いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

経験は財産になり、誰にも奪うことは出来ない。ー 「お前は将来大物になる。そのためには見聞を広めろ。金や名誉は一夜にして失うことがあるが、経験は誰にも奪うことが出来ない」

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『芸術の島』として名高い香川県の直島に行ってきた。先日、徳島県美波町で出会った初対面の男性が「お前は将来大物になる。そのためには見聞を広めろ。金や名誉は一夜にして失うことがあるが、経験は誰にも奪うことが出来ない」という言葉と共に、餞別として5000円を私に与えてくれた。

私は過去に何度も所持金0円の完全失業状態になってきたけれど、危機に瀕する度に仕事や食料や住居や八百万の神が登場して私を救ってくれた。地球全体は常にバランスを保つように出来ていて、自分をオープンなものにしている限り絶対に死なないのだという妙な自信を獲得した


この男性(Aさん)が本当に素晴らしい方で、コンピューターのシステム開発の会社を自分で興して経営している傍らで、自分の家を自分の力で(完全な素人であるにも関わらず)10ヶ月で建設した過去もある。「パソコンの前にずっと座っていると人間が腐る」と思ったAさんは、身体を動かしたい衝動に駆られて「家のつくりかた」にまつわる本を4冊購買した。その結果「いける気がする」と思ったAさんは、見事10ヶ月で自分のログハウスを建設した。「やればできるってことがわかったんだ」と非常ににこやかな笑顔で話してくれて、世の中には平気な顔で半端ないことを成し遂げる人がいるのだと思った。

Aさんは最終学歴も高卒で決して専門的な教育を受けてきた訳ではないのだと話してくれた。ただ、ある日、ふとしたきっかけでコンピューターのシステム開発の虜になり、独学を重ね(金がないので一日中本屋で立ち読みしながら)自分の知識を増やしていった。そして、やがては海外のIT企業主催の何やらすごいらしいイベントにも招待されるようになり、人間はやればできるのだということを自分の人生を通じて実感するようになった、という。この経験が自信になり、今では何でも「とりあえずやってみよう」の精神で自分の家を建てたり水車(!)を建設したりラジコンヘリで空撮を試みたりしている。

素晴らしい出会いは人生を肯定する。そんな素晴らしいAさんがくれた餞別の5000円を無碍にすることは出来ない。そこで、私はこのお金を直島に注ぎ込むことにした。結論から言うと直島は良かった。良かったのだけれど同時に様々なことを思った。備忘録としてとりわけ強く感じた三点を書き残します。

1・「芸術を有り難がって鑑賞する」というスタイルは前時代的だと思った。芸術の島である直島には至る所に芸術作品があるのだけれど、そこには「作品に乗ったり触らないでください」という注意書きが添えられている。私は「作品に乗ったり触ったりしまくってください」と書いてある方が800倍以上面白くなると思ったのだが、現実は異なる。芸術と遊具を融合させてしまえばいいのに、何かこう「美術品は有り難がって鑑賞するもの」という旧態依然の退屈さを感じた。「最悪の場合は弁償していただきます」という立て札もあり、なんだかなと思った。芸術はもっと器の広いものだと私は思っている。

直島には草間彌生作品の赤いカボチャと黄色いカボチャが島の中にどかんとある。これが良かった。触らないでくださいとかいうお札書きは残念だったが、美術館に入らなくても気軽に鑑賞できること、自然の中にアート作品が溶け込んでいるという状態が素敵だった。このあと、私は安藤忠雄建築の「地中美術館」にも足を運んだのだが、圧倒的にカボチャの方が良かった。入場料が2000円したこともこの思いを強めた要素のひとつだが、「美術作品は美術館を飛び出せ!」という個人的な思いを強めた。

2・私の故郷である新潟県には佐渡島という日本で一番大きい離島がある。新潟本土から佐渡島に行くには片道2000円以上かかるのだけれど、岡山から直島に行くフェリー代は270円と段違いの安さだった。佐渡島と直島には共通点がある。それは「芸術が溢れている」ことと「海外観光客の多さ」だ。

直島はPRに成功していて、佐渡島はPRに成功していない。そのため、佐渡島に訪れる外国人はディープな人間が多い。ディープな人間は「実際に観光するだけでは飽き足らない」人間が多いため、実際に佐渡島に移住して自分で尺八を作って自らが演者になるブラジル人もいる。直島にいる外国人から感じた印象は「THE・観光客」だった。これは決してどちらが優れているとか、そういう類の話ではない。

直島は「現代芸術の島」だと思った。誤解を恐れずに言えば、今までは別に芸術に何も縁も所縁もなかったけれど、島のPRとして「アート」を打ち出すことで(そして立派な美術館を建設することで)多くの観光客を誘致することに成功した。それに比べて、新潟の佐渡島は(昔から流刑地であったこともあり)島流しの刑にあったアウトサイダー系の人間が佐渡島で築き上げた伝統的な芸術や造形作品が古来からずっと残り続けている。奥地には地蔵が無数に転がっていて、何かこうやばい雰囲気がある。

一番印象的な違いは、現地の人たちが「変化に対して寛容か」「変化することを楽しんでいるか」だと思う。PRに成功した直島の人達は変化に対しての度量が広く、開発初期の段階では諸々地域住民の抵抗などもあったと思うが、今では新しいことに対して寛容的で観光客にも非常に優しい人が多い。それに比べて、古来からの伝統的な芸術や文化に恵まれていて、自然も豊かで神秘的な雰囲気に包まれている佐渡島の住民から感じた印象は「変化に対して極めて消極的」だった。乱暴にまとめれば、佐渡島の魅力を佐渡島の住民が殺していると私は思った。そして、直島の魅力は直島の人によって生かされていると感じた。この違いは大きいと思う。

私の個人的な感想としては、直島よりも佐渡島の方が圧倒的に「芸術の島」だと思った。これは「直島がダメだ」という話ではない。逆だ。直島は素晴らしさに溢れていた。私が言いたいのは「変化に対して寛容かどうかがその場所の未来を決める」ということであり、芸術に決して恵まれていた訳ではなかった直島には未来を感じて、芸術に溢れまくっている佐渡島には未来を感じることがなかった。だからこそ、天邪鬼な私は「これから佐渡島が面白くなるぞ」という静かな興奮を覚えた。佐渡島にはやばさが溢れている。そして、今はまだ誰もその魅力に気がついていない。これは圧倒的なチャンスである。

【動画が超絶秀逸な参考サイト】佐渡観光協会

3・閉店間際に駆け込んだうどん屋さんの店主に「新潟から来ました」と言ったら、「俺は田中角栄が大好きなんだよ」と言ってうどんを無料でご馳走してくれた。私は猛烈に感激してしまった。「悪いですよ!お金払いますよ!」と言っても、店主の奥様が「いいのいいの、あの人があんなことを言うのは珍しいことだし、なんだか嬉しそうだから甘えちゃいなさいよ」と優しく笑顔で諭してくれた。私は好意に甘えてしまった。お店にいた他のお客さんも「遠かっただろうによく来たねえ」と気さくに話しかけてくれる。「これで直島のことが好きになっただろ」と笑いながら私の肩を叩いてくれた。

私は一本下駄で歩いているためか、多くの人達に話しかけられる。会話を通じて交流が生まれる。稀に初対面の人が、こうして様々な形で私に優しさを示してくれる。これが生きることの醍醐味であり、人の優しさに触れると感動する。おじさんからも「一本下駄なんて履いていると足腰が鍛えられるだろ。セックスとかもすごくなるだろ」などと道端で突然言われたりする。「俺も昔はすごかったんだぞ」という謎の自慢を聞かされたり「若いっていいねえ」と頻繁に言ってもらえたりする。

結局、人と人との交流が一番心を動かすのだと思う。美術館や観光名所などは一度行ってしまえばもう行かなくてもいいという気持ちになるが、人と人とのつながりが生まれれば「また会いたい」という気持ちが芽生える。この気持ちが人を動かして、普段は行かない場所へと連れていってくれるのだと思う。また会いたい人にどれだけ出会えるかが、人生の豊かさを決めるような気がしている。

これから岡山県の廃校になった小学校で開催されるトークセッションに出演してくる。経験は財産になり、誰にも奪うことは出来ない。今の私は29歳で、傍から見れば何も持たない未熟な若者のひとりに過ぎない。これからどれだけのものを得て行くことが出来るだろうか。失うものなど何もなければ、恐れることも何もない。誰にも奪うことが出来ないものを増やしていこう。人生は続く。

坂爪圭吾 07055527106 or 08037252314
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