いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【SDS-弘前の桜】明るいバカに人は集まる。ー 人生を変えるのは(幸福ではなく)受難である。

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最近は孤独の淵に置かれて「静かなる絶望の日々」を送っていたのだけれど、新潟県で自虐性の高い友達と珈琲を飲むことで如実に回復した。日々のストレスによる過食に苛まれている我々は「醜悪なデブを目指す」を合言葉に、現在もナポリタンやトーストを喫茶店で慟哭しながら踊り食っている。

前回の投稿でも述べたように、佐渡ヶ島で開催された「朱鷺マラソン」に裸足(ベアフット)で参加した。主催者からも「裸足で走るのは君たちがはじめてだよ」とお褒めの言葉を授かったが、結果としては無残に散った。大前研一の「敗戦記」さながら、朱鷺マラソンを終えて感じた『惨敗記』を綴ります。


1・人生を変えるのは(幸福ではなく)受難である。


わたしの信条のひとつに「明るいバカにひとは集まる」というものがある。完璧な人間といると息が詰まる。しかし、深刻なバカといても(悲愴感が伝播してくるから)つらくなる。わたしは、明るいバカが好きだ。明るいバカは『論理の外側』を生きている。おとなになるにつれて、人間は「損か得か」「有利か不利か」の合理的な判断ばかりで物事を決めてしまう。しかし、明るいバカの次元は異なる。

2・基本的な選択基準は「面白いかどうか」になる。


明るいバカの選択基準は「面白いかどうか」がすべてであり、損得感情を超えた何かを求めている。周囲の人間が見たらバカにされるようなことでも、彼らは全身全霊の力を賭けて挑む。繰り返しになるけれど、わたしは(シリアスなバカやセンスのないバカやテンションが高いだけのバカや全体的に下品な感じが漂っているバカは大嫌いだけど)明るいバカを愛している。

3・明るいバカは角度がおかしい。

参加メンバーのひとりである『ほっしー(27歳・男性)』が、ぼやっとわたしに語りかけてきた。わたしは、大前提としてほっしーのことが大好きだ。身長は180センチを超えていて、人柄も柔和であたたかく、整った顔立ちと圧倒的な爽やかさから『ステキ男子』感が全身から漲っている。しかし、彼こそが正真正銘の「明るいバカ」であり、そのひとことでわたしは強烈に元気づけられた。

「けいごさん、聞いてください。さっき、東京に住んでいる(普段は仕事で超絶忙しい)Mちゃんが『今日は仕事が休みなの』って言っていたんです。だから、ぼく、マラソンが終わったら、その足で東京まで車でいくことに決めました。みんなにとっては『42キロを走破する』ことがゴールだと思うんですけど、ぼくにとっては只の通過点で、ほんとうのゴールは『東京』なんです」

ちなみに、ほっしーはマラソン前日に(畑作業でブヨに刺されて)高熱を出して寝込んでいた。マラソン当日も「頭痛が痛い」と言っていたが、直後に「けいごさん、これが武者頭痛です」と言っていた。まるで、自主的なトライアスロン(高熱→マラソン→東京)をひとりで敢行しているように見えた。

4・足の裏が如実に痛み出して死にたくなる。

マラソンがスタートした。我々四名は裸足でスタートした。スタート時間を間違えていたので、あと一分遅れていたら棄権とみなされるギリギリの状態からのスタートだった。「あっぶね!あっぶね!」とバタバタしながら、我々は裸足で駆け出した。「余裕だね」と笑いあった。楽しいハイキング気分だった。しかし、余裕なのも束の間、およそ一時間程度走り続けていたら、足の裏が如実に痛み出してきた。コンクリートで舗装された道には、幾つもの小石が散らばっている。

わたしたちは無言になった。

5・「頑張れ」ほど無慈悲で残酷な言葉はない。

「ゴールまで一緒に走ろうね!」というお約束の誓いを交わした我々も、早急に散り散りになった。わたしは基本的に口先だけの人間なので、さっそくビリっけつ(新潟弁では『げっぽ』と呼ぶ)になった。10キロを超えたあたりの地点で、げっぽの足裏は限界を迎えた。踏み出すたびに激痛が走り、「半端ないなあ、半端ないなあ」と思いながらトロットロと歩き始めたりしていた。

途中、路上の応援者たちが「がんばれー!」とか「裸足とかすごいねー!」とか声をかけてくれたが、正直に言えばものすごいうざかった。「お前よりはがんばっているよ」みたいに思ってしまったし、「がんばった結果がこれなんだよ」とも思ってしまった。何かこう、鬱病になるひとの気持ちがとてもよくわかった。

6・無言の拍手は泣きそうになる。

そんな中でも、路上の応援者が(何も言わずに)拍手だけをしてくれる瞬間が何度かあった。このような瞬間には、猛烈に励まされている自分がいた。「わかっているな」とも思ったし、「あたたかいな」とも思った。言葉はいらないのだ。ただただ『あなたの存在をわたしは全力で讃えている』的なメッセージこそが、人間を根底から励ますのだ。そうした励ましによって、再びわたしは走る出すことができた。

7・「ゴールはひとつではない」と開き直る。

これは作家の村上龍さんから聞いた話だが、昔、新聞かなにかで「ひとこま漫画」というものがあったらしい。ある日のひとこま漫画には、パン食い競争のイラストが書かれていた。多くのランナーが「俺が一位になってやる!」と鼻息を荒くしながら意気込んでいるなかで、ひとりのランナーだけが、こっそりとバターを隠し持ちながらヨダレを垂らしている。ひとりだけ角度がおかしい人間がいる。

バターを持っている青年にとってのゴールは、レースで一等賞になることなんかよりも『いかに美味しくパンを食べるか』になるのだ。わたしは、これを思い出していた。路上の応援者は「がんばれ!」と叫び続けている。わたしを追い越すランナーたちも「がんばって!」と背中を押してくれたりする。しかし、わたしは既に「がんばるとか、もういいよね」みたいな気持ちになってしまっていた。

周囲を見渡せば、佐渡の美しい自然が広がっている。清々しいほどの晴れだ。空気が美味い。激痛は走り続けているが、(かなりの距離を歩いたおかげで)肉体的な疲労は消え去っていた。なんなら、冷えた汗が寒いくらいだった。そして、わたしは最寄りの給水所でスタッフに告げた。ー 「棄権します」

8・清々しい棄権と負け犬の遠吠え。

結果的に、わたしは20キロも走らないうちに棄権をした。疲れは休めばとれるけれど、痛みは決して緩和することがない。わたしは「これは無理!」と思ってからの行動が早い。マラソンを終えて一番に感じたことは、やはり「誰かに用意された枠内で得られる楽しさには限界がある」というものだった。

これは屁理屈とも呼ぶが、わたしは屋外にテントを張って眠るのがとても好きだ。しかし、キャンプ場でキャンプをするのは好きではない。何かこう「用意されたなかで楽しんでいるだけ」という感覚が苦手なのだ。生まれてはじめてマラソン大会に参加してみて、そのような感覚を覚えていた。

わたしには悪い癖がある。自分が達成できなかった領域について、このように「(自分を正当化するために)すぐに屁理屈をこねて愚痴を吐く」という醜さがある。一緒に走り出した4名のうち、ほっしーを含む2名は見事に40キロ地点まで走り切った。わたしは、本当に心の底から彼らをリスペクトした。


9・ちょっとした恐怖心を超えた先に、次の自分を見つけるのだ。


結論から言えば惨敗して屁理屈をこねて愚痴を吐くだけで終わった朱鷺マラソンだったが、参加してよかったという思いに偽りはない。今でも足の裏の水膨れが爆発して非常にじんじんする。40キロ地点まで走り抜けたほっしーは、ラン後に救護室で応急処置を受けた。ドクターから「これは全治二週間だね」と告げられていた。

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しかし、ほっしーはそのまま帰りのフェリーに飛び乗り、自分の車で(超絶多忙のMちゃんに会うために)東京へと向かって行った。これが真の男だと思った。肉体はボロボロに疲弊していたが、精神は非常に清々しかった。痛みを覚えるのはいやなことだけれど、痛みを通じてしか得ることができない何かがあるのだと思った。人生は空虚だと思ってしまう瞬間が、わたしには無数にある。そんなときこそ「ちょっとこわいと思うことを、思い切ってやってしまう」に限ると思った。

10・明るいバカは潤っている。


極論、人生が空虚かどうかなんて、どうでもいいことなんだろうな、と思う。そんなことよりも、自分が笑えているか、心の底から笑える瞬間をどれだけもてているかの方が、ずっと大切なことであるように思う。人間は、必ずしも内容があることだけに笑う訳でもない。この瞬間も、わたしは「自虐性の高い新潟県在住の友達」と、まったく中身のないくだらない話をしながら多幸感を覚えたりしている。

この記事のトップに使われている写真は、青森県弘前市から送っていただいた桜の写真になる。最近では、いろいろな場所に住む人からいろいろな景色が届く。これがとても嬉しくて楽しい。桜が綺麗だとか、空が青いとか、照りつける太陽が最高に気持ち良いことに、別に意味も特別な内容なんてない。

意味も特別な内容なんてなくても、最高だと思える瞬間が幾つもある。明るいバカに人は集まるのであり、たとえば『受難ボーイグランプリ 〜人生を変えるのは(幸福ではなく)受難である〜』の存在は孤独の淵に置かれたわたしを常に掬い上げてくれる。合理的な判断ばかりでは、自分でも気がつかない内に人間味を喪失してしまう。「面白いかどうか」で飛び出していく明るいバカの存在は、乾いた感性に潤いを与えてくれる。単純に元気が出る。受難ボーイグランプリは、我々のこころのオアシスである。そして、日本海は今日も優しさに溢れていました。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com