朝はGRAPEVINEの真昼の子供たちを聴きながらはじまる。その曲のなかに『油断すると大人になっちまう』という歌詞があり、ああ、まじでそうだなと思う。最近の小生、男と女の違いに対する研究に余念がない。男とか女とかで括ると、必ず、ある一定の層から「そういうカテゴライズはしないでください!」と怒られる。しかし、私はそれをガン無視する。だって、やっぱり、男と女はまったく違うと思うから。違いを認識することが、結果的に『愉快に生きる秘訣となる』と思うから。
私が五歳の時、母はいつも幸せが人生の鍵だと教えてくれた。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2018年10月18日
学校に行くと、彼らは大きくなったら何になりたいかと訊いた。私は「幸せに」と書いた。彼らは私がその課題を理解していないと云い、私は彼らに貴方達は人生を理解していないと云った。
人生の鍵。 - いばや通信 https://t.co/ChCdBxlb6I
野営をしていると「俺は、男であることの特権をフルに活かしてるな」と思う。しかし、同じことを女子にやらせたいとは思わない。女子が連日野宿とかしたら生理が止まると思う。多分、肉体が、そういう風にできていない。こういう時、私は、男女差って確実にあるよなと思う。最近、私は、現代社会は『無性社会(男も女もない社会)』なんじゃないかということを考えているのだけれど、これは説明が長くなるので死ぬまでに論文に書きあげてまとめたい。昨日、私は、男女差において非常に秀逸な例え話ができるようになった。それを『男は桃太郎。女はきびだんご。理論』と名付けた。
男は桃太郎。女はきびだんご。
桃太郎という童話がある。一見、主人公は桃太郎っぽいが、真の主人公はきびだんごである。きびだんごがなければ、桃太郎は犬・猿・キジなどの仲間を得ることはできない。では、このきびだんごを作ったのは誰か。そう、おばあちゃんである。おばあちゃん【女】がいなければ、桃太郎【男】は「よっしゃ!これから鬼を倒すぜ!」となったところで返り討ちあって痛い目に遭っていたかもしれない。最悪の場合は殺されていたかもしれないのだ。が、おばあちゃんがいたからこそ、きびだんごがあったからこそ、桃太郎は『鬼を退治する』という手柄を獲得することができた。真の主人公はおばあちゃんである。
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坂爪圭吾×堀口雅司「これからの生き方を考えよう!」@大阪府能勢町
男は桃太郎。女はきびだんご。私が、女性を見ていてすごいなと思うところは、自分の手柄をまったく外側にひけらかすことをしないことだ。もし、私があれほどの痛みを伴った出産を経験したならば、あたりかまわず「俺、まじで頑張った!まじで生き抜いた!誰かほめて!この苦しみを乗り越えた俺を讃えて!」ってなる。しかし、女性は違う。出産のこと??あー、あれね、うん、すごい痛かったよ。でもねえ、みんなやっていることだしねえ。別に普通かな。みたいな感じでケロっとしている。私は、こういう女性に触れた時に「半端ねえな」と思う。絶対に勝てないと思う。男が女に勝てるのは、多分、腕力だけだ。女は最初から強い。だから、強さを求める必要はあんまりない。
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ごちゃまぜの話 feat.とよずみちあき&かむきとおる love 坂爪圭吾
男は『外』に出ることに喜びを見出す。鬼を退治した『手柄』を欲しがる。それに比べると、女性は「自分が作ったきびだんごを食べながら、桃太郎(男)が楽しそうに生きていたり、やりたいことをやっている姿を見ることに満ち足りた充足感を覚える」生き物なんじゃないのかなと思う。あれ。全然まったくうまく書けていないぞ。どうした俺。別に「女は男を支えるべきである」とか、そういうことを言いたいわけじゃない。私という人間は、すぐに手柄をひけらかしたくなる男の弱さを持っている。そんな時、きびだんごを作ったおばあちゃんのように『実は相当なことを成し遂げているのに、まったくそのことをひけらかそうとしない(真の裏方に徹した)女性に対して、相当なリスペクトを感じている』ということが書きたかったのだ。イチローはすごいけど、イチローの奥さんもすごいよね。とか、そういうことを言いたいのだ。が、私は失敗をしてしまいました。出直してきます。
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【10月18日】キクナキャフェやったー!(ほしな) - ごちゃまぜの家日誌
油断すると大人になっちまう。
私は、いい感じの女性を見ると「このひとは潤っているな」と思う。逆に、不幸そうな女性を見ると「このひとは湿っているな」と思う。水分の話をしているはずなのに、潤っていると湿っているの間には結構な違いがある。あまりにも頑張りすぎている女性を見ると「お前、ゴリラみたいになっているぞ」と思う。ゴリラは、なんと言えばいいのだろう、もはやあらゆる水分を吹き飛ばして蒸発しきっている乾燥状態に似ている。女性が筋肉隆々だと、なんか、違うんじゃないのかなと思う。あれ、私は悪口を書いてしまっているのだろうか。別に悪口を言いたいわけじゃない。ただ、男である自分には、女性の魅力は『潤い』にあると思っていることを書きたいのだ。男に潤いは出せない。だから、潤っている女性を見ると最高だなあとか思う。が、それ(潤い)が悪く出ると『湿っている』みたいな感じになり、女たちが群れると『(潤いを通り越して)どろどろの沼』みたいに見えたりもする。潤っている女性は魅力的だが、湿っている女性は不幸そうだ。一体、何が違うのだろう。女の沼を見ると、私は速攻で逃げたくなる。
私は男だ。男としてなにか停滞していると感じる時に、野営をしたり筋トレをしたりバイクに乗って遠くに行くと、なんだか自分を取り戻せる感覚がある。多分、これは男のやり方である。では、女性の場合はどうなのだろう。男としての喜びがあるとしたら、女としての喜びはどこにあるのだろう。そういうことを考えていた時に、先ほどの『男は桃太郎。女はきびだんご。』理論を思いついた。私は、別に女性を手放しで賞賛したいわけではない。例えば、私は、大前提として母親のことは大好きだけれど、小さな頃から「風呂に入れ」だの「歯を磨け」だの「飯を食え」だの、母親の小言を聞くたびにうるせえなと感じていた。いまでも、目の前の女性から『母親的なうざさ』を嗅ぎ取った瞬間は、一二の三で逃げたくなる。男は、愛より自由を選びたい時があるのだ。女の愛は、時に重い。愛に殺されそうになることがある。だから、私は(TPOによるけれど)愛から逃げる。好きな言葉は『長居は無用』である。なかなか家に帰ってこない旦那の心理は、多分、こんな感じなんだろうなと思う。
とかなんとか言いながら、ずっとひとりでいると「誰かといたい」などと思う。自分は勝手な人間だ。男友達に会いたい時もあれば「女性に癒されたい」などと思うこともある。昨日、私は、大阪でお世話になっている女性S様から豪華なしゃぶしゃぶとお寿司をご馳走になってしまった。別れ際、S様は言った。「私はあなたが好きだ。好きなひとに何かをしてあげたいと思うことは、自分にとって自然なことだ。だがしかし、今回、生まれて初めての感覚を覚えた。あなたに優しくしたいと思うように、自分にも優しくしてやりたいなと、生まれてはじめてそんなことを思った。ねえ、これっていい話だと思いませんか?」。と。私は、ああ、これはめちゃめちゃいい話じゃないかと思った。私は、男として「目の前にいる女性が、自分と会う前より、自分と会った後の方がいい表情をするようになった」ことを目撃できた時、俺はいい仕事をしたな的な気持ちになる。これは、決して自分はすごいと言いたい訳ではなく、なんだろう、女性を通じて『いい仕事をさせていただいた』的な謙虚な気持ちになる。この瞬間も、男は、女によって生かされているのであろう。そう思う時、私は、自分の心にいい感じの風が吹いていることを感じる。
When childhood dies, its corpses are called adults.
子供らしさが死んだとき、その死体を大人と呼ぶ。 - オールディス
やりたいことをやる、言いたいことを言う、会いたいひとに会う、これ以上に優先するべき事柄はあるだろうか。理想の日々は「今日も生きた」と思いながら毎晩眠りにつくことであり、死ぬ間際、「おれは生きた」と思いながら、遊び疲れた子供が眠りに落ちるように、自分の人生に静かに幕を降ろすことだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年4月13日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu