いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

マッチ売りの少女を殺したのは誰か。ー 自分をオープンなものにしている限り人間は絶対に死なない。

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知多半島の朝焼けが綺麗だった。先日開催されたトークセッションの中で、参加者の女性が「古い物語を、新しい物語に書き換える必要があると思っています」と話してくれた。この言葉が今でも印象に残っている。私は、最近頻繁に考えている「マッチ売りの少女」が良い例になるのではないかと思い、あれこれ思考を巡らせていた。


マッチ売りの少女の物語をおさらいすると、「大晦日の夜に少女はマッチを売っている。すべてを売らなければ父親に厳しく叱られてしまうために、少女は懸命にマッチを売ろうとする。しかし、マッチを必要としてくれる人は少なく、少女は自分を暖めるためにマッチを擦る。幾つもの幻想的なイメージが現れて少女を慰めるが、結果として少女は寒空の下で死んでしまう」という内容になる。

「誰か助けてください」と言えない

Twitterでも呟いたように、もしも少女が「マッチを買ってください」ではなく「誰か助けてください」とお願いしていたら、寒空の下で死ぬことはなかったのではないだろうか。凍える少女が助けを求めたら、街を行き交う人々の中にも「助けてくれる人」は少なからずいるような気がする。しかし、少女は「誰か助けてください」と言葉にするよりも「(買ってくれる人が少ない)マッチを売る」という行為を優先してしまった結果、寒空の下で死んでしまう。

かっこつけてしまった本屋さんの話

私の知り合いに、小さな本屋さんを営んでいる男性がいる。地域のコミュニティスペースとしても機能しているこの本屋さんには、特別な用事がなくても誰でも気軽に集まれる、非常に温かい雰囲気が溢れている。「そこに行けば誰かに出会える」という魅力に惹かれた人達が、別に本を買うわけでもないのに「近くを通ったから」という理由だけでふらっと立ち寄り、今では県外からの来客も増えている。

しかし、Amazonなどの影響により、正直に言えば本はまったく売れない状態にある。粗利も少ない為に経営的にも非常に厳しく、このままだと半年後には潰れてしまうという状況に置かれてしまった。ある日、本屋のご主人さんと常連客のメンバーを集めて「現状を打破する為の緊急ミーティング」が催された。数回に及ぶ話し合いを重ねた結果、「(本を売るのではなく)サポーター制度にすればいい」ということになった。この本屋さんが存在し続けて欲しいと願う人達が、本を買うことで売り上げに貢献するのではなく、月会費として一定の金額を払うことで、みんなでこの本屋さんを支えるスタイルにすればいいということになり、私もこのアイデアには賛成だったが、ひとつの問題が起こってしまった。

本屋のご主人さんが「これからの本屋の新しいスタイルとして、サポーター制度を導入します」という風に告知をしてしまった。実際に窮状に置かれていることは表には出さず、「これからの本屋はこれだ!(これが先進的なスタイルだ!)」みたいな形で、自分の恥ずかしい部分(実は経営が困難な状態に置かれていること)は晒すことなく、『これからの本屋』という格好いい言葉を使ってしまった。

今までも、この本屋さんは様々な試みをしていたために、それを目にした人たちも「また新しいことをはじめたのね」という興味はもってくれた。しかし、実際に「自分は金を出すか」という現実的な問題になると、実際に金を出す人はそれほど現れなかった。そのまま数ヶ月が経ち、いよいよ経営も危なくなってきた時に本屋のご主人は全体に告白した。「実は経営がとても苦しい。だからこそ、このサポーター制度をはじめた。もしよかったら(本屋を通じて生まれたコミュニティが、これからも存在し続けて欲しいと思う人がいてくれたら)サポーターになってもらえたら嬉しい」と正直に話した。

それを耳にした人たちは「そうだったんだ!早く言ってよねー!」みたいな感じで、多くの人たちが本屋さんを支えるための具体的な行動を起こした。当初は「これからの本屋」というイメージやビジョンの話に終始していたものが、「実は経営が苦しい」という極めて個人的で現実的な問題を伝えることによって、結果として多くの人たちの行動を促すことに成功した。

自分をオープンなものにしている限り絶対に死なない

私の信条のひとつに「自分をオープンなものにしている限り絶対に死なない」というものがある。およそ一年間に及ぶ「家のない生活」を通じて、こうした思いを熱烈に強化した。私は自分自身の現状を晒し、残り少ない所持金などの情報も臆面もなく晒すことで、多くの人たちの助けを得ることが出来た。

不安や恐怖心は人間の心を閉ざし、自分自身をクローズドな状態にしてしまう。同じように、見栄やプライドも自分自身を実際以上に大きく見せようとする力が働いてしまうために、自分自身に嘘をついている(無理をしている)状態になる。自分自身に無理をすると、心は閉じてしまうので最悪の場合は死んでしまうこともある。それでは、何がマッチ売りの少女を殺してしまったのだろうか。

マッチ売りの少女を殺したのは誰か?

前置きが長くなりまくった。マッチ売りの少女が「それでもマッチを売り続けた理由」があるとしたら、それは果たして何だろうか。この物語の重要なポイントは「少女には厳しい父親がいて、マッチをすべて売らなければ帰宅することが許されなかった」という点にあると私は思っている。

少女が生き残る道は無限にあった。誰かに助けを求めてもいいし、マッチ以外のものを売ってもいいし、近所の交番や各種NPO団体や民間企業に救いの手を求めたりすれば、寒空の下で死ぬことはなかった。しかし、幼い少女には「マッチをすべて売らなければ帰宅することができない」という親や教育の刷り込みが強烈に存在していたために、最終的に「刷り込みによって殺されてしまう」結果になった。

本当は生きる道はたくさんある。しかし、親や教育の刷り込みによって「自分が生きる為にはこれしかないんだ」と思い込まされてしまって、結果として(それがうまくいかなくなってしまった時に)死んでしまうという最悪の結末を迎えてしまう場面というのは、現代社会にもたくさんあると私は思う。

「親(教育)の強烈な刷り込み」による呪縛

マッチ売りの少女は、すべてのマッチを売らなければ父親から厳しく叱られてしまう。マッチ売りの少女がマッチを売っていたのは、「自分が死なないため」ではなく「父親から叱られないため」だった。自分が生き残るためならば、マッチを売らずとも「誰かに助けを求める」ことができたかもしれない。しかし、少女は「マッチを売らなければいけない(父親の期待に応えなければいけない)」状態に置かれていたので、必死に期待に応えようとするのだけれども、結果としては最悪の形を迎えてしまう。

私は、これと良く似た状況を現実社会で見たことがある。

「就職活動に失敗して自殺をしてしまう」というニュースに代表されるように、常識的な両親から「良い人生とは、良い大学に通い、良い企業に勤めることだ」と教育された人間は、両親からの期待に応えるために自分の人生を捧げてしまう。そして、それが失敗してしまった時には「自分の人生は終わりだ」と思い込んでしまい、自らの手で命を絶ってしまうことがある。本来であれば、世の中には多様な選択肢がある(起業をしてもいいし、生活保護を受給してもいいし、海外に移住をしてもいい)のだけれど、他人から要求された「こうあるべき」というスタイルだけが唯ひとつの『許された生き方』となり、それが達成されなくなった瞬間に「自分の人生は終わりだ」となってしまう場合が無数にある。

「こうあるべき」と思い込まされているものの多くは、家庭や学校における刷り込みである場合が多い。マッチ売りの少女は、その健気さから「父親の言うことがすべて」の世界を生きるしかなく、結果として寒空の下で死んでしまった。「これが絶対ではない(他にも生きる道はたくさんある)」と思う精神的な余裕や余地は、少女の中には残されてはいなかった。これが最大の悲劇なのだと私は思う。

古い物語から、新しい物語へ

繰り返しになるが、私の信条のひとつに「自分をオープンなものにしている限り絶対に死なない」というものがある。逆に言えば、不安や恐怖心や見栄やプライドや親(教育)の刷り込みなどは、人間の心を閉ざしてしまい、自分自身をクローズドな状態に導いてしまう。今、時代が大きく変わろうとしている中で、非常に重要になるのは「新しい物語を生きる」ことではないだろうかと私は感じている。

私たちは多分、自分たちの想像を超えて『常識に毒されている』生き物だと思う。こうでなければいけないという幾つもの呪縛に囚われて、自分自身を自由な方向へと押し出すのではなく、自分自身を閉ざして苦しめてしまっている場合が無数にある。必要なのは「古い物語を手放して、新しい物語に書き換えていく」ことであり、こうした物語の書き手になるのは(他の誰でもない)自分自身になる。


自分が感じる違和感の中にヒントがある。私はそのように感じている。自分はどのような人生を送りたいと思っているのか、自分を不自由にさせているものを的確に捉え、手放し、古い物語から新しい物語に書き換えていく。

人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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