いばや通信

ibaya.ex《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

死なないことより、生きたいと思うこと。

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菊名駅前のコロラドにいる。毎日色々やっていると「たまには休んでくださいね」と優しいお声をかけていただく。だが、思う。こどもたちは、遊ぶことを休みたいとは思わない。遊び疲れて眠りに落ちても、次の日になれば、遊ぶために駆け出していく。この感じを大事にしたい。こどもたちに「遊ぶな」と言うことは、酷だ。それは「死ね」と言っていることと似ている。だから、休んだ方がいいというよりも「遊んだ方がいい」のだと思う。嫌な疲れの原因は、遊びが足りないことだ。

 

 

おおまかなスケジュール

11月1日(金)Agape 千が平塚から大阪まで歩きはじめる「東海道五十嵐次」

11月4日(月・祝日)14時 坂爪圭吾×壇珠「ファンタジーの魔法の使い方」
11月22日(金)19時 Agape 単独ライブ@大阪市心斎橋「
5th-Street

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ibaya.hatenablog.com

 

面白ければ留まり、つまらなければ離れる。

面白ければ留まり、つまらなければ離れる。これは、人間として自然だ。しかし、これが制限されると「おかしいことになる」のだと思う。本当はこんなひととは付き合いたくないけど、仕方がない。本当はこんな仕事をしたくはないのだけれど、仕方がない。とか。自分のうだつの上がらなさを環境のせいにしたくなる気持ちはわかるが、真実は常に残酷だ。環境がつまらない、なんてことはあり得ない。つまらないのは、常に自分だ。自分がつまらないから、なにをしても、どこにいても、つまらないのだ。ならば、もう、自分が面白くなればいい。自分が面白いと思う人生を生きればいい。では、面白いとは、何か。それは『予測不可能性』だと思う。

 

決まり切った毎日を生きるほど、酷なこともない。サルトルは「人間は、自由の刑に処されている」と言ったが、自由であることも、結構酷なことだ。学校や職場は、誰かが自分の時間割を決めてくれる。が、フリーランスになれば「自分が自分の時間割を作る必要」が生まれる。根本的に、それは、面倒臭いことだ。自由とは、面倒臭いものなのだ。面倒臭いと言うことは、自由であると言うことだ。誰かに時間割(答え)を教えて欲しくなることは多い。だが、答えを求めて本を読んだり、答えを求めてひとと会うのは、違うと思う。だって、それは、そのひとにとっての答えにすぎないから。生きると言うことは、共通の答えを生きることではない。オリジナルな答えを生きることだ。それは「答えのない世界を生きること」であり、答えは、自分で決めるしかない。答えは、自分で作り出していくしかない。

 

世の中的な正解は不明だ。ただ、自分の心が感じる「楽しさ」ならば、分かる。楽しいなら、正しい。私はそう思うことにした。食べ物の好き嫌いと同じだ。誰がなんと言おうが、自分はカレーを美味しいと思うなら、カレーは美味しいのだ。世界中のみんなから「カレーなんて人間の食い物じゃない」と罵倒されても、自分がそれをうまいと感じるなら、食べる。意外と心は敏感で、世の中的な基準は曖昧なままでも「今の自分は、ダサいか、ダサくないか」程度なら、すぐにわかる。いまの自分をダサいと思ったら、できるだけ変える。いまの自分を「結構いい感じだな」と思えたら、外野からとやかく言われても、続ける。そういうことなのだと思う。

 

note.mu

 

死なないことより、生きたいと思うこと。

11月22日(金・いい夫婦の日)に、大阪の心斎橋でAgape単独ライブがある。それに向け、メンバーの千さんが「神奈川県平塚市から心斎橋まで徒歩で向かう」ことになった。彼はお金もなく、長年引きこもりのような生活をしていたので、一般的な意味でのコミュニケーション能力は低い(低いと言うか、未開発のままきた)。だが、だからこそ、純度は高い。ひとと関わっていきたい。それが我々の祈りだ。だから、もし、千さんに「おにぎりを食べさせてあげたい」とか「家に泊まらせてあげたい」と思われた方がいたら、直接、千さんにご連絡をしていただけたら最高にうれしいです。言わずもがな、ライブにお越しいただける方も絶賛大歓迎です。

 

 

首里城が燃えた。首里城が燃えたことに対して「さあ、悲しむべきことが起こりました。みんなも一緒に悲しみましょう」的な報道をする人々に、違和感を覚える。悲しむことで『消費』することが、多分、嫌なのだと思う。人も、建築物も、燃えたからなくなるわけではない。物質から解放されて、盛大な音楽になって空間に溶け出しただけだ。それは、学校の友達が引越しをして別の街に行くような感じで、しばらく会えなくなるけれど『いる』ことに変わりはない。ただ、形が変わっただけだ。これは、多分、死生観にも通じる(というか、死生観そのものだと思う)。死者を殺すな。見えなくなったからと言って、殺してしまってはダメだ。死者も、共に生きることはできる。物質から解放されたものは、音楽として流れ続ける。 

 

死なないために生きている訳じゃない。どう稼ぐか。どう集めるか。どう生き延びるか。そんなことばかりが話題になると、端的に「世の中がギスギスする」と思う。死なないことよりも大事なことがある。それは、生きたいと思うことだ。生活のためだけに生きることは虚しい。死なないためだけに生きることは虚しい。生きたいと思う熱情を、私は、重要だと考える。生は、常に『死』を内抱している。結果とは、燃えかすみたいなものだと思う。命を賭ける、という表現がある。最近、この言葉に違和感を覚える。命を賭けていないひとなど、ひとりもいないのだ。真面目に生きても命懸け。不真面目に生きても命懸け。激しく生きても命懸け。怠惰に生きても命懸け。とっくの昔から、我々は『すでに命を賭けている』のだ。何もしないで死ぬのも一生。何かをおっぱじめてから死ぬのも一生。どう生きるかは、各人の自由だ。燃え落ちる我々を、あなたにも見届けてもらえたら嬉しいと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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