いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

死ぬことを恐れたら、生きることができない。

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新横浜のドトールにいる。八月だと言うのに、明け方の涼しさは冬の到来を予感させる。空が綺麗で「気持ちいいな」とつぶやいた。夏が終わり、秋がはじまろうとしている。このとき、自分は、あと何回冬を迎えることができるのだろうかと思った。なにかを美しいとおもうとき、必ず、どこかに『かなしみ』を感じる。それは、永遠にはそれを見ていることができないというかなしみだ。挿しかけたイヤホンを戻し、静けさの中を歩いた。まだ、誰にも汚されていない一日がはじまる。

 

 

おおまかなスケジュール

8月24日&25日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「ごちゃまぜの家」
8月31日 13時 Shanti Day@東京都新宿区四谷「シアターウイング」
9月9日 20時頃 命を賭けているライブ@東京都武蔵野市吉祥寺「曼荼羅」

SCHEDULE on 
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永遠のリズム。

最近は「死ぬことを恐れたら、生きることができない」と感じていた。不思議だ。死を受け入れると、生が充溢する。死を拒むと、生が収縮する。当たり前のことだが、人は死ぬ。すべての瞬間に終わりがあり、永遠に続く夏もなければ、永遠に続く冬もない。明けない夜はないし、貼れない湿布はない(あ、これは違うか)。ただ、四季のリズムは変わらない。永遠に続く夏はないが、秋が来て、冬が来て、春が来て、そして「再び夏が来る」ことに終わりはない。永遠に夏であることはできないが、永遠のリズムを生きている。もし、私たちの存在がひとつの季節のようなものだとしたら、終わりの瞬間を迎えたとしても、また、遥かな未来で「再び夏が来る」のかもしれない。そんなことを思いながら、新横浜のドトールに到着した。

 

 

未熟な人間が何かをはじめたときの世間の反応は厳しく、途中、何度も「死ね」だの「消えろ」だのの罵声を受けた。そのたびに、私は、こんな風に思った。安心してください。お前に言われなくても俺は死ぬし、お前に言われなくても俺は消えるよ、と。無論、常に平気でいられるわけではないから、諦めそうになることも幾度かあった。しかし、もし、明日死ぬとしたら自分が作った音楽をこのままお蔵入りにさせるのかと考えたら、答えは常にNOだった。もし、明日、死んでしまうのだとしたら自分はこの作品を世に出したいと思う。未熟だろうが、荒削りだろうが、ひとりの人間が生きていたということを、なぜなのだろうか、残したいと思う。そんな思いで、希望と絶望を反復横跳びするような感じで、毎日音楽を作った。

 

 

遅かれ早かれ俺は死ぬし、遅かれ早かれ俺は消える。しかし(だからこそ、と言った方がいいのだろうか)、その裏側には「消える前に見てほしい」と思う自分がいる。このとき、私は、私の命を「わたしのものとしてではなく」ただの命として、見ているように思う。ここにひとつの命があって、無様だろうが、不器用だろうが、精一杯に生きようとしている。この命を、見殺しにすることができないという感覚。この命を、守り続けたいと思う感覚。自分のものだから大事にしたいというよりも、命が、命であることによって大事にしたいのだと思わされる、この感覚をなんと呼べばいいのか。私に「死ね」と言ってくるあなたも、私と同じように、死ぬことを避けることはできない。お互い様である。お互い様であるこの命を、互いに、目撃し合いたいという感覚が、私に文章を書かせたり、私に音楽を作らせる。

 

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わたり文庫『かぎりなくやさしい花々』 

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、星野富弘著作『かぎりなくやさしい花々』です。こちらの本は、愛媛県在住の女性M様から「小学生の娘が、何回も、何回も読み直している大好きな本なので、お贈りさせていただきます」とご郵送いただいた一冊です。教師だった星野富弘さんはクラブ活動中の事故で頚髄を損傷し、手足の自由を失いました。失意のどん底を過ごしたのち、口に筆を加えて、絵と詩を書くようになりました。モチーフに選ばれた『花』を通じて、生きることのすばらしさを、語り続けます。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

 

神様がたった一度だけ
この腕を動かしてくださるとしたら
母の肩をたたかせてもらおう

星野富弘『かぎりなくやさしい花々』【偕成社

 

死ぬことを恐れたら、生きることができない。

生きるために必要なことと、生きたいと思うために必要なことがある。生活のため、暮らしのために、嫌な仕事でも我慢して続けなければいけない。そういう気持ちになることは、きっと、誰にでもあるのだろう。ただ、思う。自分を守ろうとするほどに、自分の命が弱まっていくことを、生活のために生きようするほどに、本当の意味で『生きる』ことから遠ざかっていくような感覚を、どうしても感じる自分がいる。私は弱い人間だから、常に、大袈裟な思考によって自分を支える必要がある。それは「死んでもいいから、やりたいと思うことをやろう」という思考だ。死なないために生きるのではなく、死んでもいいから「これをやりたい」と思うことを、やる。死を避けるのではなく、死を含めた『生』の全体を生きたいと思う。

 

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いま、私は音楽をやっている。死なないための音楽ではなく、生活のための音楽でもない。それは「生きたいと思う」ための音楽だ。いや、きっと、この言葉も正確ではないのだと思う。歌を歌っているとき、時折、自分というものが溶けてなくなって、音楽そのものになることがある。月並みな言葉で言えば、それは『一体感』だと思う。幸福とは一体感であり、不幸とは分離感である。そういうことを、時折、思う。バラバラに生きているように見える私たちも、実は、根底のところでつながっている。しかし、私たちは、日常生活の中でなかなかそういうことを感じることはできない。すべてはつながっている。この言葉を実感するために、バラバラなものをひとつにするために、音楽をやっているのかもしれない。そして、勝手な願いを抱く。遅かれ早かれ死ぬ自分を、遅かれ早かれ消える自分を、できることならば「消える前に見てほしい」と、誰にともなく、何にともなく、願ったりする。

 

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昼間殺人を犯した罪人が、夜、川に溺れているこどもを助けるために自分を犠牲にする。そういった部分が、多かれ少なかれ、人間にはあると思う。一面だけを見て「あいつは良い人間だ」とか「あいつは悪い人間だ」とか、決めつけることはできない。ボール遊びをしているこどもがいる。ボールが、道路に転がっていく。道路に飛び出したこどもに、一台の車が向かってくる。そのとき、誰もが「危ない!」と思うだろう。こどものすぐ近くにいれば、こどもの腕を引っ張って、咄嗟に助け出そうとするだろう。このとき、助ける側の人間は「こどもを助ければ親にお礼を言われるから」とか「一躍有名人になれるから」とか、そういった損得勘定で動いてはいない。ただ、同じ命が、このままでは滅びてしまいそうになる危機感から、体が勝手に動くのだと思う。このとき、私は、命に自分も他人もない、みたいなことを思う。同じ命が危機に瀕したとき、私たちの体は、勝手に動き出す。ふと、空を見上げる。日は高く昇り、真夏の延長戦を続けている。なにかを美しいとおもうとき、必ず、どこかに『かなしみ』を感じる。それは、永遠にはそれを見ていることができないというかなしみだ。生きているということは、どういうことなのだろう。死んでしまうということは、どういうことなのだろう。わからない。わからないけれど、四季のあるこの国を、永遠のリズムの中を「生きていきたい」と思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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