いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

自分の正義のために。

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静岡県三島市デニーズにいる。欧州には安楽死が合法化されている国がある。先日、知人が、自らの意思で安楽死を選び、死んだ。倫理的な問題も、あるのだろう。ただ、彼に対して「死ぬなんて勿体無い」とか「生きていればいいことがある」ということは、無意味だと思う。周囲が問う何億倍も、彼は、彼自身に問うたはずだ。そして、考え抜いた先に選び取った道が、そうであっただけに過ぎない。生きた人間は、最後に問いを残す。それは「お前はどう生きるか」という問いだ。

 

 

おおまかなスケジュール

5月22日以降、FREE【イベント出演依頼諸々募集中!】
5月26日 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」
6月2日 EVENT 音楽×トーク@千葉県千葉市「N-HOTEL

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

死に後れたものの凄み。

先日、ある女性が飼っていた犬を亡くした。女性は悲しみに暮れ、現在は仕事も休んでいる。周囲の友人は、彼女に「そんなに悲しんだら、天国で〇〇ちゃん(犬の名前)も心配するよ」などと、彼女を励ます。励ます側に悪気はない。ただ、自分だったら、こんな慰められ方をしても、ほっといてくれと思うだろう。実の母親をなくした人間に、悲しまないで、笑って!などと要求することは、拷問に近い。悲しむことが弔いになる。悲しむことが、心の中に、自分が愛したものを仕舞うためのスペースを作る。悲しむことを通じて、自分が、いかに愛していたのかを知る。

 

「そんなに思ってもらえるなんて、〇〇ちゃん(犬の名前)も幸せだね」と、人は言う。逆だ。こんな気持ちにさせてもらえた、自分の方が幸せなのだ。たとえ、この瞬間に感じている感情が悲しみだとしても、それは『愛があるから』に、他ならない。大切なものを失うとき、ああすればよかった、とか、こうすればよかった、とか、関係性の中における自分自身の動き方を後悔することがある。しかし、大事なことは、それらを経て「これからの自分が、どう生きるか」だと思う。生きて、生きて、生ききったものは、最後に問いを残す。それは「お前はどう生きるか」という問いだ。いま、生きている我々は、極端な話『死に後れた者』だと思う。私は、死んだ人間に、ある種の美しさ、ある種の完成、ある種の『敵わなさ』を感じる。生き残ったものの無様さと、責任。私は、まだ、生きている。私の中にまた、彼らも、同時に生きている。本当に生きるとは、どういうことを言うのだろうか。

 

俺だけ生き残ってしまった。なぜか、そう感じる瞬間がある。死んだ方がいいのは俺だったのに、なぜ、優しい人間から死ぬ。なぜ、心ある人間からこの世を去る。考えても仕方のないことだ。後追いで死ぬことも、違うのだろう。生きれるだけ生きたとき、人は、死ぬ。すべてに『時』があるのだと思う。私は、これまで「いつ死んでもいい」などと嘯いていた。しかし、今は、生きれるだけ生きてやりたいと思う。苦しむだけ苦しんで、傷つけるだけ傷ついて、笑えるだけ笑ってやりたいと思う。なぜか、そのことが、死んだものに対する供養であるように、感じている。死に後れたものの凄みを見せてやる。そう思うとき、もりもりっと湧き上がる力を感じる。この力のなかに、あいつも、こいつも、全員がいるような感覚を覚える。

 

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わたり文庫『悲しみの秘儀』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、若松英輔著作『悲しみの秘儀』です。熱海の家の本棚には、10冊程度の本が並んでいる。そのなかの一冊が、この本になります。あなたは、もし、これまで読んだ本の中で「永久保存版にしておきたい本を10冊選べ」とか「誰かに無理やりでも読ませたい本を10冊選べ」と言われたら、どのような本を選ぶだろうか。おそらく、あなたが選んだ本が、あなた自身を形成しているのだと思う。あなたの好きなものが、あなたの血となり、あなたの骨となっているのだと思う。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

 

かつて日本人は、「かなし」を、「悲し」だけでなく、「愛し」あるいは「美し」とすら書いて「かなし」と読んだ。悲しみにはいつも、愛しむ心が生きていて、そこには美としか呼ぶことができない何かが宿っている。人生には悲しみを通じてしか開かない扉がある。悲しむ者は、新しい生の幕開けに立ち会っているのかもしれない。

若松英輔『悲しみの秘儀』【ナナロク社】

 

自分の正義のために。

10歳にも満たない頃、忘れられない夢を見た。自分の不手際で、自分が通う小学校に火をつけ、全焼させてしまう夢だった。私は恐怖に目覚め、母親に泣きついた。母親は「よしよし」と言って、私をなだめた。私は震えながら、同時に「違う」と思った。私が恐怖を覚えたことは、学校を燃やしたことではない。学校を燃やしたことで、その損害賠償が母親に行くということだった。自分の存在が、誰かの迷惑になること。そのことを、私は、一番の恐怖として認識していた。それを避けるために、両親に「俺を離縁してくれ」と頼んだこともある。自分一人で責任を背負える範囲なら、問題はない。最悪、自分が死ねばいい話だ。だが、自分が生きていることが、周囲の人々の迷惑になる。そのことが耐え難く、同時に、そうなる予感を強く感じていた。乱暴にまとめるなら、私は、自分を『邪魔者』だと感じていた。

 

卑近な例だが、街を走ればショッピングモールにぶちあたる。私は、このような商業施設が苦手だ。美しくないと思う。しかし、そこには常に大量の人間がいて、私が美しいと思う場所は、大概、無人だ。こう言う時、ああ、おかしいのは自分なのだなと思う。どれだけ「商業主義は不潔だ」とか「損得勘定の得は、本当に得か?」とか「世に、美を!光を!」などと思っても、多くの人間が、自分が美しくないと思うものを美しいと思うのであれば、バグっているのは自分だ。おかしいのは自分であり、邪魔者であるのは自分だ。だから、俺がいなくなればそれで済む話だな、などと思ったりする。しかし、そう思いながらも、熱海の家の近所の人々はやさしい。久々に家に戻ると、「あら、帰ってきたの!」と、満面の笑みで迎えてくれる。熱海を離れるときは「また来てね」などと言ってくれる。その一言に、どうしようもないよろこびを感じてしまう、ひとりの人間(要するに自分)がいる。

 

正しさよりも『楽しさ』だ。正しさで人間は動かないが、楽しさならば人間は動く。そのようなことを、過去に、何度も書いた。しかし、一番奥底、心の一番深いところでは、私は『正しさ』を求めているのだと思う。それは、決して、自分の正当性を主張するための正しさではない。誰かに強制するための正しさでもない。それは、自分を、人間にしてくれる正しさだ。自分は、いま、正しいことができているのだという感覚は、自分を人間にしてくれる。歪みかけた精神を律し、崩れかけた精神を支える。本当に生きるとは、どういうことなのだろうか。わからない。あるものは、ただ「本当に生きたい」と願う、思いだけだ。生きることの中にしか、見いだすことのできない正しさを感じる。それは、楽しくはないかもしれない。しかし、正しいことではあるかもしれない。だから、生きれるだけ生きてやりたいと思う。苦しむだけ苦しんで、傷つけるだけ傷ついて、笑えるだけ笑ってやりたいと思う。なぜか、そのことが、死んだものに対する供養であるように、感じている。死に後れたものの凄みを見せてやる。そう思うとき、もりもりっと湧き上がる力を感じる。この力のなかに、あいつも、こいつも、全員がいるような感覚を覚える。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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