いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

愛と感謝の先に行く。

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ロンドンにいる。二ヶ月前、グラストンベリーという場所で血を吐きながら「死ぬかも」と思った。いま、時は流れて体調も戻り、傍目には死ななかった人間として存在している。しかし、あの時、自分は一回死んだのだ。一回死んで、生まれ変わった。逆に言えば、自分は、死に遅れた人間になった。尾崎豊のように、カートコバーンのように、若くして死ぬことのできなかった「死に遅れた人間」の凄みを、自分に感じる。生きる凄みを、誰にともなく、見せつけてやりたい気持ちになる。

 

 

おおまかなスケジュール


3月24日~25日 FREE!@ロンドン
3月26日 「音楽×トーク」企画@ロンドン(Bond Street)

3月27日~4月2日 FREE!@グラストンベリー
3月31日 わたり食堂【0円食堂】(帰国不可能)
4月7日 🎁🎉✨🎂💝坂爪圭吾34歳の誕生日💝🎂✨🎉🎁

4月11日 関西空港到着以降、引き続き音楽武者修行【日本】

4月12日~13日 音楽武者修行@岡山県倉敷市
4月14日「音楽×トーク」企画@大阪(最寄駅・阪急十三駅)

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

欲しがる力。

昔から、無印良品ユニクロが嫌いだった。理由は不明だった。ただ、これを自分の人生に採用したら「自分が死ぬ」という感覚が強くあった。現在、ロンドン在住S様の家に滞在している。S様は言う。多分、いま売れっ子のアーティストも、売れる前は結構尖った部分があったと思うの。でも、人気が出ると、大衆にあわせちゃうから、尖っている部分がなくなるのよね。尖っているものが世の中にたくさんある方が、みんな豊かになるのよ。だけど、いまって「これが楽しさです」みたいな感じで、まるで離乳食みたいに「噛み砕かれた楽しさ」だけが提供されたりするじゃない???テレビとかさ、視聴者をバカにしているって思うのよ。離乳食ばっかり食べてたらさ、かみごたえのない、薄っぺらい人生になると思わない???

 

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S様は続ける。みんなが好きになるものを好きになることのダサさ、ってあると思うの。無印とか、ユニクロとか、そういうものに象徴されているものが、あたしはいかんのだと思うの。あたしは坂爪さんより年齢が一回り上だけど、いまは「誰も目指さない50になりたい」って思っているのよ。岡村靖幸が大好きで毎晩動画見て興奮しているんだけど、彼、50を超えても全身スーツでビシッ!と決めて、キレッキレの踊りをするの。何回も逮捕されたから、突き抜けた部分があるのだと思う、彼。自意識を超えているっていうか、彼を見ていると「俺はこれでいいのだ!感」が半端ないのよ。だから、こんなにも惹かれちゃうのよ。やっぱり、人間、遠慮しちゃダメね。遠慮は美徳みたいな考えがあるけど、美徳じゃなくて冒涜よ。遠慮することは、自分に対する冒涜であり、自分に対して失礼なことだと思わない???

 

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途中、S様の娘様の話になった。娘はお菓子が大好きだ。娘に食べられないように、S様はお菓子を娘の手の届かない戸棚に隠していた。が、まだ、よちよち歩きをしていた頃の娘は、お菓子欲しさに「イスを駆使してテーブルによじ登り、戸棚を破壊してお菓子を奪う」偉業を成し遂げた。まだ、歩くことさえできないのに、である。よく、我々は、なにかをするためには技術や準備が必要だ、みたいな話をする。しかし、欲しがる力は「できる・できない」を超える。なにか新しいことをするときに、技術が足りない、知名度が足りない、勇気が足りない、などと、そういうことを気にすることがある。しかし、もっとも足りていないものは「欲しがる力」ではないだろうか。欲しがる力があれば、人間、できる・できないを超える。

 

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「愛と感謝」の向こう側。

私はS様が好きだ。理由は「愛や感謝の先に行こうとする」姿勢を感じるからだ。愛。感謝。素晴らしい概念だ。しかし、私は、愛こそすべてとか、全部愛なんだよ、などと言う人を見ると「薄っぺらいな」と感じる。そこに、話し手の実感を感じない。なにかを言っているようで、なにも言っていない気がする。愛や感謝に着地することは、死ぬほど簡単だ。しかし、愛や感謝は、時に『現状維持を助長する』ことになる。仕事があるだけ感謝だよ、とか、嫌いなひとでも愛していこう、とか、耳障りはよいけれど『自分が変わっていく必要』がなくなる。なにかあると、すぐに「愛」とか「感謝」とか言う人を見ると、止まっているな、と、思う。

 

S様は、愛とか、感謝とか、そういうことをあまり口にしない。しかし、そんなS様に「愛や感謝がまったくない」のかと言ったら、真逆だ。私は、愛とか、感謝とか、そういう言葉を軽々しく口にしないS様から、深い愛情の持ち主であることを、深い感謝の持ち主であることを感じる。それは、きっと、常に「愛とは何か?」という問いを持っているからだと思う。答えをもっているひとは止まっていて、疑問をもっているひとは進み続ける。進み続けるということは、深みをましていくということだ。愛とはこれだ、という答えをもっているひとは、その愛にしがみつき、最悪の場合は「愛しているって言ったじゃない!」などと喚き、愛を理由に相手を責める。愛は、多分、そういうことではない。最近思う。人間は、人間を愛することはできないのではないか。人間にできることは「愛を感じること」までだ。自分が、過去に、愛することができていたか、それを確かめる手段はない。しかし、あの瞬間、間違いなく「愛はあった」と感じる瞬間ならば、無限にある。

 

音楽と言葉の間にあるもの。それは『音』だ。わたしは、音が好きだ。だから言葉を綴り、だから音楽を続ける。33歳になってから音楽活動をはじめた、などと思っていたが、最近では「もしかしたら、自分はずっと音楽をやっていたのかもしれない。ただ、そこに、リズムやメロディーがなかっただけだ」と思う。生きているということ。リズムやメロディーがないだけで、もう、それ自体が音楽なのだ。毎日音楽をつくるということは、頭が張り裂けそうな作業になる。しかし、頭が張り裂けることを避ける理由が、自分にはない。死に遅れた自分には、頭が張り裂けることを厭う理由が、なにもないのだ。これはいいな、と、空を見上げたら笑えた。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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