いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

鎖国から開国。

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34歳の誕生日を迎えた。去年の今頃は、ハワイ島でごちゃまぜの家を作るために獅子奮迅していた。結果、プナ地区で自由に使える土地をご提供していただいたが、数日後にキラウェア火山が大噴火し、すべてが流れた。一昨年の誕生日は、ごちゃまぜの家を作るためにクラウドファンディングで支援金を募集した。結果、500万円近くの援助を受けて現実化した。今年の誕生日は、ちょっとまだここでは書ききれないことが起きた。一年でやれることは、大量にある。時の流れを思う。

 

 

おおまかなスケジュール


4月11日 関西空港到着以降、引き続き音楽武者修行

4月12日「音楽×トーク」企画@岡山県倉敷市鷲羽窯
4月14日「音楽×トーク」企画@大阪(阪急十三駅)

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

一ヶ月を振り返る。

3月頭から、1日1曲を目標に毎日音楽を作った。心理的な変化が著しい。これまで、音楽をやるということは「恐ろしいこと」だと感じていた。が、実際に恐怖の中にダイブをすると「恐怖は、ただの現実になる」ことを思った。この感覚は、家なし生活をはじめた時期と似ている。家がなければ、金がなければ、自分は生きていけないと思っていた。だから、常に「路頭に迷うようなことが起きたらどうしよう」という恐怖があった。しかし、実際に、家がなくなり、金もなくなり、恐怖はただの現実になった。怯える対象ではなく、ど真ん中を生き抜く対象になった。そして、恐怖は具体的な現実に形を変え、人生は意外とどうにかなることを学んだ。

 

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現状30曲作った。開始直後から否定的な言葉を散々言われ、なにかをはじめるときはこういうことが起きるのだなと学んだ。最初の数曲は、まず、声に自信がない。言い訳に溢れている。10曲近くなった頃、とりあえず周囲の目線は気にならなくなった。毎日投稿をする意義は、多分、ここにある。周囲からどう思われるか、みたいな不安は早々と姿を消す。そんなことよりも「いかに自分が納得できるか」に変わる。他人を憂慮する暇がなくなる。毎日やっていたら自分の中にストックはなくなる。ストックがない状態、自分がからっぽの状態で、創作に携わる何かしらを常に探している自分は、常に『飢え』た状態に置かれていた。おそらく、これがよかったのだと思う。目の前のヒントをパッと掴み、即座に形にする技術が磨かれた。

 

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30日が過ぎ、30曲が生まれた。振り返ると、まるで一年前のように感じる。日々の密度が濃い。このペースで行けば、1年で12年分生きれることになる。そうでもしなければ、遅咲きの自分はどこにも辿り着けないような気がする。同時に、これまでと同じことをやっていてもダメだと思う。これは確信に近い。これまでの毎日投稿は、言うなれば準備体操である。これからは、本格的なトレーニングが必要だ。私は、自分に約束をした。いまはまだズブの素人だとしても、お前が本気で生きるのならば、一年後にとんでもない景色を見せてやるよ、と。その景色の素晴らしさは、お前の本気と、比例をする。意識ひとつで、世界は変わる。お前が望みを抱き続けるのなら、その思いは実現をする。決意の凄みを見せてみろよ。これまでもたくさん奇跡を起こしてきたじゃないか。これからも、どんどん起こして行こうぜ。

 

鎖国から開国。

34歳のテーマは「鎖国から開国」。準備が整った。テレビ出演諸々、これまで避けてきた道を選びたい。本も出版したい。本物と出会いたい。そのためにも、自分自身が本物になりたいと思う。これまでと違う結果を求めるなら、いまの自分が「気持ち悪い」と感じること、抵抗を覚えることをやらないと、似たような結果にしかならない。基本的な姿勢は、面白いか、どうか。どれだけ痛い目に遭おうが、旧友と再会したときに「いやいや、こんなことがあってさ…」と笑い話になるのであれば、全部、ネタになる。全部、経験になる。全部、この星を生きた思い出になる。

 

毎日投稿をしながら、これは「捨てる」ことと同じだな、と、思った。自分にとって大事なものほど、どうしても溜め込んでしまう方向に向かう。それをグッ!とこらえて、大事なものほどリリースをする。一度、出してしまったものは、もう、二度と取り戻すことはできない。それが、いい。自然界を見ていると思う。例えば、花。我々は、花を、美しいと思う。しかし、あれは、人間で言うところの性器を露出して生きている、モロ出しの生命体だ。モロ出しが醜いのではなく、モロ出しが美しいのだ。そして、生物が排泄するものの数々。排泄物は汚いものとして捉えられがちだが、しかし、排泄されたものこそが、この地球を維持するための養分になる。言うなれば、我々は、植物の排泄物(酸素)によって、生命を維持している。溜め込まれたもので生きているのではなく、吐き出されたもので生きているのだ。

 

創作をすることは、よく、排泄行為にたとえられる。これは、無論、自分が気持ちよくなるためという意味合いもあるのだろう。しかし、同時に「世界の養分になるため」という意味合いもある。自分のなかに溜め込んでいるうちは、それは、誰のためにもならない。それが、どのような形であれ、外側に向けて吐き出された時に、なにかしらの意味を持つ。なにかしらの価値を持つ。捨てるということは、決して、無駄にするということではない。真逆だ。捨てることによって、開く、命がある。自分が生きていることが、なにかしらの種を撒き続けているような、そういうものになればいい。花が咲くのは、いまか、ずっと先のことなのか、それは誰にもわからない。ただ、自分は、開花する瞬間を夢見て、生きることなのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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