いばや通信

ibaya.ex《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

この空があれば大丈夫だ。

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愛媛県松山市ドトールにいる。これから八幡浜港に向かい、フェリーで別府に行く。能動的な流刑だ。別府の温泉は多分日本で一番安い。無料温泉も豊富だし、かの有名な竹瓦温泉も百円だ。百円で買える幸せは、他になにがあるだろう。中古本、百円。映画のレンタル、百円。誰かに贈るためのガーベラ、百円。登山後に飲むコーラ、百円。他にも「こんなのどうですか?」などあったら教えてください。

 

 

おおまかなスケジュール

6月13日 19時頃 トーク×音楽@大分県別府市「田ノ浦ビーチ」
6月14日&15日 死に支度いたせいたせと大分かな?福岡かな?

6月16日 10時 福岡ドーム前ライブ@福岡県福岡市「福岡ドーム」
6月17日以降、FREE!【呼ばれたら何処にでも行きます!】
6月30日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」


SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

自由になる前に恐怖がある。 

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行雲流水。好きな言葉だ。希望は朝が似合う。夜には、少し重い。私は、自分を浮き沈みの激しい人間だと思っていた。しかし、正確には「裏表を見ているだけ」だと思った。たとえば、私は、上手に社会に馴染めない。調子がいいときは「こうあるべきの外側を見せてやるぜ!」と鼻息を荒くするが、夜、夕日と共に希望も沈下したときに「俺みたいな人間は、いない方がいいんじゃないだろうか」などと思う。仮に、私が、世直しを志したとする。しかし、自分は少数派で、誰もそんなことを求めていないのだとしたら、私がやろうとしていることは『余計なお世話』に過ぎない。それならば、世直しを目指すより、手っ取り早く消え去った方が早い。

 

しかし、私は生きている。生きている限り、絶望をすることもあるが、感動をすることもある。感動をすると「まだまだ、人生は捨てたもんじゃない」と思う。そして、同時に感じる。感動をしているだけじゃダメだ。感動をしたということは、その瞬間、自分に『責任』が発生をしたのだ。それは、自分が感動したものを、自分の生き様に宿らせるという責任だ。そうでなければ、真の意味で感動したとは言えない。誰かの生き様に心が震えたなら、自分もまた、同じように「真の意味で生きる」ことを目指すこと。それが筋だ。それは、誰かみたいになりたいと思うことではない。自分は自分。他人は他人。しかし、同じ人物にならずとも「同じ志を抱く」ことならば、できる。あらゆる偉人は、全員、志半ばでこの世を去る。それは、無駄なことではない。それは「乗り越えるものをまっている」ものだと思う。

 

感動は、引き継ぐと言うより『乗り越える』ものだ。自分が何かに感動をする。生きる実感を覚える。油断をすると、対象を崇拝したり、対象を布教するための生涯を過ごしそうになる。しかし、それは違う。なにかに感動を覚えるのは、その要素が、既に「自分の中にある」からだ。偉人も、凡人も、同じ人間だ。誰かを尊敬し過ぎることは、相手を人間以外のもの(悪魔か、神様)に変える。違う。我々は、同じ人間だ。何かに感動する。その感動を乗り越える。そのための挑みは、苛烈を極めるかもしれない。しかし、それが、命の役割だと思う。誰かに認められるとか、金になるとか、有利だからとか、安定のためなどといった、損得勘定を越える。それは、危険な道かもしれない。しかし、危険を生きることに充実を見る。そこで気付く。こんなにも生きたがっていた『命』の存在を知る。虚無感、空虚感、閉塞感、停滞感、絶望感、倦怠感、劣等感、それらを乗り越えるものは「危険に賭ける」ことなのだと、血を流しながら、涙を流しながら、思い知ることがある。

 

note.mu

 

わたり文庫『かもめのジョナサン

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、リチャード・バック著作『かもめのジョナサン』です。この本にある「正しい掟というのは、自由へ導いてくれるものだけなのだ」という言葉は、世間的にどのように受け止められるのだろうか。そんな言葉は戯言だ、絵空事に過ぎないと一蹴されるものだろうか。それとも、迫害を受けても、それを貫徹するために「命を投げ打ってでも」挑み続けたいと思えるものに、成り得るのだろうか。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、福岡県にわたりました ※※※

 

ほとんどのカモメは、飛ぶという行為をしごく簡単に考えていて、それ以上のことをあえて学ぼうなどとは思わないものである。つまり、どうやって岸から食物のあるところまでたどりつき、さらにまた岸へもどってくるか、それさえ判れば充分なのだ。すべてのカモメにとって、重要なのは飛ぶことではなく、食べることだった。だが、この風変わりなカモメ、ジョナサン・リヴィングストンにとって重要なのは、食べることよりも飛ぶことそれ自体だったのだ。その他のどんなことよりも、彼は飛ぶことが好きだった。

リチャード・バックかもめのジョナサン』【新潮文庫

 

この空があれば大丈夫だ。

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今、松山から八幡浜行きの電車に乗った。快晴。流れる景色が心地よい。柔らかな旅風情だ。四国にしかない空、四国にしかない夕日、四国にしかない穏やかさを感じる。瀬戸内の影響だろうか。我が祖国新潟の冬の曇天はエグく、環境が与える影響を思う。冬、あれだけ曇る環境で育つことは、虐待を受けて育つことや、悲しみに暮れた人間とワンルームで暮らすことと似ている。誰だって、ダメ出しされ続ける日々を過ごしたら気分も滅入るだろう。が、悲哀の中で育まれる「何か」もある。文学(優しさ)などが代表だ。哀しみから歓びを引き出し、歓びから哀しみを引き出す。思えば、生きててもいいと思える理由をかき集めるような日々だった。悲哀の中にいる者ほど、激しい理由を求める。ちょっとやそっとの理由では、生きる方向に舵が向かない。だからこそ、獲得した「これは!」と思えるものたちは、深く、胸を震わせる。

 

穏やかな景色が続く。木々の緑、空の青、雲の白が素晴らしく、この国に年間三万人の自殺者がいて、百万人を越える鬱病患者がいることが嘘のように思えてくる。社会不適合者という言葉もあるが、適合することが善なのか、適合したら自殺や鬱病患者になるリスクが高まるだけなんじゃないのか、など、余計なことを考える。自然が嫌いな人間はいない。誰だって、夕日を見たら美しいと思うだろう。しかし、日没時に夕日を眺めている人間は圧倒的に少数で、大概は屋内でテレビを見ているか家事や仕事や勉強をしている。多くの人々が長期連休に自然の中で「癒される」などと言いながら、普段は都会に住み、マンション建設のためにガンガン自然は破壊される。自分が大事だと思うことと、社会が大事だと言うことと、どちらを優先させるのが良いのだろうか。松山市内を歩いていたら、中学生の声で「夢は見るものではなく、叶えるものだと思います」というアナウンスが流れていた。それを聞いて、ああ、言わされているなあと思った。誰かに言わされている言葉。それを排除したとき、どれだけの言葉が残るのだろうか。

 

人間の機械化が進む。学校は優等生製造工場みたいで、社会は平均的人間製造工場みたいだ。機械的であることが好まれ、人間味を出すことは「ふざけている」「生産的ではない」「余計なこと」になる。誰もが、似たような言葉を話し、似たような振る舞いをする。そんな中、ああ、このひとは人間のままでいてくれたと思えるひとを見ると、うれしくなる。それは、街中で野良猫に遭遇した瞬間の感慨に似ている。あ、ここに、生きているものを発見した!という感動。自分は、人間が嫌いで、人間が好きなのだと思う。そして、人間でありたいと思う。人間を好きになりたいと思う。窓の外を見る。青い空に、白い、大きな雲が流れている。眺めていると、自分の中にある想念、喜、怒、哀、楽、夢、愛、憎、烈、苦、すべて、吸い込まれていく感覚になる。この空があれば大丈夫だ。そんな感覚になる。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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