【CTS-札幌】生きているのはいまだけで、いつか傷つくことさえもできなくなる日が、必ず来る。
1・「普通」とは何だろうか。
虐待を受けて育った女性が「今までは両親に土下座をしなければご飯は食べられないものだと思っていたので、みんながそうじゃないことを知った時は驚きました」と話してくれた。枠の外に出ることではじめて気付く『異常さ(枠内では絶対に気づけないこと)』みたいなものがあると思いました。
— 坂爪圭吾 4/17-18@旭川-札幌 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 16
2・人と話していても「人と話している」と思えない。
数ヶ月前に湯布院のカフェで会って、今夜は札幌で再会した高校二年生の女の子が「わたしは人と話したいって思っているのですが、人と話していても『人と話している』って思えないんです」と言っていて、この発言に凄いビビっと来ました。理由はわからないけれど、不思議と嬉しさを感じた。
— 坂爪圭吾 4/17-18@旭川-札幌 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 16
3・世の中には「自分を殺して他人に合わせることが重要だ」というメッセージに溢れている。
周囲や社会からは「こころを殺せば楽になれるよ」とずっと言われてきたように感じていて、言いたいことはわかるけれど、それだけは絶対に受け入れることが出来なかった。こころを殺すくらいなら苦しんだり思い悩む道を選ぶと思って生きてきた成れの果てが、いまの自分なんだなと思いました。
— 坂爪圭吾 4/17-18@旭川-札幌 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 15
4・個人の集まりが集団になるのではなく、集団から抜け出した人間が個人になる。
個人の集まりが集団になると思っていたけれど、順番が逆みたいだ。先に集団と呼ばれる謎のイメージがあって、そこからはじき出された人間が「個人」になる。個人として生きるということは孤独であるということで、孤独であるということは「正しい」ということだ。孤独に負けちゃいけない。
— 坂爪圭吾 4/17-18@旭川-札幌 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 11
5・おかしいのは世の中なのか、おかしいのは自分なのかと悩んだときに「おかしいのは自分なんだ」と思うと鬱病になる。
思ったことを思ったように言う人の存在は、自分にも発言の自由があることを思い出させてくれる。いつの間にか「思ったことを思ったように言ってはいけない」という謎のブロックが発生することもあるけれど、そんなものは大嘘で、思ったことを口に出来なくなったら人間は簡単に壊れてしまう。
— 坂爪圭吾 4/17-18@旭川-札幌 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 14
6・ひとりの時間を過ごすことは「さみしいこと」「かなしいこと」「恥ずかしいこと」ではなく、ひとりでいられない時間を過ごすことが「さみしいこと」「かなしいこと」「恥ずかしいこと」になる。
「孤独を身に着けた人は、誇り高い」という言葉に触れた。孤独な時は、その瞬間に自分が必要な何かに対峙している時なのだろう。それは「自分は何者なのか」を摑む最大のチャンスでもあり、孤独をごまかせば一時的なつらさや苦しみからは逃れることが出来るけれど、孤独を掘れば宝に出逢う。
— 坂爪圭吾 4/17-18@旭川-札幌 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 11
7・「誰にも頼まれていないのにやってしまうこと(自分の代わりを見つけることができなかったもの)」に、その人自身の必然性が宿る。
いまの仕事に「(綺麗事抜きで)自分がやる必然性を感じるかどうか」は、物凄い重要な視点だと思う。
— 坂爪圭吾 4/17-18@旭川-札幌 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 14
8・「自分はどのような人間で、どのような人生を望み、実際にどのような日々を過ごしていたのか」ということ。
自分の内側にある思いを綴るのは「遺言を書く」ことと似ている。明日死ぬとしたら言い残したことは何だろうかと考えて、自分の欲求を掴み、それを吐き出し、わずかでもそれを目にする人に伝わるように整える。そして、また明日から「余分に生きてしまった分」の遺言を綴っていくのだろう。
— 坂爪圭吾 4/17-18@旭川-札幌 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 13
9・生きているのはいまだけで、いつか傷つくことさえもできなくなる日が必ず訪れる。
生きているのはいまだけで、いつか傷つくことさえもできなくなる日が必ず訪れる。生きているということは「傷つくことが許されている」限定的な時間のことで、どのように生きるのかはその人の自由だ。わたしにとって、生きていることは「傷つく」ことに似ている。
— 坂爪圭吾 4/17-18@旭川-札幌 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 12
10・失敗することも、成功することも、何かに傷つくことも、それを遥かに凌駕するよろこびに触れることも、すべては「生きている実感」を感じるためにあるのだということ。
無傷であることは何の誇りにもならない。生きていたいということは、傷つきたいということだ。
— 坂爪圭吾 4/17-18@旭川-札幌 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 12