いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

才能があるとか、能力があるとか、そんなものはどうでもいいのだ。自信があるからやるのではなく、自信がなくてもやる、やりたいからやる、それでいいじゃないか。

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新潟の断崖でキャンプをした。満点の星空を眺めていると「これ以上に幸せな瞬間はあるだろうか」という気持ちになる。山形から来てくれた女性のゲストが「こんなに綺麗な星空は見たことがない」と言ってくれた。それがとても嬉しかった。一緒に同行した新潟のメンバーも同じように感動していた。

最近では、自然の中を大移動して登山をしたり海水浴を重ねたり、何もせずに青空の下で寝転び続けるような生活を送っている。心が震える瞬間がいくつもあった。着衣したまま海の中に飛び込んだり、裸足で登山を敢行したり、夜光虫が煌めく夜の海を泳いだり、透明度が死ぬほど高い海岸を発見しては岩場に潜り込んで探検を続けた。身体はボロボロになった。今でも脳味噌はまるで使い物になっていない。ただ、自分の身体と自分の心が思い切りよろこんでいることだけは感じている。

『これがあれば他に何もいらない』という瞬間は人生の充足度をダイレクトに高めてくれる。そうしたよろこびを得るためには「他人の承認」も「世間的な名誉」も必要としない。ただ、自分のハートが「こっちはやばそうだ」と思う方へと自分自身を突き落としていけば、勝手に何かを発見する。

ついこの前、日本国という名前の山を裸足で登った。究極のトレーニングシューズは裸足だと聞く。私たちはこれを『ベアフット登山』と名付けて、自分の限界を知るためにも「どれだけいけるのだろうか」という好奇心だけで裸足で山を登ってみた。結論から言えば最高だった。どれくらい最高だったのかを言葉で説明することはできない。世の中には、実際にやったことがある人にはわかるけれど、実際にやったことがない人には永遠にわからないという事柄が無限にある。登山を終えて、湧水を飲み、何もない道路の上で仰向けに寝転んでいた瞬間に「これがあれば他に何もいらない」という多幸感を得た。自分の心がよろこびで満たされているのを感じていて、本当に心から幸せな時間を過ごした。

こういう瞬間を重ねていると、生活のために好きでもないことを無理やり続けることの非人間性について、いよいよ意味がわからなくなる。今ではありがたいことにいくつかの講演会にも呼ばれるようになり、そこで何を話せばいいのだろうかと頭を悩ませている。私の頭は現状まるで使い物になっていない。『どうすれば幸せな日々を過ごせますか?』と尋ねられたとしても、そんなものは人それぞれだと思う。ただ、こうした生活を続けていると自分自身については深く知ることが出来る。

私は、生活のためだけに生きることは虚しいと思っている。そして、現代人が抱える虚しさもこれに起因しているのだと思う。乱暴にまとめるならば、多くの人は『金が欲しい』のだと思う。生活を続けるための金が欲しくて、『どうすれば安定した人生を送れますか?』『どうすれば自分の好きなことで食べていくことができますか?』という問いを発するのだと思う。そして、私はこのような問いに違和感を覚える。人間は生きるためにパンを食べるのであって、パンを食べるために生きるのではない。

「どうすれば食っていけるか?」を考えることはまるで本質的ではなく、「どうすれば張り裂けるほどのよろこびを味わえるか?」だけを考えていればいいと思う。私が抱える根本的な欲求は、決して安定した人生を送ることでもなければ金に困らない生活を送ることでもない。心が震えるほどのよろこびの体験を、どれだけ積み重ねていくことができるかだと思っている。繰り返す。生活のためだけに生きることは虚しい。しかし、いつしか私たちは「生活を続けるにはどうすればいいか?」という問いばかりを発するようになってしまって、「どうすれば張り裂けるほどのよろこびを味わえるか?」ということを考えて実際に試すことを放棄している。そのように感じることが、最近ではとても多くなっている。

やりたいことがある、しかしそれで食っていけるかわからない、何の役に立つかもわからないし、ただただ損をして終わるかもしれない、こうした行為に何の意味や何の価値があるのかもわからないし、どうせやるならば金になることを、どうせやるならば直接的に自分のメリットになることを、要するに『自分の損得感情に適したもの』だけをやろうとするのは、とても卑しい考え方だと思う。

「得だからやる」「損だからやらない」という合理主義だけで生きていると、思考が硬直化して、人間味を喪失するのは時間の問題になる。裸足で山を登ることには何の意味も何の価値もない。ただただあるのは、『これがあれば他には何もいらない』という多幸感だけだ。満点の星空を眺めても、夜光虫が煌めく海を泳いでも、決して誰かが金をくれる訳でもない。誰かが自分を認めてくれる訳でもなければ、安定した生活を送れるようになる訳でもない。ただただ、『これより幸せな瞬間が他にあるだろうか』という充足感が残るだけだ。

私はそうやって生きていきたいと思う。

無駄で無価値で何の意味のないことでも、自分の心が『これがあれば他に何もいらない』『これより幸せな瞬間が他にあるだろうか』と思える瞬間の中を私は生きていたいと思う。「どうすれば食っていけるか?」ではなく「どうすれば張り裂けるほどのよろこびを味わえるか?」だけを考えていたいと思う。それで食えなくなってしまうのならば、そこまでの人生だったのだろうと思う。現に私はこうして元気に生きているし、日本で食えなくなることはそうそうない。私はまだ食えなくなって実際に餓死してしまった人を見たことがないし、人生はどうにかなるように出来ているのだと思っている。

危険な目にあうことも皆無ではないけれど、別に死ぬわけじゃない。別に死ぬわけじゃないと思えば何だって出来る。究極的には『別に死んでもいい』とも思っている。問題なのは「死に方」であって、いつまでも自分の身を守ることだけを考えて何も出来ずに老後を迎えるような、そんな中身のないからっぽな日々を送りたいとは思っていない。そんな日々は地獄だ。私には耐えることができない。

私の信念はこれだ。現場を打破する道は唯一つ、自分が恐れていることをやることだ。才能があるとか、能力があるとか、そんなものはどうでもいいのだ。自信があるからやるのではなく、自信がなくてもやる、やりたいからやる、それでいいじゃないか。今の私はそのように思っている。人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume/ibaya 
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