いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

本気を出せないことと、孤独になれないこと。

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ロンドンにいる。現在お邪魔しているご家庭の女の子(推定10歳)が、尋常ではなく可愛い。容姿もモデル並みで、なぜか、最近ことあるごとに「Don't judge me!!」と叫ぶ。意味もなく叫ぶ。彼女の語尾みたいになっている。母親「今日のお昼はなににする?」娘「ピザ。ドンジャッジーミー!」みたいな、意味がわからなくてわたしは笑う。ドンジャッジミー。彼女は美しく、ユーモアのセンスがある。美しいものに囲まれていると「自分は間違っていない」と思える。そして、ユーモアのある人々に囲まれていると「間違っていたとしても構わない」となり、最強となる。

 

 

おおまかなスケジュール

3月27日~4月2日 FREE!@グラストンベリー界隈
3月31日 わたり食堂【0円食堂】(帰国不可能)
4月3日~4月10日 FREE!@ミラノ・ヴェネツィア界隈
4月7日 ✨✨✨✨✨坂爪圭吾34歳の誕生日✨✨✨✨✨

4月11日 関西空港到着以降、引き続き音楽武者修行【日本】

4月12日~13日 音楽武者修行@岡山県倉敷市
4月14日「音楽×トーク」企画@大阪(最寄駅・阪急十三駅)

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

本気を出せないことと、孤独になれないこと。

現代病があるとすれば、それは「本気を出せないこと」と「孤独になれないこと」が原因にあると思った。楽な道を選ぶことが、必ずしも自分を幸福にするとは限らない。私は思う。人間、生きている限り「自分の本気を見てみたい」という思いを、心の底に抱いているのではないか。少なくとも、自分は、そうだ。命を燃やすような瞬間を生きたい。自分は、これのために生まれてきたのだと、歓喜に声をあげて泣くような瞬間のど真ん中を、生きたい。頑張るという言葉は窮屈だ、という雰囲気が世の中にはあるけれど、でも、本心では「頑張りたい。頑張れる何かを見つけ出したい」と思っているのが、生きているものの本音なのではないだろうか。

 

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孤独について考えていた。私は弱い人間で、基本的に常に単独で行動をする。なにをするにしても、常に、ひとりだ。それを見て、私を見た人々は「ひとりで生きる強さがあっていいですね」と言う。私は思う。それは、逆だ。ひとりでいることは強さではなく、それは『ひとと生きることができない弱さ』だと思う。無論、何事も最初はひとりからはじまるものだ。私は、みんなでやる、という言葉をあまり信用していない。誰かがやるから自分もやる、ではなく、誰もやらないとしても自分はやる、ひとりでもやる、と、そう思えることの中に自分の本質があると思っていた。ひとりで生きて、ひとりで死ぬこと。それが男の人生だ、と、思っていた。 

 

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こんな感じで凝り固まっていた自分の思いを溶かしてくれたものは、女性の存在だった。柔らかくしなやかな女性に出会うと、自分の中にある弱さが露呈する。ひとりで生きる強さとは、決して、最初から最後まで自分一人だけの力で成し遂げるための力ではない。それでは、いつまでも、孤独なままだ。それでは、いつまでも、寂しいままだ。それでは、いつまでも、臆病なままだ。ひとりで生きる強さとは、その力を通じて『他人と繋がるため』のものである。最近は、そう思うようになった。最初は、無論、ひとりからはじまる。しかし、そのひとりとは「やがては、ひとりではなくなるため」のひとりである。ひとりで生きるための強さではなく、誰かとつながるため、仲間、友達、家族、それらと出会うための『ひとり』なのだ。

 

 

「Overdosed」「Loneliness is Mine」

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ひとりで生きる強さより。

闇があるということは、光があるということだ。闇がないということは、同時に、光も存在しないということだ。だから、自分の中にある孤独、孤独に限らずとも「ネガティブだと思われるようなもの・悪いものとされているもの」の中に、力強く輝く『光』は、常に内存しているのだと思う。だからこそ、自分の中にあるすべてのものは、宝になる。自分を鍛える宝になるし、自分を引き出す力になる。良い部分だけを見せようとするのではなく、悪い部分もすべて、自分のなかにあるものをまるごとひっくるめて「これが自分です」と差し出した時に、綺麗なだけではない、それでも『美しい』と思えるなにかが宿る。これが、おそらく、生命の力だ。 

 

自分の役割は「整える」ことにあると思っていた。人間、チューニングが乱れると体や心が不調をきたす。逆に言えば、チューニングさえ整えることができれば、人間、誰もが本来の調子を取り戻す。だから、自分は「整える」ことに注力すればいいのだと、そんなことを思っていた。熱海や横浜の家も、その場にいることでなにかしらが「整う」ことが期待される調度品を揃えた(というか、譲り受けた)。誰かと会う時も、聞き役に徹することが多かった。しかし、最近は次のフェーズに突入したことを感じる。それは「暴く」ということだ。整えるだけでは、先に行けない。整えることが悪いのではなく、整えたあと、の、話、だ。社会に蔓延する嘘、あるいは、自分につき続けてきた嘘の数々、を、暴きたい。そういう思いがある。この矢印は、内側にも、外側にも、同等のエネルギーをもって強く開かれている。

 

「愛されたい」という嘆きを耳にすることがある。もっと親から愛されたい、とか、もっと恋人から愛されたい、など。私は思う。愛されることが、まるで『人生のゴール』みたいになっていることに違和感を覚える。無論、愛されないより、愛された方が嬉しいに決まっている。しかし、愛されるということは、ただの副産物だと思う。肝心なことは、愛されたうえでなにをやるか、ではないだろうか。私は、私を暴きたいと思う。自分を驚かせていきたいし、自分を裏切っていきたい。「これが自分だ」と思っていたものを飛び越えて、新しい自分を発掘したい。本当のことに出会った瞬間、思わず笑ってしまうことがある。整えるだけでは、笑いは起こりづらい。暴かれたとき、思わず笑ってしまうことがある。なーんだ。自分は、こんなことで悩んでいたのか、とか。なーんだ。自分がやりたいと思っていたことは、結局そういうことだったのか、とか。暴くと言う言葉は暴力的な響きを帯びるが、最終的には「清々しい風を吹かせる」最高のものだと、私は思っている。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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