いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【KIJ-ロンドン】「他人に迷惑をかけてはいけない」という嘘。

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東京を経由して新潟に戻り、海岸沿いにテントを張っていた時に、ロンドンから一通のメールが届いた。内容があまりにも素晴らしく、自分ひとりのものにしておくのが非常にもったいないので、送り主の方の許可を得て転載します。

 

 

・題名「私のリアル マッチ売りの少女体験 今までの人生観が崩壊しました」

 
坂爪圭吾さま 

以前、ロンドンからメールさせて頂いた森山幸枝
(仮名)です。この2週間の私の個人的マッチ売り少女体験を是非貴殿にお話させて下さい。なんだか今までの価値観崩壊、幸福感大噴出の中に現在生きております。
 
事の起こりは先々週の土曜日。8歳と5歳の子供達を習い事に送り出した後、空いた時間にスーパーに買い出しに行きました。何時もの様に大きなカートを押して棚と棚の間を歩いて居た所、突然全身を貫く激しい痛みに襲われました。一瞬、ぎっくり腰かと思いましたが違うようで痛みにあぶら汗まで出てきて立っていることすらままならない。カートを放置し這うように自宅に戻り、一旦ベッドに入ったら高熱で全く動けなくなりました。
 
週末の間は全て夫に子供達を任せ、ベッドに転がってましたが痛みで動けず、まったく食べ物も受け付けず…月曜日は夫は子供達を学校に送った後仕事に(ロンドンは13歳まで子供を一人で歩かせてはいけません。常に何処に行くにも親の送迎が必須です) 私は午後の学校のお迎えに這うように行きましたが、途中で車をぶつけそうになり 自分の身体が全く機能していないことを理解しました。
 
子供達には夕飯はピザを頼み、それを食べて宿題をしてお風呂に入り歯を磨いてお父さんの帰りを待ちなさいと言いましたが、母としての役割が全く果たせないことが悲しく、また身体が言うことを聞かないことが歯痒くベッドの中で泣きました。薬が効いている兆候もなく痛みは増すばかり、今までの人生の中でこんなに酷い病にかかったことはない。
 
この年まで私は自分の脳で考えた事、自分の意識がボスでそのボスの指令で身体を思うままに動かすことが出来ると傲慢にも思い込んでいましたが、それは全くの誤りだった。身体が一旦機能する事をストップしたら自分の中心と思い込んでいた自分の意識も否応なしにスイッチさせられるという事に生まれて始めて気がついたのです。

今の私が出来ることは完全に降伏する事。身体様が機能してくれるまで、私は身体様に全てを預けるしか道はないのです。この状態では自分の全てだと思い込んでいた意識ですら全く何の役にたたない…
その時に私の脳裏に、ああ今の私は父親に殴られ雪道に放り出されたマッチ売りの少女だなとの考えが過ぎりました。その瞬間に、ああオープンに助けを求めてみようと考えました。
 

・他人から施しを受けるのは惨めなことではなく、寧ろ崇高な経験になる。

 
普段の私は色んな事を器用にこなし仕事もできるし自分が出来る人間であるという事にかなりの高いプライドを持っていて人に助けを求める事は非常に惨めだと考えていました。でも身体様が機能しない今、自分の自意識より大切にしなければならないのは身体様、身体様が動きたくないと仰る以上、ボスは身体様、身体様の欲求に従う術は無いのです。
 
私はそこで簡単なメールを両隣の住民、娘達と同じクラスの保護者 いずれも私の家から車で10分以内でこれる知人に出しました。身体が動きません、子供達の世話が出来ません、二階で寝ています、鍵は玄関脇の植木鉢の下に置いてあります。余力がある方は私を助けてください、と。

翌日、子供と夫が朝食を食べていると次女と同じクラスのインド人の保護者がやって来て私が動ける様になるまでの子供の学校の送迎をしてくれるとオファーしてくれました。私は喜んで彼らの親切を受け入れました。日中、私が寝ていると隣人がどんどんやって来てお茶を入れてくれたり買い物に行ってくれたり、子供の宿題を見てくれたり子供達に本を読みのやって来てくれる人もいました。子供達に食事を与え、私にスープを置いて帰る人。私の枕元で聖書を朗読したり本を読んでくれる人、祈りに来てくれる人 本当に色んな形でのお助けがやって来た。

そして私は惨めになる所か喜んで姫の様にその優しさを受け取ることができた。本当に身体様に降伏し助けを受け入れ始めた所、ようやく身体は悪化するのを辞め回復に向かうようになった。恐らく何時もの私なら半分回復した所で普通の生活に戻ったでしょうが、今回は本能的に全てを身体の思うままにゆだねよとの声が聞こえた気がして100
%回復するまで起き上がらない事を自分に許しました。
 
週間ほどそんな生活をした所、完全に復活。助けを求めたマッチ売りの少女は生き残りました。そして他人の施しを受け取るのは全く惨めではなく寧ろ崇高な経験でした。
 

実は、皆が何かを誰かに与えたいと思っている。

 
一番印象に残ったのはご近所の八十代の恐らくその方の方がよっぽどお助けが必要と思われるお婆ちゃんがよろよろ杖をつきながらやって来てお茶を入れてくれた事。彼女は「人間にとって小さな助けを他人に与えるのは何よりの喜びなのです、この様な機会を私に与えてくれて有り難う」と仰いました。その言葉がすっと身体に染みました。
 
世の中には小さな親切で溢れている、実は皆が何かを誰かに与えたいと思っている。問題は受け取るオープンさが自分にあるかどうか…本当にオープンになると言うことは喜んで受け取る事が出来る事なんじゃないかと気がつきました。そして坂爪様がしていることはこれなんじゃないのか、 他人から受け取る事を自分に許す、自分のつまらない自意識の垣根を下げ意識に邪魔されない身体の本質の欲求に従うこと、そして全てを受け入れる柔軟さを自分に許す事。
 
元気になった今、私は喜びの中に生きている気がします。

どうしても今回の病が偶然とは思えないのです。

意識ではなく身体がボスだ、そして「全てを受け取る事を自分に許しなさい」と教えられるために身体が仕掛けた病気としか思えない。そして、与える事を惜しまない、受け取る事を惜しまない、芯からオープンになったときに物凄い歓喜を感じた気がします。「私は全てに許されている」という安心感。
 
なんだか一人よがりで長々と書いてしまいすみません。
 
坂爪様のブログを読んでなかったらマッチ売り少女をリアルに体験しようという発想は絶対になかったはず。そしてその実験を通してなんだか人生観が変わってしまった様な気がします。
 
私は結構 綺麗にオシャレするのが大好きなタイプで口紅塗らずに外出とか女としてあり得ないと思っていました。外見があって女なんだからと…所がノーメイク、髪もぼうぼう、ぼろぼろのスウェットきて芋虫の様に転がっていても世界は私に優しいという事実が分かっただけでも背筋がゾクゾクするぐらいの幸せなのです
 
このままオープンで居続けた先にどんな心境がまっているんだろう

坂爪様にインスパイアーされ実験 を今後もリアルに経験し続けてみます
 
坂爪様の本 楽しみにしています
 
いつか何処かで会えます様に
 
身体に気をつけてお元気で 
 
森山幸枝
 
(以上、転載はここまで
 

「他人に迷惑をかけてはいけない」という嘘。

非常に人生の示唆と叡智に溢れたエピソードだと思った。「他人から施しを受けるのは惨めなことではなく、寧ろ崇高な経験になる」「実は、皆が何かを誰かに与えたいと思っている」「意識ではなく身体がボスだ」「すべてを受け取ることを自分に許しなさい」など、大量の箴言が含まれている。
 
そして、私は「他人に迷惑をかけてはいけない」という日本的な教育が、どこまで真実なのかが分からなくなった。過去記事でも書いたように、自分ひとりで出来て一人前(誰かに頼るのは半人前)という価値観のままでは、永遠に『誰かに助けを求める力(お互いに助け合う力)』を養うことができない。
 
 

他人に迷惑をかけることで「自分は生かされている」というよろこびを知る。

お互いに助け合うことの中には、(もちろんそれによって発生するストレスもあるだろうけれど)其処にしか発生し得ない絶対的なよろこびがある。このよろこびは『自分は生かされている』という感覚に尽きる。何もかもを自分の力でやっている(と思い込んでいる)間は、このような感覚を覚えることは絶対にできない。
 
「自分のことは自分でやれて一人前(誰かに頼るのは半人前)」という価値観のままでは、永遠に「誰かに助けを求める力(お互いに助け合う力)」を養うことはできない。自分ひとりで問題を抱え込んでしまうと、鬱病円形脱毛症や自律神経失調症になったり、最悪の場合は自殺をしてしまったりする。
 
必要なのは固体の思考よりも液体の思考であり、「他人に迷惑をかけてはいけない」というガチガチの常識(固体)よりも「どれだけ楽しく迷惑をかけられるか」という比較的POPな視点(液体)だと思う。
 
 

完璧であることよりも「不完全であることの素晴らしさ」

誤解されると困るが、私は「自分は何もしないで他人に迷惑をかけまくって生きよう」と言っている訳ではない。自分に足りない部分がある時に、誰かの助けによって支えられた体験は感動を生み、そのよろこびを通じて「自分も他人に優しくあろう(自分が差し出せるときは差し出していこう)」と思える前向きな気持ちの循環を生むことが、人間が不完全であることの素晴らしさなのだと思っている。
 
奪うことが目的ではなく、与えることが目的になった時に、あらゆることの本領は発揮される。たったひとりきりで完璧になろうとするよりも、困ったときはお互い様のマインドで、頼るときは頼り、甘えるときは甘え、自分にも出来ることが発生した時は「待ってました!」とばかりに差し出して行こう。
 
・実は、皆が何かを誰かに与えたいと思っている。
・他人から施しを受けるのは惨めなことではなく、寧ろ崇高な経験になる。
・すべてを受け取ることを自分に許しなさい。
 
人生は続く。
 
坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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