いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【KMQ-佐渡ヶ島】破裂して粉々に砕け散って死のうよ。ー 生きることに意味はない。そこにあるのはよろこびだけだ。

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金沢を経由して新潟県に入った。明日は佐渡ヶ島で開催される朱鷺マラソンに参加する。いろいろな事情が重なって、有志メンバーで42キロを裸足で走ることになった。いままでにマラソンなんて一度も走ったことはない。過去に裸足で登山をしたことがある程度で、マラソンに向けた練習も何もしていない。マラソンに挑戦するというよりも、人間(自分自身)の可能性に迫りたいと思っている。

1・『強制』と『競争』が人間から走るよろこびを奪った。

数ヶ月前、広島県でマラソンを愛する男性と出会った。ゴビ砂漠で開催される『5泊6日で250キロくらい走る』マラソンにも参加したことがある彼は、いろいろなひとから「なぜ、いちいちマラソンなんてそんな疲れることにエネルギーを注ぐのか?」と尋ねられる。それに対する彼の返答が最高だった。

「元来、走ることとよろこびは直結していた。それはこどもを見ればわかる。こどもたちは、何かあればとにかく走り回る。走っていることがよろこびと直結していて、ほんとうにうれしそうな顔をしながら走っている。しかし、小学校に入学してから『マラソン大会』などというものがはじまってしまい、別に走りたくもないときに無理矢理走らされ、そして順位付けをされるようになってしまう。そして、多くの人たちが『強制』と『競争』によって、走ることを嫌いにさせられてしまう」

2・元来、走ることとよろこびは直結していた。

『強制』と『競争』が人間から走るよろこびを奪ったという彼の指摘は鋭い。本来であれば、歌うことも、踊ることも、運動をすることも、それが「よろこびに直結していた」からに他ならない。しかし、いつしか自分が走りたくもないときに無理矢理走らされるようになり、他人と競争させられるようになる。そして、他人よりも早く走ることができる人は評価され、遅い人間は評価の対象から外れていく。

そこに「走ること」という絶対的なよろこびはなく、周囲の人間と比べてどうかという「相対的な評価」だけが残ってしまった。そして、いつしか「走ることそのもののよろこび」は奪い去られ、他人よりも秀でることだけに重きが置かれるようになり、誰もが小さな頃は満面の笑顔で走り回っていたにも関わらず、結果として多くの人たちが走ることを嫌いになる。

3・高橋尚子選手の印象的なひとことと、奇跡。

わたしの故郷である新潟県では「新潟マラソン」というものが毎年行われる。それに参加した大学生のかずしという男の子が体験したエピソードが最高だった。わたしはここに人間の可能性を見た。マラソンには、大抵の場合「ゲストランナー」というものが用意されている。かずしが参加した年のゲストランナーは高橋尚子選手で、かずしは高橋選手の登場によって奇跡を目撃することになる。

4・「最初はこころから諦めるんです。でも、身体はぜんぜん元気なんです!」

かずしは自分が体験した奇跡を話してくれた。

「最初は普通に走っていたのですが、30キロを超えたあたりから足がまるで動かなくなって、35キロ地点では歩くのもやっとという状態でした。踏み出す度に足が痛み、正直、とてもつらい状態に置かれていました。制限時間にはギリギリ間に合うかな、という感じだったのでゴールまではゆっくり歩いていこうと考えていたら、後ろからゲストランナーの高橋尚子選手が走ってきました。高橋選手は、完全に疲れ切って歩いているぼくを見て『ほら、そこのお兄さんも一緒に走るよ!』と声をかけてくれました。ぼくはうれしくなってしまって、そこから高橋選手たちと一緒に走り出しました」

「一緒に走り出したぼくをみて、高橋選手は『まだまだ走れるじゃないですか!』と声をかけてくれました。ぼくもうれしくなって『そうですね!』と言ったら、高橋選手は『最初はこころから諦めるんです。でも、身体はぜんぜん元気なんです!』と言ってくれました。完全に疲れ切ったと思っていたぼくも、高橋選手の登場によるうれしさで再び走り出すことができて、結果的に、最後のゴールまで一緒に走りきることができました。そして、自分が不思議な感覚を体験していることに気がつきました」

「あれだけ疲れ切っていたにも関わらず、高橋選手の登場によって疲れが一気に吹き飛んで、ゴールまで一緒に走りきることができた。しかも、ゴールした瞬間には『もっと一緒に皆で走っていたかった』という感想を持ちました。あと5キロくらいなら、平気で一緒に走れる気がしたのです。そして、驚いたことに高橋選手と一緒に走った5キロの距離は、自分がスタートしてから最初に走った5キロよりも、早いタイムを記録することができていたということです。この体験はほんとうに不思議でした」

5・よろこびが人間を駆り立てる。

かずしの体験は非常に印象的だった。自分では「もうダメだ」とこころの底から思っていたとしても、実際に自分の身体もボロボロになって、踏み出すことさえも難しい状態に置かれていたとしても、あたらしい「よろこび」や「うれしさ」に触れることで、人間は何度でも走り出すことができる。

わたしは海と太陽を愛している。そのため、日本海に沈む夕日を目撃したときのよろこびは最高潮に達し、気がつくと夕日に向かって走り出している自分の存在に気がつく。人間は、自分が感じるよろこびに触れると、頭よりも先に身体が動く。文字通り「走り出してしまう」生き物なのだと感じている。

6・「疲れている」こどもなんて存在しない。

広島の男性とかずしのエピソードを聞いてから、わたしの中で「走ること」への関心が如実に高まった。これは、言い換えるなら「原始的なよろこび」に対する興味が湧いてきたとも表現できる。それ以来、わたしは謎にこどもを観察するようになった。こどもはとにかく走り回る。デパートでも公園でも自宅でも、隙さえあらばとにかく走る。そして、ひとつの驚くべき事実に気がついた。あれだけ全力疾走をしておきながら、走ったあとに「息を切らしている」こどもを一度も見たことがないのだ。

7・「すべての疲れは気疲れである」&「自分の内側から『うれしさ』を発生させ続けることに成功すれば、永遠に走っていられる」という仮設と検証。

最近では、すべての疲れは『気疲れ』であると感じることが多い。一見すると肉体的な疲労に苛まれているようで、実際のところでは「その場で発生しているメンタル的な負荷」にやられているだけなんじゃないのだろうかと思わされることが多い。事実、自分が好きなことをやっているときは、疲労を感じることが少ない。踊りが好きなひとは、10時間でも平気で踊っているひとなんてザラにいる。

要するに「自分の内側から『よろこび』や『うれしさ』を発生させ続けることができれば、わたしは永遠に走っていられるんじゃないだろうか」ということを思っている。この馬鹿げた仮説を、今回の朱鷺マラソンで(マラソン初心者の自分自身を使って)検証してみたいと思っている。

8・合言葉は「アボリジアンを思い出せ!」

わたしは江戸時代に参勤交代などで重い荷物を担ぎながら500キロを超える距離を徒歩で移動していた人間を尊敬している。半端ないことを成し遂げていると思う。これがわたしたちの祖先であり、人間の可能性を感じる。同時に、オーストラリアで暮らすアボリジアン(注・アボリジニーという言葉は差別用語でもあるらしいです)の営みにも強い影響を受けた。彼らは三ヶ月をかけて、砂漠をほぼ手ぶらの状態で移動するという。灼熱の砂漠に足の裏も焼け焦げるが、餓えた状態であたえられる水分や食料の有り難みは現代人の想像を絶するレベルのものであり、彼らはそこに「神の存在」を確実に見るという。

9・「俺は自由だ!」と叫び出すほどのよろこび。

ゴビ砂漠で開催されるマラソンに参加した男性は、ランニング中に圧倒的な自由を感じることができたと話してくれた。あたり一面砂漠が広がり、周りには誰もいない。自分にもしものことがあったとしても、すぐに助けに来てくれるひともいないし、ルートを間違えれば死んでしまう可能性さえもある。

「もちろん恐怖心を感じることもあった。しかし、同時に、まわりには本当の意味で何もない砂漠のど真ん中で、圧倒的な自由を感じることができた。『俺は自由だ!』と両手を挙げて叫びだしたくなる衝動に駆られ、事実、そのように叫んでみた。こころの底から自由だと思った。この時のよろこびは、とても言葉にすることはできない。多くの人たちは、参加費40万円とかもかけてゴビ砂漠に言ったわたしを笑った。『そんな金があればパリでもロンドンでも行けばいいのに』という人たちが大半だった。しかし、わたしはこのマラソンに参加してほんとうによかったと思った。5泊6日のマラソンを終えて、ゴールをした瞬間のよろこびは何物にも変えがたいよろこびがあった。自分で自分を褒めてやりたくなったし、俺はやれる、俺はまだまだやれるんだということを実感を伴って体験することができました」

10・走ることに意味はない。そこにあるのはよろこびだけだ。

冷静に考えると、42キロを走ることに何の意味もない。どちらかと言えば「狂気の沙汰」であり、たまたま『フルマラソン』という名前が与えられているからこそ市民権が得られているだけのことであり、あらゆるスポーツは『(実際のところは)狂気の沙汰』であるだけの場合が大半である。

誰よりも早く走ろうとすることや、砲丸を可能な限り遠くへ飛ばすことや、投げられた球を打ち返してホームランを狙うことや、高速のシュートを決めて相手のゴールを奪うことに、何の意味も価値もない。ただ、そこに確実に存在しているものがある。それが「よろこび」であり、昨日よりも早く走ることができた自分自身や、前はできなかったことができるようになっている自分の存在や、自分の限界を突破したときに感じる圧倒的な手応えを感じる『よろこび』が、確実に内包されている。

だから、ひとは無意味に見えることにでも、否、無意味に見えることだからこそ、全身全霊で自分自身を投げ出して、そこに何かを賭けるのだろう。頭で考えるだけでは決して得ることができないよろこびが、実際に身体を動かすことの中にはある。実際にやったことがあるひとにはわかるけれど、実際にやったことがないひとには永遠にわからない領域が確実にあり、だからこそ人間は「新しいよろこびに触れる」ために自分の限界を飛び出して、自分の世界を拡張してくれる何かに挑みたいと願ったりする。








走ることも生きることも似たようなものである。生きることに意味はない。そこにあるのはよろこびだけだ。新しいよろこびに触れるために人間は今日も目覚めて、「いま」という瞬間を生きる。いやだなあと思い続ける日々を送るよりも、やりたいことをやりたいようにグワァーってやって死んだ方が、単純に気持ちいいだろう。太陽が燃えている。あたたかい空気が流れている。夏の海も近づいている。

人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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