いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【常識拡張論】(家のない生活を通じて)私が辞めた10のこと。ー 「こうあるべき」というあらゆるものは嘘である。

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私は今年の2月から家のない生活をしている。イベントや講演などで呼ばれた先々に宿泊し、最悪の場合は漫画喫茶に泊まればいいやと思いながら(だがしかし漫画喫茶には泊まりたくないので)時には初対面の方々のハウスにハウス(犬的な意味で)しながら生活を続けている。このような生活を続けていると今まで日常的に続けていた習慣の幾つかが見事に崩壊する。私が崩壊した10の自由をまとめます。

1・「一日三食」をやめる。

これは大きい。今までは「時間だから」とか「別に食べられなくはないから」みたいな理由で食事をとっていた。これをやめた。極限まで腹が減っていよいよエネルギーが尽きてきたぞ、そろそろ何かを腹に入れないともう歩けないぞというレベルまで腹が減ったら食事をとるようにした。すると大変化が起こった。食べる料理が(そのクオリティに関わらず)半端なく美味く感じられるようになった。ご飯が食べられることの有り難みを痛感できるようになり、一食一食にいちいち感動を覚えるようになった。

今までは「そういうものだから」という感じで当たり前に一日三食食べていた。それを「食べたい時に食べる」という生活習慣に変えてから、私の場合は一日二食でも何ら問題がないばかりか感動を覚えることが出来るようになっていった。そして体調も頗るよろしい。今までは月に一回風邪をひいていた貧弱な私も、家を失ってから今まで一度も風邪をひいていない。生活習慣が抜本的に変わった。

2・「定住」をやめる。

私の場合、ずっと同じことをしていたり、ずっと同じ場所にいると自分が腐るような感覚を覚えることが多い。しかし、作業が煮詰まった時など、場所を変えることで移動中にアイデアが湧き出してきて、移動先で改めて作業に取り組むと思いのほかはかどることが多いことに気がついた。定住は固定であり、固定は人間の自由を奪う。移動距離とアイデアは比例する。私は移住よりも(複数の場所に自分の生活拠点を増やしていくような)移動する生活が私には適しているのだと思うようになった。

移動をしていると、行く先々で感動的な自然や人々との出会いに恵まれることがある。現地の人々の家に泊めてもらうこともあるし、「困ったらまた我が家に来い」と言ってもらえることが多い。人との出会いが増えるとうれしい。私は「家がなくなる経験を通じて、全国に家が増える」という謎の体験を積み重ねている最中で、これからは縦移動よりも横移動なのではないかと思うようになった。ひとつの限定的な組織の中で「縦移動(出世すること)」を目指すのではなく、複数の仕事を横断的にこなしながら、都市と自然を超高速で往復する(平日は都心でビジネスをして、土日は自然の中で療養と農作を行う)みたいな横移動型のライフスタイルはこれから王道になる。自由な人間は都市を離れ、不自由な人間は都市に縛られる。自由になった人間から世界を舞台に横断的な仕事をこなしていくようになる。

3・「定職」をやめる。

「坂爪さんは何をしている人なのですか?」と行く先々で尋ねられる。おそらく、この質問自体がこれからは前時代的になる。限定的なひとつの職業だけをこなしていれば良い時代は終了して、これからは「いくつもの仕事を同時多発的に行う人」や「職業自体が謎の人(まだ名前の与えられていない仕事を行う人)」が続出する。現在の私は「家も金もない」生活をしているが、時に講演をしたり執筆をしたりすることで死なずに生きていることが出来ている。自分自身がやっていることを他人に説明できないことに悩んだりした時期もあったが、これをやめた。私は「定職」という概念を捨てることにした。

4・「所有」をやめる。

家のない生活をしていると、必要最低限の荷物だけを持って移動する羽目になる。その際、私は自分が所有するバックパックに入らない一切の家財道具や服や雑貨を処分した。するとどうなったか。私は「私が圧倒的に身軽になっている」のを感じた。思い入れのあるものを処分するのは偲びないと感じていたが、これらを処分して見て何よりも強く感じたのは「人生に対する身軽さ」だった。生きるために必要な荷物は限りなく少なかった。ある程度の量の着替えとパソコンと幾つかの洗顔用具があれば人間は清潔に生きていくことが出来る。あとは「余っている人とシェアをすれば良い」のだと知った。

所有は人間の自由を奪う。私はもうこれ以上所有物を増やしたいとは思わない。所有をやめると消費が止まる。消費が止まると「生活に必要な労働や金銭」も必要最低限のもので済む。車や家は維持費や管理費だけでも手間がかかる。家賃やローンを払うために嫌な仕事を嫌々続けなければいけなくもなる。しかし、生活に必要なものは既に全部揃っていて、これ以上新しい何かを購買する必要はそれほどない。今あるものに手直しを加えるか、余っている人とシェアをすれば事足りることが無限にある。

5・「消費」をやめる。

物質デブは行動が鈍る。荷物を減らすために色々調べたら、別にシャンプーやリンスを使う必要はないのだと知った。石鹸と手拭いがあれば常に清潔な状態を保てる。バスタオルはかさばる。手拭いの速乾性は異常で、私は手拭い数枚だけあれば余裕でどうにかなるのだと知った。今まで当たり前に使っていたものを「これは本当に買う必要はあるのか?」と思いとどまってみると、別に不要なものはたくさんあった。「BUY or CREATE」の流れは今後も加速するだろう。買うよりも自分でつくる。他のもので代用する。時には「その習慣自体を生活から取り除く」ことも生活の幅を広げてくれることを知った。

6・「情報収集」をやめる。

情報デブは行動が鈍る。情報は集めれば集めるほど身動きがとれなくなる。インターネットを閲覧する時間も極限まで削った結果、自分自身と徹底的に向き合う時間が発生した。WEBは「自分が知りたいことを知る時」や「自分が何かを発信したい時」には圧倒的に便利だ。それ以外はノイズになる。私はFacebookをやっているが「この人の発信する情報はまじで退屈だな」と思った人の投稿はこっそり非表示にしている。有益な情報は黙っていても勝手に入ってくるし、必要なのは「無駄な情報を浴びる状態から抜け出す」ことだと私は思う。結局、人間は(他人の人生や他人の情報よりも)自分自身の体験を通じて物事を知る。キーワードは『情報よりも圧倒的体験』であり、情報収集をしている暇があるならばとっとと自分の人生を生きた方が圧倒的にGOODだ

7・「夢や目標を持つ」のをやめる

私は合同会社いばやの共同代表をしていて、いばやとは「やばい」を逆にしただけの名前で、事業内容は何も明確ではないものの「とにかくやばいことだけをやる」ことをコンセプトに掲げている。いばやには根底に流れている幾つかの思想があり、そのひとつは「とにかくやばいことだけをやっていれば、それを面白がってくれるやばい人が現れて、化学反応が起きて、結果とんでもないわっしょい状態になる」というものがある。そして「もしもいばやが未来に必要なことをやっていれば、周囲の人たちが『こいつらを餓死させたらあかん』と思って助けてくれるだろう。しかし、未来にいばやが必要でなければ私たちは死ぬだろう」ということも思っている。

私達は「とにかく面白い目に遭遇したい」「誰よりも自分自身を驚かせたい」と思いながら生きているので、別に明確な夢や目標はない。逆に言えば「明確である時点で(予測不可能性が削られてしまうから)退屈だ」などと思っている側面もあり、夢や目標を持つことをまったく重要視していない。何かこう、世間では「夢や目標があるやつは偉い」みたいに思われている部分が多大にあると思うが、私からみればそんなものは不要だと思っている。予測不可能性こそが人生の醍醐味であり、一年前には想像もすることができない現在を私は生きていて、来年の今頃も(今はまだまったく想像することも出来ないような)未来を生きているのだと思う。何が起こるかわからないのが人生の醍醐味であり、夢や目標などは「持ちたい人は持てばいい程度のもの」だと思っている。夢や目標がなくても人生は素晴らしい。

8・「こうあるべき」をやめる。

これは私の持論だが、人生のすべては無意味で無価値だと思っている。「こうあるべき」というあらゆるものが嫌いで、単純に「やりたいことをやりたいようにやればいい」だけのことだと思っている。悩むのが好きなら思う存分悩めばいいし、悩むのが嫌いならとにかくやりたいことをやってしまえばいいだけの話で、別に「こうあるべき」理由なんてものはひとつもないと思っている。


9・「相対的評価」をやめる。

誰かと比べて自分はこうだとか、みんながこうだから自分もそうするみたいな、周囲と比較したり周囲に合わせて生きる「相対的評価を軸にした人生」をやめる。相対的評価よりも絶対的評価が超絶重要であり、過去の自分よりも今の自分がハッピーならばそれでOK、だがしかし過去の自分よりも今の自分が劣化しているようであれば致命傷であり、勝負すべきなのは(他人ではなく)自分自身だと思う。「どのような生き方だとしても構わないから、自分で自分の生き方に胸を張れる生き方をしよう」というのが私のモットーであり、それを追求していれば勝手に人生は充実していくことを知った。

10・「生活のために生きる」のをやめる。

生活のためだけに生きるのは虚しい。世の中には不安が溢れている。もしもの時のために貯金をしたり、就職に有利だからと資格を獲得したり、安定した生活を送るために嫌な仕事を嫌々続けたり、そうした「不安」を原動力に新しいアクションを起こしたり今の生活を維持しても基本的にロクなことはない。「こうなりたくない」という不安を原動力に生きるより、「こうなりたい」という希望を原動力に生きた方が圧倒的に充足度は高い。大丈夫、基本的に人生はどうにかなる。やりたいことをやろう。

そのようなことを自分自身に言い聞かせている。今でも見知らぬ人からディスられることは大量にあるが、私を批判する人には「そんなんじゃ生きていけないよ」と言う人が多い。だがしかし、ちょっと待てと、私を見ろと、そんなんじゃ生きていけないよとか言うけれど、実際、今もこうして私は平気で生きているではないか、と。「今はいいけどこれからはわからないよ」と言われたりもするが、そんなものは誰だって同じじゃないか、と。好きなことをやっていても、嫌いなことをやっていても、何が起こるかわからないのが人生だ。ある日突然業績が傾いて会社をクビになることもあるし、趣味が功を奏して仕事が舞い込むこともあるし、道路に飛び出した矢先に交通事故で爆死してしまうこともある。

「自分が好きなことだけをやって生きるのなんて無理だよ」などと頻繁に耳にするが、みんな嫌いなことをやって生きているのだとしたら「嫌いなことをやっていても生きていける」訳だから、好きなことをやって生きるのなんて実は超絶余裕なんじゃないだろうか、と私は常に思っている。人生とは自分を楽しませることであり、人間であることを楽しまないのは生命に対する冒涜であるとさえ思っている。残された時間をみんながハッピーになる方向で思う存分に生きよう。人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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