いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

言いたいことを言う、やりたいことをやる、それだけで人間は清々しく生きることができる。

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今日は高円寺のこけむさズという名前のコワーキングスペースで、超人気ブロガーのイケダハヤトさんと対談した。結論から言えば非常に楽しかった。『地方』をテーマに高知県を拠点とするイケダさんの視点と、新潟県を拠点とする私の視点を織り交ぜながら様々な話をした。今、私は高円寺北口駅前ロータリーのバス停付近からこのブログを更新している。WiFiスポットを発見してしまったからだ。

屋外でブログを更新していると気持ちが良い。これがノマド本来の姿であり、ノマドの和訳は『気持ちいい』だと思っている。気持ち良くなければノマドではない。本日開催されたイベントの中でとりわけ印象深いやりとりがあったので、備忘録としてここに残します。

私はかつてgood morning babiesという名のイベント企画団体を主宰していた。ことの発端は料理だった。私は料理を愛している。料理をしていると無心になれる。完成した時の嬉しさもある。物を作ることの中には原始的な喜びがあり、これはひとりでやるよりもみんなでやった方が圧倒的に面白くなるのではないだろうかと私は思い、イベントを自ら企画しては定期的に開催するようになっていった。

日本語の中には、心から楽しんでいる状態を表す言葉に『童心に戻る』というものがある。料理をしている時の私は圧倒的に童心に帰っていた。単純に楽しいのだ。そして、私は『料理には人の童心を起爆するエネルギーがあるのではないか』と勘違いをして、『関わるすべての人間の童心を起爆させたい』と思って(料理に限らず童心を起爆できるあらゆる)イベントを企画しては開催しまくっていた。

だがしかし、活動を続けながら違和感を覚えるようになっていた。いつしか私は「お越しいただいたお客様の童心を起爆させたい」などと望むようになってしまっていた。これがいけなかった。これが違和感の正体だった。違う。私は目が覚めた。自分が望んでいたのはこんなものじゃない。私が本当に童心を起爆させたいと思っていた対象は他の誰でもない、自分自身だったのだということに気がついた。

そして私は『お客様満足なんてクソだ!』と暴言を吐くようになった。お客さんが楽しんでくれれば成功で、お客さんが楽しんでくれなければ失敗ということになるのであれば、それは(自分軸ではない)他人軸の中で生きることにつながる。そういう生き方は脆い。少なくとも私には出来ない。来てくれた人が楽しんでくれるのはもちろん嬉しいことだ。しかし、その嬉しさの正体は『ただ安心しているだけ』だったりすることを知った。違う。私が求めているのは私自身の嬉しさであり、私自身の感動であり、私自身の興奮であるということを知った。そして私は『とりあえずお客さんがどう思うとかどうでもいいから、自分自身が100楽しめることをやろう』と思うようになった。自分が100楽しんでいれば相手にも80位は伝わるだろうと思うことにした。このスタイルで生きる限り、例え相手にも伝わらなかったとしても『自分自身はやりきった』と思える清々しさは必ず残る。そこに賭けようと思った。

そして生まれたのがibaya《いばや》だった。

good morning babiesを続けている限り、私は生活に困ることはなかった。違和感を抱えながらも、この活動を続けている限り明日も生きていくことが出来た。しかし、私にはどうしても違和感を抑え続けることが出来なかった。自分の生き方に胸を張れなかった。そして私は確信した。生活のためだけに生きるのは虚しい。たとえ今の活動を続けることが日々の安定や安心につながるとしても、安定や安心の裏には常に『不安』がある。不安をベースに行動を起こしてもロクなことがない。不安をなくしても希望が生まれる訳ではない。私が生きたいと願う人生は『不安のない日々』なんかではなく、たとえ不安があったとしても『生きていることを実感できる日々』であり、それは心が震える感動の瞬間をどれだけ味わっていけるかの中にこそあるのだと悟った。不安を消しても感動や興奮が生まれる訳ではない。

ー そういう話をした。

対談の時間が終わり、質疑応答の時間に突入した。参加者のひとりが『私は茨城県の田舎の方で今年の四月から働いています。しかし、なかなか地域に溶け込むことができない。どうすれば効果的に溶け込むことができるだろうか?』という質問を投げかけてくれた。私は答えた。地域に溶け込もうと何かをするのは、私がgood morning babiesで犯した過ちと似ていると思う。誰かに好かれるために何かをするのではなく、例え誰かに嫌われたとしても、自分が心から『これをやりたい!』と思えることをやった方がいいのではないか、そっちの方がずっと清々しい気持ちを味わえるのではないかと答えた。

私の信条のひとつに『現状を打破する道は唯ひとつ、自分が恐れていることをやることだ』というものがある。誰かに好かれるために何かをやるのではなく、これをやったらちょっと怖いなとか、もしかしたら誰かに嫌われてしまうのではないのかと思わず躊躇してしまうようなことこそ、本当の意味でやる価値があるものだと思っている。そして、誰もがそうした『恐れの先にある興奮』を隠し持っている。それを解き放つだけで深い清々しさを味わうことが出来る。成功するとか失敗するとかはまるで重要ではなく、少なくとも『俺はやった』と思える清々しさの中にこそ、充足感は隠されていると思う。

『自分を出す』ことよりも『周囲に合わせる』ことが今までは大事にされてきた。そんな時代も終わる。今の社会は自殺者が年間3万人いて、鬱病患者が100万人以上いると言われている。こんな世の中に適応してしまったら死んでしまう。今、必要とされているのは『社会に適応する力』ではなく『新しい社会のあり方を切り開いて行ける力』なのだと私は思っている。学校教育でも『自分を出すこと』よりも『周囲に合わせる(大人たちに褒められるような解答を出す)』ことの方が圧倒的に重要視されてきた。故に、私たちは自分を出すということに恐ろしいほどに慣れないままに大人になってしまった。

『周囲に合わせる』のではなく『自分を出す』ということ。たとえ嫌われたとしても『それが自分自身なんだから仕方がない』と笑って胸を張れること。この力こそが何よりも必要とされているのではないのかと思っている。言いたいことを言う、やりたいことをやる、それだけで人間は清々しく生きることができる。自分で自分にOKを出せるやつは強い。そういう人間が増えればいいと思っている。今日は本当に楽しい時間を過ごせた。高円寺にも秋の気配が訪れている。人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume/ibaya 
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