いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

自分に忠実に生きようとすれば、どうしても他人とは違う生き方になる。ー 職業は自分を表現する手段に過ぎず、本質的には職業「自分(まだ名前が与えられていないもの)」になる。

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最近、面白い出来事に遭遇している。私は自分のスケジュールを全体に共有している。ご覧いただければわかるのだが、基本的に暇で自分のやりたいように暮らしている。私の生き方や私が書く文章に興味を持ってくださる方から、今では平均して1日20件程度の連絡をいただいている。

【坂爪圭吾のスケジュール】坂爪圭吾

「暇な時間帯はいつでも会えます。交通費を負担していただければ日本全国何処でも行きます。電話番号やLINEのIDも公開しているので、何かの依頼や他にも不明点などあれば誰でも気軽にご連絡ください」という風に公開している。先日、東京で女性の方から「会えますか?」という連絡をいただいた。私は「もちろんです」と返事をした。そして、私たちは新宿の喫茶店で軽くお茶を飲むことになった。

その女性の方の話が面白かった。

「私は、坂爪さんの生き方はアートだと思っています。坂爪さん自身が作品で、私が喫茶店のお茶代を負担する(注・この日の飲食代はすべて女性の方が支払ってくれた)のも、坂爪さんというインスタレーション(空間芸術)作品に支払う参加費のようなものだと思っています」

また別の場所ではこんな言葉も、

「私は、坂爪さんは現代の建築家だと思っています。建築家といっても、決して家を建てるという意味での建築家ではありません。家を持たない暮らしや金を使わない生活を通じて、坂爪さんは『新しい時代のライフスタイルを建築している』ように私には見えているのです。そこに最大の興味を持って『実際に会ってお話をしてみたい』と思って連絡をしました」

また別の場所ではこんな言葉も、

「私は、坂爪さんはアイドルだと思っています。私にとってアイドルとは『生き様を通じて他人を感動させる』『存在で魅せる』ものであり、必ずしも歌って踊れる若くて可愛い女の子という意味ではありません。坂爪さんが意識的にやっているとは思わないのですが、坂爪さんの生き方や坂爪さんが書く文章は、それを見る周囲の人たちを明るく前向きな気持ちにさせています。私にはこれが『アイドル力』だと思っていて、アイドル力とはつまり『生き様を通じて他人を感動させる』力を持っている人のことを指します。坂爪さんには、天然のアイドル力が不思議と強烈に備わっているような気がしています」

また別の場所ではこんな言葉も、

「私は、坂爪さんは坂口安吾の生まれ変わり(要するに文豪)であるように感じています。単純に明るい面だけではなく、人生が与える暗い面もしっかりと見据えた上で『それでも善く生きようとしている』姿が、それを見る人の心を打っているのだと思います。言い換えるならば『人間はなぜ生きるのか』という問いに真摯に向き合っているように私には見えて、その姿勢が坂口安吾というひとりの文学者の生き方にリンクしました」

また別の場所ではこんな言葉も、

「私は、坂爪さんは良寛さんみたいなものだと思っています。日本全国から講演などの依頼を受けて、各地に住む人々から住む場所や食べるものなどの施しを受けながら、人間はどうあるべきかということについて説法を説いてまわっていた良寛さんのイメージが、坂爪さんを見ていると浮かび上がります。良寛さんも、死ぬまで定住することなく全国を流転しながら過ごしてきたと言われています。自然と子供を何よりも愛し、生命の価値を尊んで来られたらしいのですが、坂爪さんも非常によく似ているような印象を受けます」

また別の場所ではこんな言葉も、

「ロックですよ、これはもう。輝いてます。きっと今は、ほとばしるように言葉が湧き出ている時期なんだと思います。『この人の文章を読んでいたい!』と久しぶりに思わされました」


もちろん、すべての人がこのように私を良く言ってくれる訳ではない。未だに、まだ会ったことのない人から「ホームレス」だの「乞食」だの「落伍者」だの「エセプロブロガー」だの「お前は生きる価値なし」だのと言われることもあるが、同時に、行く先々で出会う人々からこのように言ってもらえられることも多い。私は、私の生き方にまだ明確な名前を与えていない。私はただ単純に私の人生を自分が感じるままに生きているだけで、それを見た周囲の方々が様々な名前を与えてくれる。それは時に『アーティスト』『建築家』『アイドル』『文豪』『良寛さん』『ロック』と呼ばれることもあれば、『ホームレス』『乞食』『落伍者』『エセプロブロガー』という悪意を込めて呼ばれることもある。

この話から思い出すエピソードがある。

とある対談の中で、坂本龍一氏と村上龍氏が「バッハとバロック音楽」について話していた。「バッハは音楽の父とも呼ばれている。ただ、当時は『バロック音楽』という言葉も概念もなく、バッハ自身は『ルネサンス音楽の作曲法の枠を打ち破ろうとしていた』だけに過ぎない。言い換えれば『自分が思うように(周囲から見ればまるで意味不明に見えることもあるだろうけれども)自分のスタイルを貫いていった結果、そのスタイルが『バロック音楽』と呼ばれるようになって定着していった』のだと思う」という内容の話だった。記憶が曖昧だから間違っている部分も多いかもしれない。私には、この内容が今でも強く残っている。「誰かが自由に好き勝手にやったこと(周囲から見ればまるで意味不明に見えること)が、結果としてひとつのスタイルとなって定着していく」というのは、面白い読み解き方だと思った。バロック音楽という言葉や概念がない時代から見れば、バッハがやっていたことはまるで意味不明な営みに過ぎない。しかし、バロック音楽という言葉が与えられた瞬間に、それはひとつのスタイルになる。名前がひとつのスタイルを生み、名前が与えられることで世界を見る目がひとつ増える。

私は、私の生き方にまだ名前を与えていない。

自分が自分の人生を生きる中で感じたことを言語化して、時には周囲の人々にそれを話し、時にはひとりで読書をしたり自然を眺めたりしながら、ふとした瞬間にさみしさを覚えたり、何気ない出来事に大げさに感動を覚えたりしている。私の生き方にはまだ名前はないが、私自身には「坂爪圭吾」という名前がある。私がこれから何者になるかはわからない。それはアーティストの要素を強く持つものかもしれないし、時には文豪や僧侶やアイドル感の漂うものかもしれないし、もしかしたら今はまだこの世に存在していない名前が与えられる生き方になるものかもしれない。ただ、ひとつだけ明確なことは「これからも坂爪圭吾は坂爪圭吾であり続け、より一層の坂爪圭吾となっていくであろう」ということだ。

言葉にすれば意味不明だが、感覚としてはそんな感じだ。自分自身が作品であること。これはすべての人に言えることであり、誰もが自分自身という作品を生きている。職業や肩書きは自分を表現する手段のひとつに過ぎず、本質的には職業「自分」であると私は思う。そして、自分と同じ人間は世界中のどこにもいない。過去にも未来にも同じ人間はひとりも存在せず、自分という人間を明確に表現しようとすればするほどに、それは唯一無二の独創的な作品(名前の与えられない存在)にならざるを得ない。

私はこれからしばらくは自分のスケジュールや連絡先を公開して、タイミングさえあえば様々な人と話をしてみたいと思っています。11月は新潟と九州で開催されるイベント(?)に出演して、12月以降は東京に行くこと以外は何も予定が決まっていません。暇な時間帯はいつでも会えます。交通費を負担していただければ日本全国何処でも行きます。電話番号やLINEのIDも公開しているので、何かの依頼や他にも不明点などあれば誰でも気軽にご連絡ください。内容は問いません。




【11月29日(土)@鹿児島県鹿児島市プラスナイトシネマ】+Night Cinema プラスナイトシネマ | Facebook

この前の日曜日、東京で20代の女性から連絡をいただき一緒に渋谷で珈琲を飲んだ。翌日、その女性からメールが届いた。「実は昨日の私は家出の真っ最中で、二度と家には帰るものかと思っていました。納得できない事、言葉にならないことが多すぎて、だけど周りの人は説明を要求してきます。どんどん自分の中でも苦しくなっていって、自分の中でどうしようもなくなっていました。坂爪さんと連絡をとったのも衝動で何かを変えたい一心でした。何が自分をそうさせているかは未だにわからないのですが、坂爪さんとお会いでき、一緒に過ごした女性の方ともご縁をいただき、素敵な時間を過ごすことが出来ました。私の世界が優しい方向に変わりそうです」という内容で、私は何だか嬉しくなってしまった。多分、人間は信用している相手に説明を要求しない。説明を要求された時点で、自分は信頼されていないのではないのかという悲しみの壁を感じてしまう。しかし、自分に忠実に生きようとすれば、どうしても他人とは違う生き方になる。それが「その人の人生を生きる」ということであり、名前の与えられていないこの世にひとつだけの人生がはじまる。自分の無力さや周囲の無理解に苦しむ時期があろうとも、その先にしか最高の笑顔はない。自分に忠実に生きている人は誰よりも素敵だと思う。人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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