いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【KIJ-海のオフィス】「何者でもなく生きる」ということ。ー 何も持たずに生まれてきて、何も持たずに消えていく。人間であるよりも「一匹の動物」であるということ。

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私は「とにかくやばいことだけをやる」いばやという会社の共同代表をしている。オフィスを構える潤沢な資金事業もないので、誰かと会う時は自然環境を勝手に利用している。誰も使っていないスペースを見つけては「今日からここが俺たちのオフィスね!」という小学生的なノリで、いまでは幾つかのオフィスを勝手に構えた。海のオフィスに加えて、洞窟・森・星・雪・風のオフィス、などがある。

海のオフィス ー 「何もない」がある。

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私の実家から徒歩五分の場所に海がある。私はそこで育った。新潟県は日本で一番海水浴場の数が多いらしく、基本的には何処に行ってもガラガラだ。私は「誰も使っていない東屋」を見つけては、学生時代から其処に居座っていた。私はこの東屋を「海のオフィス」と名付けて、MTGの場所として利用したり(その時はアウトドアグッズで珈琲を淹れる)極少数の人間と集まって語り明かしたりしている。

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目の前の日本海に夕陽が沈んでいく。

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「別に何をする訳でもない」ということ。


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新潟には何もない。しかし、いまでは「『何もない』がある」と感じている。食べ物や楽器やスポーツ用品を持って知り合いが集まる。周囲には誰もいない。大声で叫んでも誰にも届かない。楽器を掻き鳴らしながら大声で歌ったり、ひとりで海を眺めたり、星空を眺めながら浜辺を歩いたりしている。

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街灯がないから月や星が綺麗に見える。去年の夏、私はSNSを通じて「テント」「寝袋」「原付自転車」の三点をもらった。これがあれば(自分が好きな場所にテントを張りながら)生きていけるんじゃないのかと思って、実験的に試してみた。毎日、移動した先にテントを張って眠る生活をしていた。

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周囲には波と虫の音しかしない。テントがあれば蚊に刺されることもない。極度のさみしさに襲われることもあるが、ノイズからは自由になることが出来る。一度でもテントで眠ったことがある人ならわかると思うが、まるで地球に抱かれているような気持ちになる。そして「人間が生きて行くのに必要なものは、それほど多くはないのだ」ということを実感する。

「夜が明けて、朝が来る」ということ。

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有難いことに、私がテントを張っている場所を知った知人の方々が毎日のように「餞別」を持ってきてくれた。酒や、菓子や、楽器や、本。私はそれを食べたり読んだりしながら、来客と話しつつ、そのあとはひとりの時間を楽しんだ。近くに住む人と話す機会にも恵まれる。「何をやっているんだ。しかし若くていいね。もしも風呂に困ったら、シャワーくらいは貸してやれるからいつでも言ってくれ」

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そして朝が来る。基本的にテントで眠った翌日は、太陽の光で目覚めるようになる。目覚まし時計は必要ない。勝手に空が明るくなり(時には明け方の寒さに震えながら)身体が勝手に目覚める。もしかしたら、目覚まし時計というのものは非常に非人間的なものなのかもしれない。本来であれば、食べたい時に食べ、眠りたい時に眠り、目覚めたい時に目覚めるのが人間としても自然であるように思う。

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日が昇る。もしも私が「家のない生活(屋外で眠るような生活)」をしていなければ、朝焼けがこれほど美しいということに気づくことはできなかっただろう。世界はグラデーションに溢れている。しかし、私はそんなことさえ知らなかった。

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世界が目覚める。

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時に涙が流れそうになることがある。原因はわからない。自分の中の凍りついていた部分が溶け出して、それが涙になって溢れて来るのかもしれない。太陽が大空をピンク色に染める。周囲には誰もいない。わたしはただそれを眺めている。

「何度でも心を震わせてくれる」ということ。

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世界遺産に登録されているような観光地でさえ、一度足を運んでしまえば「もういいか」という気持ちになる。要するに飽きてしまうのだけれど、自然に飽きることはない。何度みても朝日に感動している自分がいるし、何度でも足を運びたい気持ちになる。人工物の限界と、自然の偉大さを思い知る。

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そして珈琲を飲む。パソコンを開く時もあれば読書をするときもあるし、何もしない時もある。外で珈琲を飲む理由は「金がないから」だったはずが、不思議と「スタバで高い金を払って飲む珈琲より、海辺で飲む珈琲の方が圧倒的に美味い」と感じるようになった。普段は屋内でやっていることを、屋外でやるだけでも数倍味わい深くなることがあるのだということを知った。そして、夜でも大量の電力を消費しながら「昼を維持している」都心のスタイルに、何か違和感を覚えるようになっていった。

洞窟のオフィス ー 「発見のよろこび」がある。

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奇跡は余白に舞い込む。何もすることがないわたしは、海辺を原付自転車でひたすら散策していた。すると、誰も立ち寄らなそうなところに大きな洞窟を発見した。わたしは「これが洞窟のオフィスだ!」とひとりで舞い上がり、奥地へと潜入していった。

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岩場から波が打ち寄せる。波が高い日はまるで高速道路の下を歩いているのかと錯覚するほどに、轟音が鳴り響いている。日本海は決して優しい海ではない。しかし、その激しさから「生きるエネルギー」のようなものを感じ取ることが出来る。

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抜けた先には岩場と海が広がっている。誰もいない。わたしは「新潟の海は汚いものだ」と思っていたが、奥地へ進むほどに水は透明度を増していき、南国と錯覚するほどの場所を見つけた。別に何をする訳でもない。ただ、自分の故郷にもこういう場所があったのだという発見がとても嬉しかった。

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沈む夕日が綺麗だった。ここで何かをやったら面白そうだなと思い、わたしは「崖っぷちの人間を集めて崖っぷちで書道をする」という名目で『崖っぷち書道』というものを企画してみた。すると、驚いたことに大した告知もしていないのに県外からも車で8時間かけてきてくれた猛者もいて、楽しかった。


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もちろん、冬の間はテント生活を中断していた。寒いからだ。そしていま、再び季節は春を迎え、屋外に飛び出すのが非常に楽しみな時期になってきた。いままでは当たり前に家を持ち、当たり前に家に帰り、当たり前に家賃を払って(そして家賃を払うために仕事をしながら)生活をしていた。この『当たり前』が崩れたわたしは、上記で述べたように自分を使って『新しいライフスタイル』を模索した。

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当たり前の生活から逸脱すると、当たり前の生活の中ではなかなか出会うことができなかった幾つもの素晴らしい景色に遭遇することができた。これは決して観光地をめぐるようなものでもなく、大袈裟な言葉になるけれど「世界は自分のものだ(そして世界は誰のものでもない)」という実感になる。家を失ったわたしは「ホームをレスした」訳になるが、面白いことに「ホームをレスするとアウェイという概念もなくなる」のであり、地球全体が自分のホームであるような感覚を抱くようになっていった。


三つの大きな価値観の変動

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家を持たない生活を通じて獲得したものは大量にある。その中でも、この瞬間でも簡単に思い出すことができるものを三つにまとめる。ひとつは「屋内から屋外」という流れであり、ひとつは「消費者から生産者」という流れであり、ひとつは「ストックからフロー」という時代的な流れになる。

1・「屋内から屋外」へ。

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山奥で湧き出す湧水を汲んで淹れた珈琲はほんとうに美味しかった。「何をするか」よりも「どのようにするか」が、これからは重要なのかもしれない。人間である前に、自分も一匹の動物であるということを思い出すことができるのは都市部より自然の中だ。野性味を取り戻すことは「生きる力」を取り戻すことに似ている。朝日の美しさは言葉では形容できない。綺麗な写真が撮れた時はうれしかった。

2・「消費者から生産者」へ。

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「誰かに用意された道には何もない」ということを痛感している。消費者(受け身)でいる限り、大した満足感は得られない。自分の手でつくりだすしかないのだ。自分と同じ人間がこの世にひとりもいないように、自分のために生まれてきた人間もいない。結局は「自分はどうしたいのか」がすべてであり、他の誰でもない(自分の代わりは何処にもいない)、自分を喜ばせるのは自分の仕事だ。

3・「ストック(所有)からフロー(共有)」へ。

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現代社会が「等価交換」で成り立っているとすれば、自然界は「循環」の摂理で成り立っている。太陽は、別に見返りを求めて何かを照らしたりはしない。ただ、自分を剥き出しにして全力で輝いているだけだ。それが、結果として(めぐりめぐって)自分が再熱するエネルギーになっている。すべては循環している。出すほどに入り、入るほどに出ていく。何かを「溜め込む」ということをしない。

誤解されると困るが、わたしは何かを悟っている訳でもなければ、誰かに「自分と同じように『家を持たない生活』をするべきだ」とも微塵も思っていない。わたし自身も、これからどのような生き方をするかはわからない。いまのわたしに肩書きはなく、ただ単に生きている(存在している)だけに過ぎない。わたしは何者でもなく、何者になれるのかも、何者でありたいのかということさえもわからない。

ただ、生きていることだけは確かだ。

その中で様々なことを思い、様々な体験を重ね、様々なことを言葉や何かにして残そうとしている。それは誰かの胸に心地良く響くこともあれば、どうしようもないほど醜く響くこともあるだろう。現在感じていることは「自分を出し惜しみしないこと」と「自分が差し出せるものはしっかりと差し出していくこと」であり、季節は春を迎えている。春が来た。今年も、この国にあたたかい季節がやって来る。

人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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