いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【CTS-札幌】生きているのはいまだけで、いつか傷つくことさえもできなくなる日が、必ず来る。

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東京の阿佐ヶ谷経由で札幌に来た。阿佐ヶ谷の空が綺麗だった。東京でも札幌でも、トークセッションのようなものに登壇して様々なひとと話した。ひとと話すと、エネルギーをもらうこともあればエネルギーを激しく消耗することもある。正直に言えば、疲れ果てているひとが非常に多いとも感じている。

最近感じていることをまとめます。

1・「普通」とは何だろうか。


普通とは何だろうか。枠の中で生きていたときには「そういうものだ」と思っていたものが、一度、枠の外に出て別の世界があることを知ってしまうと、二度と元の世界には戻れなくなる。昨夜、札幌で開催された懇親会のようなもので、わたしは高校二年生の女の子と話した。

「わたしは中学生の頃から学校の生活が肌にあわなくて(精神的にもいろいろつらくて)、親にお願いして、高校を一旦休学してWWOOF(労働力を提供する代わりに衣食住を無料で受ける)システムを使って一年間くらい九州で働いていました。今月から再び高校に戻って通っているのですが、学校では『失敗しないこと』が何よりも重要視されて、とにかく同じ枠内に閉じ込められるような気持ちになる。これからも自分はしっかりと学校に通えるのか不安だけれど、ここ数日の間は『あと何日でさかつめさんに会える』ってカウントすることで元気を出していました」

2・人と話していても「人と話している」と思えない。


高校生の彼女とは、数か月前に訪れた湯布院のカフェで出会った。「若い感受性の潤いがほんとうに素敵だと思った」などと言うと陳腐に響くが、実際にその通りに感じていた。彼女曰く「これは同年代に限らないかもしれないですが、オシャレや恋愛などの話をしていても、他人の噂や芸能人の話題で盛り上がっていたとしても、話している『その人自身のこと』は何ひとつ伝わらないように感じています」

3・世の中には「自分を殺して他人に合わせることが重要だ」というメッセージに溢れている。


わたしは昔から周囲にうまく馴染むことができなかった。自分に無理をして愛想笑いをしていると死にたくなるし、誰かの言うことに問答無用で従うことも苦痛だった。おかしいと思うものには「おかしい」と言っていたいと思っていたが、世の中には「自分を殺して他人に合わせることが重要だ」というメッセージに溢れている。しかし、わたしにはそれができなかった。結果、現在は「家のない生活」「いばやという(何も事業をしていない)『存在しているだけで価値がある』ということにされている会社をやっている」「様々な場所で様々な人と話す」ことを通じて、どうにか死なずに生きている。

4・個人の集まりが集団になるのではなく、集団から抜け出した人間が個人になる。


これからは個人の時代だと頻繁に耳にする。わたしは、ひとつの誤解をしていたことに気がついた。いままでは「個人の集まりが集団になる」と思っていたけれど、実際のところは「まず先に集団と呼ばれる謎のイメージがあって、そこからはみ出した(馴染むことができずに抜け出した)人間が個人になる」ということだ。個人の集まりが集団になるのではなく、集団から抜け出した人間が個人になる。

繰り返しになるが、世の中には「自分を殺して他人に合わせることが重要だ」というメッセージに溢れている。「自分を出す」ことよりも「他人(集団)に合わせる」ことの方に価値が置かれてしまっているあまりに、いま、自分を見失っている人間が大量にいる。

5・おかしいのは世の中なのか、おかしいのは自分なのかと悩んだときに「おかしいのは自分なんだ」と思うと鬱病になる。


乱暴な言葉でまとめると「自分に自信がない」人間が多い。自分に自信がない人間は「思ったことを思ったように言ってはいけない(そんな自分の発言には価値がない)」と感じてしまう。結果的に、自分が思ったことを口にすることができなくなり、最悪の場合は「自分の気持ち」を完全に見失う。

おかしいのは世の中なのか、おかしいのは自分なのかと思い悩んだ時に「おかしいのは自分なんだ」と思うと鬱病になる。おかしいと感じる自分がおかしいのだと感じてしまえば、おかしくならない方がおかしい。誰だって壊れてしまう。自分がおかしいと感じることは絶対にその通りなのであり、「他人がどう思うか」ではなく「自分はどう思うのか」を大切にしないと簡単に自分を見失ってしまう。

6・ひとりの時間を過ごすことは「さみしいこと」「かなしいこと」「恥ずかしいこと」ではなく、ひとりでいられない時間を過ごすことが「さみしいこと」「かなしいこと」「恥ずかしいこと」になる。


個人の集まりが集団になるのではなく、集団からはみ出した人間が個人になる。個人になるということは「自分の軸を持つ」ということであり、本質的に「他人とは異なる」部分を抱えることになる。これは孤独であることと似ている。誰だって、ほんとうに自分の感情に忠実になれば他人とは異なる存在になる。「自分の代わりはひとりもいない(自分は唯一無二の存在だ)」というのは甘いファンタジーのことばではなく、厳粛な事実で、唯一無二の存在であることと「孤独である」ことは似ている。

7・「誰にも頼まれていないのにやってしまうこと(自分の代わりを見つけることができなかったもの)」に、その人自身の必然性が宿る。


本質的に怠け者であるわたしは「誰かが代わりにやってくれるのであれば、自分は何もしたくない」と思っている。料理をつくるのは好きだが、誰かが代わりに料理をつくってくれるのであれば、わたしはそれを食べていたい。楽器を演奏するのは好きだが、誰かが素敵な演奏をしてくれるのであれば、わたしはそれを聞いていたい。

ただ、どうしても自分の代わりを見つけることができないものがある。それが「自分の気持ちを表現すること」であり、だからわたしはこうして懲りずに文章を書いている。誰に頼まれた訳でもなく、誰かに強制されている訳でもなく、これをしたからお金がもらえるという訳でもなく、ただ、自分が「そうしたいと思ったから」いまもこうして自分の気持ちを表現するために懲りずに文章を綴っている。

8・「自分はどのような人間で、どのような人生を望み、実際にどのような日々を過ごしていたのか」ということ。


何かを書くことは「遺言を残す」ことに似ている。これが自分の最後のことばになるとしたら、自分はどのようなことばを残すのだろうか。「自分はどのような人間で、どのような人生を望み、実際にどのような日々を過ごしていたのか」ということは、その人自身が存在していた何よりの証明になる。

9・生きているのはいまだけで、いつか傷つくことさえもできなくなる日が必ず訪れる。


何かあたらしいことに挑戦しようとするときに、自分の行動をセーブしてしまう最大の感情は「傷つきたくない」という言葉で表現できる。他人から笑われてしまうことや、周囲の理解を得られないこと、失敗してしまうことなどの痛い目にあうことを通じて「傷つきたくない」と思ってしまうからこそ、次の一歩を踏み出すことに躊躇してしまう。傷つくくらいなら、何もしていない道を選びたくもなる。

しかし、当たり前のことだけれど、すべての瞬間には終わりがある。いつか、傷つくことさえもできなくなる日が、必ず来る。「傷つく」とか「傷つかない」とか、そういうものがすべてどうでもよくなってしまう瞬間が、遅かれ早かれ、誰のもとにも必ず訪れる。

10・失敗することも、成功することも、何かに傷つくことも、それを遥かに凌駕するよろこびに触れることも、すべては「生きている実感」を感じるためにあるのだということ。


そして死ぬときに思うのだろう。「もっと傷つけばよかった」と。もっと自分を投げ出して生きれば良かったと、成功するとか失敗するとかそういう次元を飛び越えて、自分を投げ出すことで「もっと生きていることを実感したかった」ということを、死ぬ間際に痛烈に感じながら消えていくのだろう。

すべてがうまくいくわけではないけれど、すべてがうまくいかないわけでもないということ。もっと言えば、決して「うまくいく」ために生きている訳でもないということ。失敗することも、成功することも、何かに傷つくことも、それを遥かに凌駕するよろこびに触れることも、すべては「生きている実感」を感じるためにあるのだということ。わたしは「生きている限り、生きていたい」と思っている。

人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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