いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【古い物語を新しい物語に書き換える】「アリとキリギリス」に込められた三つの罠について。ー 生きるためには必要ないけれど、生きていることを実感するために必要なこと。

イソップ童話に「アリとキリギリス」という物語がある。夏の間、アリたちは冬の食料を蓄えるために働き続け、キリギリスはバイオリンを弾き、歌を歌って過ごす。やがて冬が来て、キリギリスは食べ物を探すが見つからず、最後にアリたちに乞い、食べ物を分けてもらおうとするが、アリは「夏には歌っていたんだから、冬には踊ったらどうだい?」と食べ物を分けることを拒否し、キリギリスは飢え死んでしまう。


物語に込められた「二つの寓意」

これが有名な「アリとキリギリス」の物語になる。Wikipediaを参照すると、この物語には二つの寓意(教訓)が込められていることがわかる。一つ目の寓意は誰もが知っている所だと思うけれど、二つ目の寓意にはドキッとさせる何かがある。
「ひとつ目は、キリギリスのように将来の危機への備えを怠ると、その将来が訪れた時に非常に困ることになるので、アリのように将来の危機の事を常に考え、行動し、準備をしておくのが良いというもの」
「ふたつ目は、アリのように夏にせこせことためこんでいる者というのは、餓死寸前の困窮者にさえ助けの手を差し伸べないほど冷酷で独善的なけちであるのが常だ、というもの

これを見て、私は「今の日本と同じだ」と思った。


「アリになりましょう」という罠

「夏の間も遊んでいると、キリギリスのように冬に地獄を見ることになりますよ(だからアリのように、夏の間も《自分が嫌なことでも我慢して》せっせと働きましょう)」的な教育を施す際に、引用されるのがアリとキリギリスの物語になる。基本的な教育では「アリは善」で「キリギリスは悪」ということになり、このような前提の社会では、自分の好きなことだけをやって暮らすのは「悪」であり、自分が嫌なことでも我慢してせっせと働くことが「善」となり、「悪は死んで当然」ということになる。


「アリになれ(キリギリスにはなるな)」というメッセージには三つの罠がある。


1・「嫌なことでも我慢してやる」という罠

2・「冷酷で独善的な人間になる」という罠

3・「生きることを実感できない」という罠


「嫌なことでも我慢してやる」という罠

ひとつめは「嫌なことでも我慢してやる」という罠であり、自分が好きなことだけをやっているような人間は、最後には死んでしまう(だから嫌なことでも我慢してやりましょう)という刷り込みが行われてしまう。こうした刷り込みを通じて、多くの人々が「仕事はつらいものだ」とか「自分が好きなことだけをやろうとするのは甘い考えだ」という思い込みを抱くようになり、閉塞感が醸成される。


「冷酷で独善的な人間になる」という罠

ふたつめは「冷酷で独善的な人間になってしまう」ということであり、キリギリスのように困窮している餓死寸前の人間に対しても、助けの手を差し伸ばさない冷酷な人間を育て上げてしまう。「それはお前の責任だ(自業自得だ)」という言葉ですべてが一蹴されてしまい、見捨てられる人々の存在を肯定してしまう結果になる。乱暴に言えば「困っている人を見殺しにする世の中」が出来上がってしまう。


「生きることを実感できない」という罠

私から見ると、アリは「生きるために必要なこと」を夏の間にやっていたが、キリギリスは「(生きるためには必要ないけれど)生きていることを実感するために必要なこと」をやっていたのだと感じている。バイオリンを弾くことや、歌を歌って踊ることなどは、言い換えるならば「芸術活動」になる。生きるために「芸術」は必要ない。しかし、生きていることを実感するために芸術は最高の方法になる。


古い物語を新しい物語に書き換える

マッチ売りの少女を殺したのは誰か?」の記事内でも言及したように、私たちは自分の想像を超えて古い常識や古い物語に毒されてしまっている生き物であり、「こうあるべき」とか「そういうものだ」と刷り込まれているすべてのことが、必ずしも《本当にその通りだとは限らない》場合が頻繁にある。


【参考記事】マッチ売りの少女を殺したのは誰か。ー 自分をオープンなものにしている限り人間は絶対に死なない。 - いばや通信


必要なのは「古い物語を新しい物語に書き換える」ことであり、私は、この「アリとキリギリス」の物語を21世紀版にアップロードする時が来ているのではないかと勝手に感じている。Wikipediaの中でも触れられているように、過去にディズニーがこの物語を改変している作品がある。

「アリ『か』キリギリス」から「アリ『と』キリギリス」へ

その作品の中では、冬にキリギリスが飢えてアリに助けを乞う所までは同じだけれど、優しいアリがキリギリスに助けの手を差し伸べる。それに感動したキリギリスは、お礼に(夏の間に訓練を積んだ)バイオリンを弾くことで恩返しをする。結果として、アリとキリギリスは「(いつもとは違って)冬を《豊かに》乗り越えることができた」という結末を迎える。

私は、これこそ「アリとキリギリス」だと思った。冒頭で紹介した従来の「アリとキリギリス」の物語は、読者に「アリかキリギリスか、お前はどっちだ?」という選択(?)を求める。しかし、アリもキリギリスも共生できる社会の方がずっと豊かであると私は思うし、「アリかキリギリスか」の二者択一を求められるような(キリギリスは死んでしまうような)世界は、非常に息苦しい世界であると思う。

生きていることを実感するために必要なもの

誤解されると困るが、私は「アリの生き方」を否定したい訳ではなく、真逆で、アリのように蓄えを備えてくれる人がいるからこそ、私のように「家のない生活(何度も引き合いに出してすみません)」を送り続ける完全なるキリギリス系の人間でも、死なずに生き延びることが出来ている。


「アリになりましょう」というメッセージには三つの罠が隠されている。それは「嫌なことでも我慢してやる」という罠であり、「冷酷で独善的な人間になる」という罠であり、「生きることを実感できない」という罠になる。本来であれば、誰の中にも『アリの部分』と『キリギリスの部分』があり、明確に「私はアリです(私はキリギリスです)」とは断言することは出来ないものだと思っている。


生きる為には必要ではないけれど、生きていることを実感するためには必要なこと、それが芸術であり、生きるよろこび《感動》になる。アリにならなければ生きていけない(キリギリスになってしまったら死んでしまう)物語から「アリとキリギリスが共存できる物語」に、古い物語を新しい物語に書き換えていく。


人生は続く。


坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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