いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

永遠のクソガキでありたい。

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悩み相談が多すぎて嫌になってしまった。私なんぞに生き方を尋ねることが間違っている。金も家も仕事もない人間に、なぜ、金も家も仕事もある人々が悩み相談をするのだろう。不思議だ。もちろん、誰もが楽しそうにいい感じに生きてくれたら嬉しいとは思う。が、自分の生き方が参考になるとはとてもじゃないけれど思えないから「迷った時はビリーズブートキャンプをやってください。頭の問題を頭で突破するのは至難の技です。間違っても、高額セミナーに参加申し込みとかしないように!(そうするくらいだったらそのお金を僕にください)」程度しか言えない。

 

 

札幌のイベントに来てくれた男性が「参加者の方々の話を聞いて、なんだかいろいろなひとがいるのだなあと思えただけで元気になった」と話してくれた。素晴らしい感想だと思った。生きていると、自分以外のみんながまともに見えて自分だけがへっぽこに見えてしまう瞬間がある。が、それは違う。誰もがイカれた部分を抱えながら、それでも一生懸命生きているのだ。おかしいのはあなただけじゃない。みんなどこかしら狂っているのだ。だからきっと大丈夫。あなたはあなたのままでいい。と、そういう心理状態に置かれているときの私は健やかだ。

 

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味噌になりたい。 

味噌になりたい。味噌はすごいらしい。あらゆる菌を栄養に変えてしまう。存続の危機を迎えているごちゃまぜの家(我々が横浜でやっている『誰でも使える家』みたいなもの)だが、この家が味噌になればいいと思う。しかし、最近思う。私ひとりでは味噌にはなれない。私は好き嫌いが激しい。誰でも来てくださいとか言いながら「お前は来るな」とか平気で思ってしまう。これではいけない。これではごちゃまぜの家が罠になる。そこで私は考えた。自分ひとりで味噌になろうとするから無理があるのだ。自分の好きなひとを集めることで、はじめて「全体として味噌になることができる(いよいよ、真の意味で「誰が来てもおっけー!」と言える状態になる)」のだと思った。

 

好きなひとだけ集めるってどうなのよ!と思うもうひとりの自分がいる。が、一旦、そいつを黙らせることにした。自分が楽しそうに生きていることが、結果として「そこを訪れる人々にも良い感じアトモスフィアをお裾分けすることができるのだ」と信じることにした。読者の方々の中には「それじゃ全然ごちゃまぜじゃないじゃん!」というクリティカルな意見を抱かれた人々もいると思う。しかし、一旦、わかってほしい。もちろん、今後ともごちゃまぜの家の鍵は開け続けるし、誰が来てもいいという状態が変わることはない。合言葉は「We never close」のままであるし、常に門戸は開かれたままだ。

 

みんなに好かれるなんて無理だよという、手垢にまみれまくった言葉を今更のように実感している。そう、みんなに好かれるのは無理な話なのだ。なにをしても「あなたにはがっかりしました」的なことを言われる。私は弱者なので、そういう言葉にいちいち傷つく。そしてもう二度と立ち直れないほどのダメージを受けた際に、それでも尚、私を支えてくれたものは「好きな人たちの存在」だった。ひとりじゃなくてよかったと心から思う。ひとりだったらとっくの昔に自害をしていただろう。好きなひとたちで一旦囲うこと(囲うというのは、ごちゃまぜの家に住んでもらうとか、ごちゃまぜの家に定期的に足を運んでくれるように仕向けること)は、俺なりのサステナビリティになる。

 

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わたり文庫『カヌーで来た男』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、野田知佑著作『カヌーで来た男』です。私は学校の先生が大嫌いだったのですが、野田さんの言うことだったらめちゃめちゃ聞きまくる気がします。野田さんの写真を見ていると、紅の豚のポルコ・ロッソまんまじゃねーか!という気持ちになって眼福です。生き方も、見てくれまでもソックリで「ああ、こういうひとこそが『真の教育者』なんだな」と感銘を受けます。生き方で、魅了してこそ真の教育者である。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、京都府にわたりました ※※※

 

ー 夜と朝と、どちらをとりますか。

 

「朝。朝は四時から明るくなるとすると、七時くらいまでの三時間が、もっとも神聖で、素晴らしい。四時に目を覚ますでしょう。そして、いきなり、飛び込むのです。ドブーンと。そして、水の中で顔を洗う。口をゆすぐ。それで洗顔は終わり」(笑)

 

ー 時間がもったいないですからね

 

「楽しいことがいっぱい待っているから。やることは、多すぎるし。飯を食うひまも、惜しい。つくるひまも、惜しい」(笑)

 

ー 少年時代に夢見たすべてが、自分の目のまえにあるのです。

 

「子供のころ、顔を洗うの、いやだったでしょう。あれの延長ですね。ドブーンと飛びこんで、ひと筆で洗顔をすませてしまう」

 

ー 夢の世界ですね。

 

「少年の世界。夏休みの、それも宿題のない夏休みの世界。」

 

野田知佑『カヌーで来た男』【新潮文庫

 

ごちゃまぜの家日誌もよろしくお願いします。

 

gochamaze.hatenablog.com

 

あなたが楽しそうに生きていることを、よろこんでくれるひとと一緒にいなさい。

https://www.instagram.com/p/Bdyo9xPjQ9i/

 

最近は「おとなってなんだ?」と考える。多分2種類ある。ひとつは「こう言う場面ではこういう振る舞いをするのが正解で、こういう場面ではこういう発言をするのが正解」みたいな感じで、各種TPOをわきまえた行動ができる人間になること。もうひとつは「自分がやりたいと思うことを現実化する力を養うこと」だと思う。私は、正直に言うと前者を軽蔑している。後者の人間と友達になりたいと思う。これは、要するに『誰の期待に応えようとしているのか』だと思う。学校教育で優秀だったり、親の言うことを真に受けて育ったひとほど、他者から褒められたり承認されることに生きるエネルギーを費やす罠にはまる。私は、昔から、そういう人々を軽蔑していた(友達にはなれないと思っていた)。

 

 

最近は『責任』がマイブームになっている。たとえば、本を読んだり人と出会う中で『感動』をすることがある。私は、感動したひとにはある種の責任が宿ると考える。それは「自分が変わっていくこと」という責任だ。真の感動は人間を別人に変える力がある。だからこそ、なにかに感動したのならば「それを通じて自分が変わっていく」ことで応えなければ、その感動は嘘になる。責任という言葉は重く感じられるかもしれない。しかし、私は、責任こそが『自分の存在を自覚できる』最高のツールになると考える。誰かの責任にする(被害者面をして生きる)のではなく、最悪の場合は「死ぬことさえも引き受けた」人間に宿る清々しい魅力は、見ているものの心まで良い風を吹かせる。

 

 

本当は軽蔑も何もない。金持ちも貧乏人も関係ない。私は、多分、これまでもこれからも「一緒に遊べるひと」を探し続けるだけなのだと思う。友達をつくって、一緒に遊ぶ。そして最後に「ああ、楽しかったね」と笑顔で死ぬ。生きる目的なんてそれくらいだ。人生は意外とどうにかなる。最悪の場合は死ぬだけだ。これはもう、遅いか早いかの違いでしかない。なにが起きても大丈夫。極論、死んでしまっても大丈夫。最高の笑い声を響かせてやりたいじゃないか。思わず声が出てしまうようなよろこびに触れた瞬間は、置かれている状態はどうであれ、最高に幸せな瞬間なのだと思う。世界は、まだまだ、自分の知らないことにあふれている。まだ見たことのないよろこびに触れるために、まだ見たことのない自分自身に出会うために、変わり続けていきたいと思う。

 

 

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札幌の夕焼け。ヨーロッパにいるみたいだった。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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