かれているこのとっ散らかり具合も結構なものだなあ(そして、そのことを強く実感した方が確実に面白くなる)と思ったので、私は「いまも結構やばいと思います」と答えた。

私には「そんなことを聞かれても困る」と感じる質問がたくさんある。いままで見てきた景色で一番綺麗だったのはどこですか、とか、いままで食べた料理で一番おいしかったのは何ですか、とか、いままで出会ったひとのなかで一番すごいと思ったひとは誰ですか、とか、こういう質問を受ける機会が頻繁にある。そして、わたしは、その度に頭を悩ませながら「どうしてこんなことを尋ねるのだろう」と思ってしまう。

5・「うまくやろう」と考えるから行動が鈍る

わたしがあまりにも苦悶の表情(?)を浮かべるものなので、会場の雰囲気が非常にギスギスしたものになってきた。沈黙が続き、いかにも「発言しづらい」雰囲気が醸成されてしまった。Yさんにも、主催者という立場があるので「えーっと、それでは、今日はみっつさんも来てくれているので、みっつさんはいままで聞いていてどういうことを思いましたか?」という、半端ない無茶振りを発動した。

わたしは「まじか!」と思った。

このタイミングで「そのフリはえぐいな!」と思った。

しかし、みっつは素晴らしい対応をした。

「えっと、これは坂爪さんも前にブログで書いたり話していたりしたことですが、うまくやろうとしてしまう気持ちが邪魔をしてしまうことがあるのだと思います。何かを話さなくちゃいけないという気持ちから何かを話すのではなくて、自分が何かを話したくなったら話せばいいのだし、話したいことが特にないのであれば、余計な罪悪感とかを持つ必要はないと思うので、何も話さないでいればいいだけなのだと思います」


6・地獄のどんでん返し。

私は「今日のMVPはみっつだな」と思った。なんと素晴らしい返答(レシーブ)をするのだろうかと感動した。何かをしなくちゃいけないとか、こういう雰囲気のときはこういうことを言っておいた方が無難だとか、そういう思いからはじまる会話は、大抵の場合、退屈に終わる

しかし、またしてもどんでん返しが起きた。

私の隣に座っていた例の男性が「実は、ぼくもこの場の空気を感じながら、自分の気持ちがギスギスしちゃって非常に居心地も悪い思いをしていたので、もしも時間が許すのであれば、いまから5分間だけ時間をとって、この場にいる全員でハグをするというのはどうでしょう」という言葉を発した。

わたしは「まじかよ!」と思った。「この人は、みっつの話を聞いていたのかな」と思ってしまった。そして、私は男性に向かって「ごめんなさい、それはただのポーズでしかないと思いますし、私はそういうことを絶対にやりたいとは思いません」と言った。そして、5分間のハグをする代わりに、5分間のトイレ休憩が挟まれる形になって九死に一生を得た。

7・「答え」ではなく「問い」を共有する。

私は「仲良くなったつもりになる」くらいだったら、いまはまだ何も仲良くなれていないということをしっかりと実感した方が、よほどましなことだと思っている。握手をしたり、ハグをしたり、形だけの『友好のポーズ』をしてみたところで、わたしたちは、お互いのことを何も知らない。

コミュニケーションの醍醐味(?)は「答えを共有すること」よりも「問いを共有すること」にあると思う。わたしたちはひとりひとりが別人で、それぞれが、それぞれの考えを持ちながら暮らしている。誰かにとっての正解が、誰かにとっての間違いになることもあるし、誰かにとっては非常に重要なことが、他の誰かにとっては『まるでどうでもいいこと』でしかない場合は、掃いて捨てるほどある。

答えを共有することはできないし、答えを共有したいとも思わない(だからこそ面白いのだと思う)けれど、問いであれば共有することができる。会話の中で、自分たちは「答えを共有しようとしているのか」それとも「問いを共有しようとしているのか」で、その場の雰囲気は大きく変わるのかもしれない。

8・人と話しているのに「人と話している」と思えない。

わたしは人と話すのが苦手だ。人と話したいと思っているくせに、人と話している時に「人と話している」とは思えない瞬間が頻繁にある。そういう時のわたしは、ただ、相手の話を「聞く」ことしかできない。会話のキャッチボールをしているという実感は其処にはなく、ただ、相手の投げるボールを自分が受け取るだけだという、乱暴な言葉を使えば『自分の身体を使って相手のマスターベーションに付き合わされている』という風に感じることもあり、そういった時間のあとは、自分がすり減るような疲労を覚える。

ただ、そういう疲労を覚えている中でも、たとえばみっつの素晴らしいレシーブを目撃すると「お前!やるな!」という気持ちになる。そして、少なくともこの人は自分の感覚をわかってくれているな、というような気持ちになる。そして、この瞬間、自分の中にあるひとつの感情が強化されているのを感じる。それは、相手に対する『信頼』である。信頼は、当然だけれど金で買うことはできない。

9・個人的な体験から、普遍性を見出すこと。

「うまくやらなければいけない」という感情の正体はなんだろうか。そして、うまくやらないといけないという思いから発言される言葉の数々が、いかに無難で、いかに相手の心に届かない空虚なもので終わってしまうのだろうか、みたいなことを考えさせられた。

主催者のYさんから、イベント終了後に連絡をもらった。

「昨日思ったのは、個人的な話を、その話の本質を見て、普遍的な話にもっていけるか、、、チャレンジしたいなということです。圭吾さんを見倣いたいなと思いました。どうしても上っ面の予定調和的な話で安心しようとする自分がいるなと思いました」

10・普遍性は人間を自由にする。

Yさんからのメールを読んだ時に、ああ、自分がやりたいと思っていることはこれなんだな、と思った。坂爪圭吾という個人的な人間の体験から、どれだけ普遍性を見出せるかを知りたくて生きている部分が、確実にあるな、ということを思った。そして、それはそのまま「誰かと話す」ことの意味や意義になるのだろうな、ということを思った。

誤解を恐れずにいうと、大勢の人間が集まれば、当然、場も荒れる。(そこには何も普遍性がない)自分の話ばかりをするひとがいれば、巻き添えをくらうのは周囲の人間であり、おそらく、自分の話ばかりをしているその人自身も、その行為によって『自分を傷つけている』のだと思う。

多分、普遍性は人間を自由にする。だから、私は(もしも普遍的なものがあるとしたら)それに触れてみたいと思っている。当たり前のことだけれど、普遍的なものとは「自分にだけ普遍的なもの」ではなくて「誰にとっても普遍的なもの」だからこそ、普遍的なものになる。

これは、言葉を変えれば「自分たちは同じである」ということを確認したい(思い出したい・取り戻したい)と願う欲求のことかもしれない。そういうことを思った。夏が終わる。夏の終わりになると、不思議と寂しさを覚える。そういうひとは多いと思う。寂しさの正体は何だろうか。


人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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