いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【不倫肯定論】所有は人間の自由を剥奪する。ー 「その人を使って自分を幸せにしたい」のか「自分を使ってその人を幸せにしたい」のか。

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私の知人カップルが面白い契約(?)を結んでいる。それは「お互いに、他の異性と付き合っても良い(もちろんセックスもOK)」というものであり、恋愛において『所有』という概念を持ち込まない『まだ名前の与えられていない新しい関係性』は成り立つのかを試して(?)いる。

また、私の周りには浮気や不倫をしている人たちがたくさんいる。印象的なのは、決して彼らが「火遊び」や「憂さ晴らし」でそれをしている訳ではなく、本気で相手のことを愛しているということだ。人は、時として同時に別々の人間を同時に好きになることがある。主人のことも愛しているが、新しく現れた別の男性を愛してしまって苦悶している子持ちの主婦の知り合いもいる。

今の私には特定の彼女はいない。稀に、夜中にさみしさを覚えた時などに「彼女がいたらいいな」と思うこともあるけれど、(自分の欲求について深く考えてみると)もしかすると欲しいのは別に特定の恋人ではないのかもしれないと思うことがある。

「恋人が欲しい」と一言で言っても、人によってその言葉に含まれる意味は異なる。「夜中に電話できる異性が欲しい」場合もあれば「手を繋げる相手が欲しい」と思う場合もあるし、「セックスがしたい訳ではないけれど抱き締め合ったり温もりを感じたい(安心したい)」場合もあれば「単純にセックスをしたい」場合もある。

今までの価値観では『結婚してひとりの人間と添い遂げること』が唯一にして最大の幸福とされてきた。しかし、現実には三組に一組は離婚していて(これは近い将来「二組に一組」になるとも言われている、婚活ブームの裏には結婚したくてもできない人たちが大量にいて、結婚していたとしても夫婦仲が険悪になっていたり、実際に浮気や不倫をしている人たちも大量にいる。

これはもう、現代の恋愛や結婚というシステムが良い感じに限界を迎えているのではないのかと思うことが多い。では、次は何が来るのか。そこで、最近の私が何となく感じているのが「不倫肯定論」であり、冒頭のカップルが結んだ契約(?)のように(新しいスタイルが台頭する過程においてひとりが複数人と付き合うようなスタイルが増えてくるのではないのかと睨んでいます。

結婚できない(恋愛できない)理由のひとつに「理想が高すぎる」というものがある。


「安定した収入がある人」「自分の世界を広げてくれる人」「一緒にいると落ち着く人」など、恋愛や結婚をする相手に求める条件は多岐に渡る。私の考えでは、これらの要素をたったひとりの人間に求めてしまうからこそ『理想の相手』が見つからずに時間だけが流れてしまう場合があるような気がしている。それでは、どうすればいいのだろうか。

キーワードは「分散」だと思う。

極論、複数人の恋人を持てば問題は解決される。「この人はお金をくれる人」「この人は自分の世界を広げてくれる人」「この人は一緒にいると落ち着く人」など、恋愛や結婚に求める理想を複数人に分散させる(例えば同時に三人の恋人を持つ)ことで、恋愛に参加するハードルが下がるのではないだろうかと思っている。まず特定の恋人を持ったあとに、その人には足りない部分を(その人に求めるのではなくて)別の相手で補う。こういう話をすると「お金を出すだけでいいなんて思う人はいるのか」と思われるかもしれないが、事実、そうした人もいるような気がしている。

浮気や不倫が問題視されるのは、自分が恋人なりパートナーを「自分の所有物」だと思い込んでいるからこそ覚える怒りや嫉妬が原因なのだと私は思う。自分の所有物だと思うからこそ、勝手なことをされる(自分の意に沿わないことをされる)と怒りや嫉妬の感情を覚えてしまう。しかし、本来であれば誰もが自由意志を持った存在であり、人間が人間を所有することは(奴隷制度でも適用させない限り)無理だ。そして、怒りや嫉妬の感情は多く場合「自己愛」に繋がっている。その人を使って自分を幸せにしたい」と思うのが自己愛ならば、「自分を使ってその人を幸せにしたい」と願うのが無条件の愛なのではないだろうか、と思うこともある。

誤解されると困るが、私は決して「結婚してひとりの人間と添い遂げること」を否定したい訳ではない。最愛の相手を見つけた人は最高であり、そういう人は思い煩うことなくその相手との人間関係を深めまくっていけばいいのだと思う。重要なのは「幸せの形がそれしかない」ということで、そこから漏れてしまった人(最愛の相手が見つからない人や、愛情が冷めてしまった人)は「不本意ながらも、自分の人生を耐え忍びながら甘んじて受け入れるしかない」という現在の価値観(?)を、もうちょっとほぐしていけないものだろうかと私が思っているということです。

私が感じていることを要約すると、

1・所有は人間の自由を剥奪する。浮気や不倫が問題視されるのは、自分が恋人なりパートナーを「自分の所有物」だと思い込んでいるからこそ覚える怒りや嫉妬が原因なのだと私は思う。それでは、人間関係から所有の概念を取っ払ったときに、どのようなことが起こるのかに興味がある。

2・恋愛や結婚に求める役割を分散する。役割を分散することで、恋愛や結婚に参加するハードルが下がる。たったひとりの人間にあらゆる要素を求めるのではなく、自分が考える「理想の恋人像」を複数人で達成する。これを突き詰めて考えると「家族」という概念も揺らいでくる。

3・幸せの形を増やす。「結婚してひとりの人間と添い遂げること」だけが幸せの形になってしまうと、そこから漏れてしまった人たちが「不本意ながらも、耐え忍びながら自分の人生を甘んじて受け入れるしかない」「隠れて(世間的な負い目を抱えながら)浮気をするしかない」「最悪の場合は離婚をする(極端な選択をする)しかない」という結末を迎えてしまう。

このようなことを感じています。

余談になるが、恵比寿で開催されたトークセッションに「人生とは(自分を使った)人体実験である」と発言する女性が来てくれた。彼女の話が衝撃的だったのでご紹介します。

「私は、私が今までやったことのないことをやったときに、自分の心が何を感じるのかにものすごい興味があります。それでは、自分が一番やりたくならなそう(やりたくないこと)は何だろうかって考えてみたら、それは『自分が嫌いな相手とセックスをする』ということであり、『自分が嫌いな相手とのこどもを授かる』ことでした。そして、私は実際にそれを試してみて、二人のこどもを生みました。こうした経験を通じて私が学んだことは『いやなものは、やっぱりいやだ』ということでした。自分がいやだと思うことはやっぱりいやで、それならばやっぱり私は私が好きだと思うことをやった方がいいんだなって思ったし、逆に言えば、そういう実験を通じて『自分が好きなことがますます輝いて見えてくる』ようにもなったのも面白かったです」

なんていうか、物凄い話だと思った。人体実験をするにもほどがあると思った。結末が「いやなものは、やっぱりいやだ」というのも凄過ぎる。そして、私は彼女の話を聞きながら「うれしい気持ち」になってしまった。(賛否両論はともかく)自分の身体を張って生きている人は素敵だ。それならば、私も私の身体を使って実際に試して見なければダサい。不倫肯定論を、ただただ頭で考えるだけではなく(せっかく今は特定の彼女がいないというこの状態を生かして)自分の人生を使って色々と試してみたいと思いました。どのように試すのかは謎だらけですが。

この問題(不倫肯定論)は答えが出ている問題ではない。そのために、自分自身を使っていろいろと試したり実際に何かを感じたり様々な人の話を聞きながら、徐々にまとめていきたいと思っています。

人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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