いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【HND-東京】多分、本当の充足感は他人の承認を必要としない。

東京での日々を過ごしている。ひとりになる時間が増えると、余計なことを考えたり、最近では「生命」について考えることも増えてきた。生きているということに思いを巡らせると、これほど不思議なことはないし、これほどやばいこともないという気持ちになる。最近思うことあれこれをまとめます。

1・高過ぎるテンションには嘘が混ざる。


移動の多い生活をしているために、結果的に、様々なジャンルの人達と出会う機会が増えている。高過ぎるテンションには嘘が混ざる。そのように感じることが多い。明るく、前向きで、希望に満ちている言葉を使っているからといって、その人自身が「明るく、前向きで、希望に満ちている」ように見えるとは限らない。

2・女の旅は「子宮が冷える」


「生活に傷つけられている」と感じた女性が話してくれた言葉が印象に残っている。こんなことを言ってもわかってもらえないとは思うのですが、この生活を始めてから子宮が物凄い冷えているのを感じていて、ホッカイロを貼っていないと寒くて仕方がないんです、と、話してくれた彼女の言葉には切実さを感じた。

男性性と呼ばれるものがあり、女性性と呼ばれるものがある。男性の中にも女性性はあり、女性の中にも男性性があるとは思うが、男性という肉体や、女性という肉体を超えることはできない。感覚的な話になるけれど、女性の身体は「そういう風(家のない生活をするよう)につくられていない」と感じることが多い。


3・自分にとっての幸福がわからないと、一般的な幸福に翻弄されてしまう。


楽しんだ者勝ちとか、好きなことをやろうとか、自分がワクワクすることをやろうとか、そんなことよりも「冷静でいること」の方が重要だと思う。冷静でいることを言い換えるならば、多分、それは『自分でいること』であり、自分にとっての幸福がわからないと、一般的な幸福に翻弄されてしまう。

4・死にかけるたびに奇跡が起きる。

行く先々で「毎日の生活の糧はどうしているのですか?」と尋ねられる。要するに「金はどうしているのか?」と尋ねられているのだけれど、自分でも、どうして自分がいままで死なずに生きてこれているのかがわからない。ただ、ひとつだけ確かなことは「どうにかなっているから生きている」ということだ。

自分の肌感覚で『死にかけるたびに奇跡が起きる』ということを感じている。先日も、不思議な出来事が起こった。所持金が三桁になって「そろそろやばいぞ!」的な気持ちになっていたら、一通のメールが届いた。そこには「昨日夢を見たのですが、その夢の内容が『坂爪さんに一万円をあげる』という夢で、夢じゃなくて現実でも坂爪さんにお金を渡したくなったので銀行口座を教えてください」と書かれていた。

また、高知県に訪れた際には「私は『3』と『5』と『8』の数字が大好きで、その数が書かれている一万円札を貯金しているのですが、今持っている一万円札の発見番号にもこの数字が書いてあって、で、これをそのまま貯金するのも面白くないなあと思ったので、坂爪さんに渡しますね(!)」という謎過ぎるオファーをいただき、目の前で一万円札を手渡していただき、九死に一生を得たことがある。

これは決して自慢をしたい訳ではなくて、あまりにもこういう出来事が頻繁に起こるために、世の中には「謎の原理」が存在しているということを、頭では理解できないとしても肌感覚で実感(?)するようになってきた。死にかけるたびに奇跡が起きる、この『謎の原理』はいったい何なのだろうか。

5・調子に乗ったら即死する。

そして、調子に乗ったら即死するということを痛烈に実感している。この謎の原理を維持(?)するためには、絶対に調子に乗ってはいけないような気がしている。自分は偉いとか、金を稼いでやろうとか、そういう濁りの感情が発生した瞬間から、この謎の原理は働きをとめるような気がしている。

6・謙虚さとは「生かされている」という感覚。

この感覚をうまく言語化することができない。しかし、このようなお金の貰い方をしていると「自分だけ得してやろう」みたいな気持ちには、とてもじゃないけれどなれなくなる。多分、謙虚さとは「生かされている」という感覚だと思う。生かされているという感覚を忘れた瞬間、人間は「自分は立派な人間だ」みたいな感じで調子に乗って、そして、痛い目に遭う(即死する)のだろう。

6・金持ちは誰が救うのか。

印象的な話を聞いた。とある宗教家(?)がいて、彼は、ロールスロイスを100台近く持っていて、手にはギラギラのダイヤモンドが散りばめられた高級な時計を大量に身につけている。そんな彼を見て、多くの人々が「そんな高級なものを持っているのならば、そのひとつでも売って貧しいひとたちに寄付をすれば、多くの命が助かるというのに!」というようなことを口にする。

それに対して、彼は「多くの人々は、貧しいひとを助けろという。そして、清貧であることを求める。sかし、それでは、いったい誰が金持ちを助けるというのだ。このロールスロイスも、このダイヤモンドが散りばめられた時計の数々も、私を敬愛してくれている富裕層のひとたちが、私に使ってほしいということで贈呈してくれたものだ。多くのグルは『貧しいひとを助けろ』というが、私の役割は『金持ちを助ける』ことでもあるのだ」的な返答をしたのだという。

7・「受ける」ことも「与える」ことも不幸である。

この宗教家(?)は、別のシーンで「受けることも与えることも不幸である」というようなことを言っていた。わたしは「受けるよりも与える方が満足度が高い」と思っていたために、彼の言葉を聞いたときには「ガーン!なんてこったい!」という気持ちになった。

簡単に説明をすると、受けることは「奪う」ことであり、与えることは「奪われる」ことであり、矢印の向きが違うだけで、結局、やっていることは何も変わらないということだ。多くの人たちは「与える」ことが幸せだと思っているけれど、そんなにいつまでも与えられるもんじゃないだろう(与えるほど持っていないだろう)、と、その宗教家(?)は指摘する。

結局、与えることで幸せを感じるひとは、幸せを感じるために「もっと、もっと」という気持ちになる。幸せになるためには、明日も与えて、明後日も与え続ける必要がある。ほんとうのハッピーは、そういう受けるとか与えるとか(「もっと、もっと」という感覚)を超えた次元にあるという彼の考え方は非常に斬新で、世界には様々な面白い考え方があるのだなあ、と、わたしは感銘を受けてしまった。

「わからねえぞ!感」が加速度を増した。


8・どれだけの熱量を込めていたのかが伝わってくる。


先日、長野県から東京までバイクに乗って走っていたとき、眠気に襲われたのでハイロウズというバンドの「千年メダル」という曲を口ずさんでいた。いままでに何回も聞いたことのある曲だったのに、いままでに何回も口ずさんだことのある曲だったのに、この日だけは、圧倒的に何かが違った。

この曲のサビの部分である「たとえば千年、千年じゃ足りないか」という歌詞を口ずさんだ瞬間、自分でもびっくりするくらいの大量の涙が溢れてきて、まるで自分に何かが憑依したかのような感覚になり、涙が止まらなくなった。そして、続く「できるだけ長生きするから」という歌詞を口ずさみながら、とてもじゃないけれど運転もできないような怒涛の涙が溢れてきて、なんじゃこりゃー!という気持ちになって、取り急ぎ近くのコンビニにバイクを止めて「一旦落ち着こう」ということになった。

この涙が嬉し涙なのか、感動の涙なのか、悔しさなのか、悲しさなのか、原因不明の涙に自分でもびっくりしながら、ただ、あの瞬間、この曲をつくった人が、どんな気持ちでこの歌詞を書いたのかということを、自分の全身で『理解した』から涙が流れてきたのだろうな、ということを思った。

作者が、どれだけの気持ちをその言葉に込めていたのかということが、その瞬間、まるごと見事に伝わってきて『同一化』してしまったのだと思う。そして、その言葉に込められた熱量のすごさに自分の全身が包み込まれて、原因不明の涙が流れたのだろうな、と思った。生まれて初めての体験だった。

9・この瞬間のために生きていたと思える一日になる。

コンビニでしばらく休んだあと、再びバイクを走らせて、もう一度その曲を歌ってみた。しかし、もう二度と、同じ涙が流れることはなかった。あの涙はあの瞬間だけのもので、二度と取り戻せるものではないのだということがわかった。さっきはあれだけ泣いた音楽に対して、いまは何も感じないで普通に歌うことができる不思議を前に、あれはいったい何だったのだろう、という気持ちになった。

その日、わたしは原因不明の涙を流した訳だけれど、その体験を終えたあとに「今日はほんとうに素晴らしい一日になった。絶対に忘れることができない、非常にメモリアルな一日になった」と思った。もしもこの先、今日という日に何も起こらなかったとしても、こんな体験をすることができた今日という日は『本当に素晴らしい一日だった』と心の底から思えるような、そんな、印象的な時間になった。

10・多分、本当の充足感は他人の承認を必要としない。


多分、本当の充足感は他人の承認を必要としない。他人にうまく説明することもできないし、ただ、あの瞬間だけは確かに感じた限定的な喜びがあって、その喜びの感覚が、大袈裟だけれど『生きていることの素晴らしさ』に繋がるのだと思う。本当の充足感は他人の承認を必要としないし、他人に説明できるようなものでもない。

そして、本当の充足感は「静的」なものだと思う。大勢の人間が集まって賑やかに盛り上がる「動的」なものよりも、多分、極限られた人数の間で交わされるクローズドなやりとりの中に、静的で、同時に強い熱量を伴った『生きていることの素晴らしさ』が詰まっているような、そんな気がした。

最近はいろいろなことがわからなくなっている。自分には何もないと感じることも多いし、そのことが自分に悲しく響くこともあれば、当たり前の事実として自分の中にはいってくることもある。そして、自分には何もないということを思うと、同時に「体温だけは残されている」という気持ちになる。わたしは、この残されている自分の体温を、自分以外の何かに宿らせたいと願っているのかもしれない。

人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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