いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

『過去』や『未来』を言い訳にして『現在』を犠牲にしてはいけないということ。ー 自分自身との関係も人間関係であり、自分の生き方を否定しても誰も幸せにならない。

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大分県中津市で開催されたトークセッションのゲスト(?)として呼んでいただいた。主催者の方とはFacebookを通じて知り合い、私の『家を持たずに生きる暮らし』を面白がってくれる方々が大勢集まってくれた。その場で参加者の方々と話したことや私が感じたことを箇条書きにして書き連ねます。

1・親が子供に望むことも、子供が親に望むことも実は一致している。それは『完璧な人間であること』なんかではなく、『完璧でなくても構わないから、明るく元気に生きていて欲しい』ということであり、(少しくらいはみ出しても構わないから)明るく前向きに人生を楽しんで欲しいということ。

2・いつしか私達は『完璧な人間』であることを自分や他人に求めるようになってしまった。しかし、完璧な人間はひとりもいない。誰もが欠損を抱えていて、同じように誰もが得意とする何かや熱中できる何かを持っている。誰もがあらゆる要素において平均点以上を叩き出す必要はなく、それぞれの役割を担いながらお互いに支えあえばそれで良いのではないのかということ。

3・私は家のない生活をしている。そうなると、必然として持ち歩く荷物も必要最低限度のものになる。このような暮らしをはじめてから、過去の私は『まるでゴミ屋敷に住んでいたのではないか』と思うようになった。テレビでよく見るようなゴミ屋敷の住人は、ゴミを捨てられない理由を尋ねられると決まってこう言う。ー 「これはゴミじゃない。いつか使う日がくるかもしれない大切なものだ」

私の過去の生活は『いつか使うかもしれないもの』に溢れていた。いつか使うかもしれない大量の服や、いつか読むかもしれない大量の書籍や、いつか使うかもしれない大量の雑貨や文房具などに溢れていた。このような生活はとてもじゃないけれど『今』を生きているとは思えなかった。そして私はあらゆる所有物を処分した。今まさに必要とするもの以外はすべて捨てるか誰かに譲るかした。必要最低限どのものを処分した後に感じた感情は『さみしさ』なんかではなく『清々しさ』だった。

自分が所有している荷物を減らせば減らすほどに、自分が身軽になっていくのを感じていた。自分が自由になっていくのを感じていた。必要最低限の荷物はバックパックひとつにおさまることを知った。『これさえあれば自分は何処でも生きていけるのだ』という静かな自信を獲得した。

4・人間は優しい。私は家のない生活を続けている。拠点としている新潟県ではテント生活を続けていて、イベント出演などで呼ばれた先では多くの方々の自宅にお世話になっている。このような生活を続けていると、多くの方々が『困ったら我が家に来いよ』と言ってくれる。家のない生活をはじめるまでの私は、家がなければ生きていけないと思っていた。しかし、実際に家のない生活をはじめてみると多くの人が私のことを助けてくれる。ご飯をご馳走してくれたり、差し入れをもってきてくれたり、私をはるばる大分県までわざわざ招待してくださる人が現れてくれる。『次に大分県に来る時は私の家に泊まりなよ』と、昨夜も複数名の方に声をかけていただいた。私はひとつの家(自分の家)を失うことで、結果としていくつもの家(私を泊めてくれる場所)をいくつもの場所に持てるようになった。

5・今の私にホームはない。ホームがなくなると、同時にアウェイという概念もなくなる。私が今いる場所が私のホームとなり、私がやがて行くであろう場所も私のホームになる。この感覚を上手く言語化することは難しいが、『ホームがなくなるとアウェイもなくなる』というのは新鮮な発見だった。『地球全体が自分自身のホームグラウンドになる』とも言える。あらゆる場所が自分自身のホームになる。

6・『過去』や『未来』を言い訳にして『現在』を犠牲にしてはいけないということ。いつか使うかもしれない服や本や雑貨に囲まれた生活よりも、今まさに必要なものだけに囲まれて暮らすということ。将来の不安を消すように資格試験に励んだり嫌な仕事を嫌々続けるのではなく、今、自分のハートが「これだ」と思ったことを(どんなに小さな一歩でも)愚直に実行していくこと。万が一の事態に備えた生活を続けているうちに、人生そのものが終了してしまっては本末転倒だということ。私達が生きることが出来るのは過去でも未来でもなく『今、まさにこの瞬間だけ』だということ。

7・「こうあるべき」という正解の枠に自分を無理矢理押し込んで生きるのではなく、「こういう生き方もありだ」という正解を増やすような生き方をするということ。今の社会は自殺者が3万人いて鬱病患者も100万人を越えている。楽しそうに生きている人よりも楽しくなさそうに(自分を押し殺しながら我慢して我慢して)生きている人の方が多い気がする。必要なのは社会に適応する生き方をすることではなく、新しい社会のあり方を実現するために(暗闇の中に手を伸ばすように頼りないものだとしても)自分の人生を通じてひとつずつ実践&実験していくことだと思う。重要なのは「生きづらい社会に自分を適応させて生きること」よりも「自分が行きたいと思う未来の根拠に自分自身がなる」ことだと思う。

8・才能があるとか、能力があるとか、そんなものはどうでもいいのだ。自信があるからやるのではなく、自信がなくてもやる、やりたいからやる、それでいいじゃないか。

9・「どうすれば幸せになれるのか」を知っている人はたくさんいる。しかし、実際に実践する人は圧倒的に少ない。自分の心は既に答えを知っていて、(周囲のノイズに惑わされることなく)ただそれだけに集中していれば良いのだということ。自分の人生を生きることが出来るのは自分だけだということ。

10・憎しみに憎しみで対抗しないこと。(私のような生き方をしていると)周囲からも批判を受けることが頻繁にある。しかし、憎しみに憎しみで対抗しても、新しい憎しみが増えるだけだ。『圧倒的な愛』を持って挑むこと。それは『周囲の人間』に対してだけでなく『自分自身』に対しても同じことが言える。自分自身との関係も人間関係であり、自分の生き方を批判しても誰も幸せにならない。

そのようなことを思った。そして私は大分県を後にした。多くの人たちとこうしてリアルに対面して実際に会話が出来ることが、今はとても嬉しい。私は別にあらゆる人が『正解を増やす生き方をするべきだ』などとは微塵も思っていない。あらゆる人が誰かと同じような生き方をする必要はなく、ただ、他の誰かの生き方を『自分とはまるで関係のないものだ』という風には割り切らないでもらえたら嬉しい。世の中にはいろいろな人間がいるのだということだけでも知ってもらえたら嬉しいと思っている。

本来であればすべての人の生き方は繋がっていて、誰もが誰かの生き方から何かを学ぶことが出来る。『この人は自分の代わりにこの人の人生を生きてくれているのだ』と思えば、あらゆる人の生き方や考え方から何かを学び取ることが出来る。『完璧である必要は微塵もないから、明るく元気に生きていて欲しい』ということ。『過去』や『未来』を言い訳にして『現在』を犠牲にしてはいけないということ。『自分自身との関係も人間関係であり、自分の生き方を批判しても誰も幸せにならない』ということ。そのようなことを思った。9月が終わる。人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume/ibaya 
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