【未完の死生論】「死」は悲しいことなのか。ー 保証されているのは「昨日」でも「明日」でもなく、目の前にある「今日」という瞬間だけであるということ。
「死」は悲しいことなのだろうか。「死」は悲しみだけで構成された出来事であり、もう二度とその人には出会うことが出来ない、そして、残された者には悲嘆に暮れる以外の選択肢は残されていないものなのだろうか。
【参考記事】余命宣告と優しい嘘 | 青山華子ウェブサイト
人は必ず死ぬ。これは避けられない運命であり、必ず最後には終わりの瞬間を迎える。だからこそ、この瞬間を大切にしようという気概が湧く。人間がいつまでも生きられる存在だとしたら、この瞬間を大切にしようとは思わない。必ず最後には終わりの瞬間を迎えるからこそ、この瞬間に輝きが帯びる。
私は今、沖縄県の宜野湾市にいて、不思議と「死」について考えている。身近な人間が死んでしまった訳でもなければ、自分自身が病んでいる訳でもない(と思う)。イベント出演で全国各地を巡りながら、稀に「死」が話題にあがることがある。私は、そういう時に「天国」の存在を思う。天国が実在するのかどうかはわからないが、天国と呼ばれるものがあるのだとしたら、死んでしまった人達は「天国で待っている」ことになり、私たちは、其処で再会を果たすことになる。
生きていることと死んでしまうことの間にある「差」は何だろうか。美味しい料理を食べられなくなることだろうか。会いたい人に会えなくなることだろうか。成し遂げたいと思っていたことを、成し遂げることなくこの世を去らなければいけなくなるということだろうか。私には何も答えが分からない。あるのは頭の片隅にある「問」だけであり、それは「お前はどう生きるのか」と疑問符を投げかけてくる。
ある男性が話してくれた。
「私のひいおばあちゃんは老衰で亡くなり、『おやすみ』と言って静かに眠りについた日の夜から、二度と目覚めることはなかった。私は、こんなことを言うのは不謹慎なことかもしれないけれど、そこに『うれしさ』を覚えた。それは、自分もいつか必ず死ぬ存在であるということを気づかせてくれた嬉しさなのか、苦しむことなく安らかに天国に行けたおばあちゃんに感じたうれしさなのか、その正体はわからない。ただ、私にとって『死を身近に感じる』ことの中には確かなうれしさがあり、自分も『明日も生きていられるとは限らない』ということを強く実感することができた、非常に貴重な出来事になった」
ある女性が話してくれた。
「私は息子を自殺で亡くしている。ある日、息子は交通事故を起こしてしまって、高校生の男の子の命を奪ってしまった。親族の元に謝罪に伺う日々を過ごしながら、懸命に働いて慰謝料を払い続けたが、ある日、自責の念に耐えきれず息子は自らの命を絶ってしまった。非常に辛く悲しい出来事だったが、今でも思い出す度に胸が苦しくなることもあるが、私は、息子の選んだ道は『自決』なのだと思っている。今でも私は息子の存在を誇りに思っているし、息子が自分で選んで自らの命を絶ったということも、尊重したい(尊重していきたい)と思っている」
稀に「死」について語り合う機会が設けられた時、私は、その体験から何を学び取ればいいのか、どのような感情を選択すれば良いのかが、まるでわからなくなる時がある。「生きているのは今だけだ」という陳腐な(それでいて確かな重厚感を持って自分自身に迫ってくる)感情と「最後には終わりの瞬間が必ず訪れる」という事実は、「お前はどう生きるのか」という根源的な問いを突きつけてくる。
「ただ生きる、生きるしかない」
過去でも未来でもなく、今日一日の区切りで生きるということ。「これに何の意味があるのか」などを考えるのはやめにして、今日という一日を最高と呼べる一日にする為だけに、自分自身のエネルギーを使い果たそう。今日だけは、自分がやりたいと思ったことを思い煩うことなくやってみよう。今日だけは、誰かに自分の気持ちを伝えることに、臆病にならずに挑んでみよう。今日だけは、今日という一日の区切りの中を生きてみよう。
一、今日だけは、幸福でいよう。リンカーンは「たいていの人々は、自分で決心した程度だけ幸福になれる」と言ったが、まったく至言である。幸福は内部から生じる。外部のことがらではない。
二、今日だけは、自分自身をその場の状況に順応させて、自分の欲望のためにすべてを順応させることを控えよう。自分の家族も仕事も運も、あるがままに受け入れて、自分をそれに合わせよう。
三、今日だけは、身体に気をつけよう。運動をし、身体を大切にし、栄養を取ろう。肉体を酷使したり、軽視することはつつしもう。そうすれば、身体は意のままに動く完全な機械になるだろう。
四、今日だけは、自分の精神を鍛えよう。何か有益なことを学び取ろう。精神的な無精者になるまい。努力と思考と集中力を必要とするものを読もう。
五、今日だけは、魂の訓練のために三つのことをしよう。だれかに親切をほどこし、気づかれないようにしよう。ウィリアム・ジェームズが教えているように、修養のために少なくとも二つの自分のしたくないことをしよう。
六、今日だけは、愛想よくしよう。できるかぎり晴れやかな顔をし、おだやかな口調で話し、礼儀正しくふるまい、惜しげなく人をほめよう。他人の批判やアラ探しをつつしみ、他人を規則でしばったり、戒めたりすることをやめよう。
七、今日だけは、今日一日だけを生き抜くことにして、人生のあらゆる問題に同時に取り組むことをやめよう。一生のあいだつづけるとしたら、いや気のさすような問題でも、十二時間ならばがまんできる。
八、今日だけは、一日の計画を立てよう。処理すべき仕事を一時間ごとに書き出そう。予定どおりにはいかないかもしれないが、ともかくやってみよう。そうすれば、二つの悪癖――拙速と優柔不断と縁が切れるかもしれない。
九、今日だけは、たったひとりで静かにくつろぐ時間を三十分だけ生み出そう。この時間を使い、ときには神について考えよう。人生に対する正しい認識が得られるかもしれない。
十、今日だけは、恐れないようにしよう。とくに幸福になることを恐れたり、美しいものを楽しむことを恐れたり、愛することを恐れたり、私の愛する人が私を愛していると信じることを恐れないようにしよう。 ー 「今日だけは」シビル・F・パートリッジ
私たちに保証されているのは「昨日」でも「明日」でもなく、目の前にある「今日」という瞬間だけであるということ。悲しみを悲しみとして終わらせないために、自分自身の生き様に新しい何かを宿らせるために、必ず最後には終わりの瞬間を迎えるからこそ、この瞬間を猛烈に生きるしかない。人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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