いばや通信

ibaya.ex《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

旅は道連れ、世はアガペー。

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菊名駅前のコロラドにいる。音楽業界の方々が「へたくそだけど胸が震える音楽もあるし、うまいけど退屈な音楽もある。技術じゃないんだよ」と言っていた。本当にその通りだ。私はキャッフェで作業をすることが多いが、大概の店員は機械的で無機質だ。冷酷であるとさえ言える。ありがとうございますとか言われても「お前、絶対そんなこと思ってねえだろ」と感じる。しかし、若葉マークをつけた新入りさんは違う。彼らは、ぎこちないが、真剣だ。一挙手一投足に血が通っている。へたくそだけど一生懸命な姿に、心は打たれるのだ。若葉を守れ。初期衝動を失った人間は、技術的には優れるが、人間ではなくなる。冷酷なロボットになるのだ。

 

 

おおまかなスケジュール

8月2日以降、FREE!【呼ばれた場所に行きます】
8月24日&25日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「ごちゃまぜの家」
8月30日 EVENT@東京都恵比寿界隈(詳細は決まり次第更新します)
9月9日 20時頃 念願の吉祥寺ライブ@曼荼羅(詳細は決まり次第更新します)

SCHEDULE on 
http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

若葉を守れ。

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念願の日比谷野外音楽堂(前)デビューを果たす。

 

生きていると「ふざけんじゃねえよ」と思うことがある。調子に乗った人間を一列に並べて、スピニングバードキックで鼻をへし折りたくなる。どうしてなのだろうか、常に「ぶっ壊したい」と思ってしまう自分がいる。巷には『クレイジー○○○』とか『○○○ロック』とか『新しい○○○』とか、自分で自分のことをロックだのクレイジーだの新しいだの言っている人々は多い。しかし、どう見ても「全然クレイジーだと思えない」「全然ロックだと思えない」「新しいとか言いながら全然枠を出ていない」と感じる。そんなことよりも、先日、巣鴨で喰らったモンゴル料理のAコースの方がよっぽどクレイジーでロックで新しい存在だった。本物は、自分をクレイジーとか言わない。自分をロックとか言わない。自分を新しいとか言わない。

 

 

昔は、音楽は反権力の象徴だった(気がする)。だが、いまは、女子高生がエレキギターを担いで学校に行くと、教師から「おお、頑張ってるね」と言われるらしい。生徒も生徒で、真面目な人が多いらしい。吹奏楽部みたいなものだ。別に、吹奏楽部をダメだとは思わない。ただ、ブルーハーツが歌ったように「おとなに褒められるようなバカ」になっていないか、一抹の不安を覚える。ギターは、むかつく奴の頭をぶん殴るためにあるものだと思う。実際に暴力を振るうと、犯罪になる。しかし、音楽を通じて心をぶん殴れば、それは感動になる(ことがある)。褒められるためにやるなんて、真面目すぎる。優等生すぎる。全員が出木杉くんになってしまったら、ドラえもんは退屈だ。ジャイアンがいるから、嫌われ役がいるから、面白くなるのだ。ジャイアンになれよ。嫌われてしまえよ。そう思うことがある。

 

 

誰にだってあるだろう。年齢を重ねるにつれて、昔よりは落ち着いたかもしれない。しかし、落ち着いたかもしれないが、昔よりも「つまらない」人間になっている場合は多い。どうしたんだ(ヘヘイヘーイ!)、と、問いたい。お前はそんなにつまらない人間だったのか。と。風紀委員をあれだけ毛嫌いしていたお前が、いつの間に、風紀委員長みたいなことになってしまったんだ。と。内村鑑三大先生の『代表的日本人』を読み直してくれよ。と。死んでもいいと思うからこそ、生の充実を見るのだろう。と。こどもの頃、お前が「こうはなりたくない」と思っていたおとなに、いま、お前自身がなってしまってはいないか。と。クソガキだったお前を、どこに置き忘れてきたのだ。と。忘れないでくれよ。思い出してくれよ。と。

 

note.mu

 

わたり文庫『イン ザ・ミソスープ

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、村上龍著作『イン ザ・ミソスープ』です。20歳前後の頃、村上龍の本しか読まなかった時期がありました。彼の本を読むたびに「強くならなければ」と(暗黒の部屋の中で)感じていたことを思い出します。とりわけ20歳前後の方々に、読んでいただけたら嬉しいです。アマゾンのレビューには「気持ち良いほど残酷な本を読みたい方にお勧めです」と書いてありました。悪い影響を与えたい。不思議なことに、時折「悪い影響を与えたいなあ」と、ひっそり思うことがあります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

 

大人達は、金と、何か既に価値の定まったもの、つまりブランド品のようなもののためだけに生きている。テレビや新聞や雑誌やラジオやつまりあらゆるメディアから、自分達は金とブランド品しか興味がないし、必要でもないという大人達のアナウンスが聞こえてくる。政治家から官僚、その辺の屋台で安酒を飲んでいる最低のリーマンのオヤジまで、欲しいものは金しかないのだと生き方で示している。口では、人生は金だけじゃないなどと偉そうなことを言うが、生き方を見るとやつらが他に何にも探していないのがすぐにばれる。女子高生の援助交際を批判するオヤジ系の週刊誌は、同じ号の中で、お得な値段のファッションヘルスや早朝ソープを推薦しているし、政治家や官僚の汚職を糾弾しながら、安く買える優良株や不動産を紹介し、人生の成功者として、金持ちの自宅とか、高価なものを身につけただけのアホをグラビアで見せたりする。この国の子ども達は毎日毎日三百六十五日、そしてほとんど一日中、餌と電流の猫のような思いを味わっている。そんなことを一言でも言うと、こんな食い物も充分にあって豊かな世の中で何を甘えたことを言ってるんだ、わたし達は芋を食いながらがんばってこんな金持ちの国にしたんだぞ、とじじい達から言われる。それも、こういう生き方は絶対にしたくない、と見ていて思うようなじじいに限って偉そうなことを言う。おまえの言うとおりに生きたらきっとおまえみたいな大人になってしまう、といつもおれ達は思っている。それは苦痛だ。じじいはすぐに死ぬから別にかまわないのだろうが、おれ達はあと五、六十年この腐りきった国で生きていかなくてはいけないのだ。

「ケンジ、どうしたんだ」

フランクがおれの顔を見ている。

 

「ぼくのような人間は明らかに有害だ、ぼくはウイルスにとてもよく似ている、人間に病気を起こさせるウイルスは実は非常な少数派で、その他にも無数の、数えきれないほど多くの種類のウイルスが存在する、その役割は一口で言うと、突然変異に手を貸して生命の多様性を創り出す、ということになる、ウイルスについてもたくさん本を読んだ、睡眠が少なくて済むということは、本を読む時間が多いということだ、ウイルスがもし地球に存在していなかったら、人類は誕生していなかったと思う、ウイルスの中には、われわれの遺伝子の中に入り込んで、直接遺伝情報を変えてしまうものもある、エイズを引き起こすHIVが、将来、人類のサバイバルになくてはならない遺伝情報の書き換えをしていないとは誰も断言できない、ぼくは、自覚的に殺人を犯し、他の人間達にショックを与え、考え込ませる、でもぼくはこの世界に必要とされていると思う、でも、ああいうのは、違う」

そう言ってフランクはまたホームレスを見た。ホームレスは段ボールの上に座ったきり動こうとしない。橋の上にも人がだいぶ増えてきたが、ホームレスの周りには誰も近寄ろうとしない。

「あいつらは、生きようという意志を放棄しているわけではない、他の人間とのコミュニケーションを放棄しているんだ、貧しい国には、難民はいるが、ホームレスはいない、実はホームレスはもっとも楽に生きている、社会生活を拒否するのだったらどこか他の場所に行くべきだ、何らかのリスクを負うべきだ、少なくともぼくはそうしてきた、彼らは罪さえ犯せない、退化している、ぼくは、ああいう退化している人間達を殺してきたんだ」

村上龍イン ザ・ミソスープ』【幻冬舎文庫

 

旅は道連れ、世はアガペー

なぜだかわからないが、幼少期から「全部嘘じゃん」と思っていた。両親の言葉であったり、先生の言葉であったり、周囲の諸々が発しているメッセージの全部が『嘘』に見えた。正確には「これは本当だ」と思うものもあったが、大概は、嘘っぱちに思えた。一番記憶に残っているのが、生まれ故郷である新潟の片田舎にある薬局に行った際、視界に入ったポスターだった。テレビなどでよく見る女優が、なにかの化粧品を片手に「これがあれば綺麗になれる」みたいなことを謳っている、どこにでもあるポスターだった。それを見たとき、この女優が生きる世界と、地方都市である新潟の実生活との間にある、あまりにも激しい乖離に『怒り』を覚えた。あのとき、なぜ、私は怒りを抱いたのだろうか。ここにいる限り、全部が、嘘になる。無意識に、そう思ったのかもしれない。それは「ここにいたら自分がダメになる」という、焦りにも似た(自分に向かった)怒りだったのかもしれない。

 

その後、私は「新潟にいたくない」という理由で、東京の大学に進学をした。しかし、そこでも「全部嘘じゃん」という思いは消えず、再び、ここにいたら自分がダメになるという『怒り』を抱いた。周囲の人間は、授業ダルいとか言いながら、取るべき単位はしっかり取得している。私も、授業をダルいと感じるところまでは同じだったが、実際に単位を取ることができなかった(2年間で取ったた単位数は「2」だった)。嫌だ、嫌だ、と思いながらも現実をクリアすることができず、卒業なんてできるはずがないと諦め、大学を辞めた。この時も、新潟の薬局で感じた『乖離』を感じた。乖離とは、要するに「嘘をつくな」という怒りだった。ここにいる限り、全部、嘘になる。それならば、私は「これは本当だ」と思える生き方を、見つけなければいけない。そんなことを思いながら、退学届けを提出した。なにかが終わるときは、常に、非常にあっさりとしている。退学手続きはものの数秒で終わり、私は、大学生という肩書きをなくした「なんでもない人間」になった。

 

なんでもない人間になったとき、もちろん、将来の不安なども覚えたが、同時に「ようやく自分が世界と一致をした」ような爽快感を覚えた。思えば、これまで、自分は常になにかに所属をしていた。中学生のときは『中学生』だったし、高校生の時は『高校生』だったし、大学生のときは『大学生』として、周囲から見られる。しかし、いま、自分は生まれてはじめて『なんでもない人間』になることができた。これまでは、レールの上を歩くことが人生だった。しかし、これからは「レールを作ること」が、自分の人生になる。レールを作ることができれば生きることができるが、それができなければ、自分は、無様な醜態を晒しながら路上で野垂れ死ぬことになる。(レールの上を)歩け、歩けと言われても「歩きたくない」と思うものだが、いざ、レールの上を歩かなくてもよくなったとき、私は「歩きたい(生きていきたい)」と思うことができた。 これからは、もう、誰の責任にしないでもいい。生きるも、死ぬも、自分次第。これは、非常に清々しい感覚だった。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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