人生の財産とはなんだろう。金も名誉も豪華な家や車も、もちろん財産になり得るのだと思う。自分の場合、最高の財産は「一緒にめちゃめちゃやれる友達の存在」だと思う。一人でいると、どうしたって深刻になったり真面目に考え過ぎる。そんな時、友達の存在は教えてくれる。どうしたんだい、けいご坊や。どんな状態でも笑えるってことを忘れるな。俺達は、まだ、めちゃめちゃやれる年頃なんだよ。
なにかひとつの扉が閉まる時、必ず、なにかひとつの扉が開く。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年9月10日
ひとつのなにかが終わる時、私達は往々にして「閉まってしまった扉」ばかりを意識する。それでもなお、開かれた扉を感じ取る意思を『希望』と呼ぶのだと思う。
誰もいないところに、神様はいる。 - いばや通信 https://t.co/MangWG0nJD
ごちゃまぜの家存続の危機も極まってきた。諸事情が爆発して、運営資金がゼロに(プライベートも含めたら真っ赤っかに)なったのだ。油断をしていると「終わったな」と腹を切りたくなるが、否、これははじまりの合図である。いよいよである。ゼロになってからが正念場なのだ。これからは、金策的な日々を過ごすことになるのだろう。おそらく、近日中に労働を(5年ぶり位に!)再開することにもなる。時給というシステムは地獄だと思って怯え続けていたけれど、事情が事情である。のっぴきならないという古風な言語が、脳内をリフレインをしている。
諦めたら家でお昼寝だよ。
ごちゃまぜの家のコンセプトとか、理想とするあり方を説明することは難しい。いままでにないことをやりたいんだという思いからはじめたが、誰でも無料で使える家、誰でも無料で泊まれる家、誰でも無料でメシが食える場所である的な説明をすると「無料のゲストハウスってことですね」みたいな認識をされる。ちょっと違うのだけれど、しかし、なにが違うのかを説明できない。結果、誰も、ごちゃまぜの家がなんなのかを知らない。
金がないなら利用料を取ればいいじゃないかと言われる。レンタルスペースとして1日数千円で貸し出したり、民宿みたいにお金をとったり、ファンクラブみたいなコミュニティを作って会費を取ればいいじゃないか。と。しかし、どれもピンとこないからやらなかった。ごちゃまぜの家は「存在していることに価値がある」と思って存続を続けてきた。いままではそれでよかった。が、いよいよ運営資金が尽きた。存在しているだけではいいとは、なかなか言い切れないビターな状態に置かれている。さて、どうするのか。お前はどう生きるのか、が、問われているのだと思う。
今後の動きについてツイキャス配信で説明を試みた。結果的に抽象的な話に終始したが、少しでもごちゃまぜの家のあり方を把握してもらえたら嬉しい。私は、一泊いくらとか値段を決めて誰かに泊まってもらいたいとは思わない。あるひとは「一泊2000円とかとればいいじゃん」と言う。しかし、値段をつけると値段が全部になるみたいだから嫌だ。先日、ごちゃまぜの家に泊まった男性が「お世話になりました」という置き手紙と一緒に、二千円をテーブルの上に置いて帰った。同じ二千円でも、宿泊費が二千円と決まっているから払われた二千円と、宿泊費は無料であるにも関わらず「なんだかめっちゃよかったから二千円を置いて帰りたい!」と思って差し出された二千円では、金額は同じでも込められた意味はまったく異なる。形式によるものではなく「自発的にそうしたくなった」という、湧き上がる純粋な気持ち(通称・あふれちゃん)を大事にしたいのだと思う。
コミュニケーションがすべてである。
WEBサービスを活用すればいいじゃないかとも言われる。ファンクラブサイトみたいなものがある。有志が、月額、自分が払いたい金額を払ってサポートをするシステムだ。便利だな、とは思う。必要事項を入力して、払いたい金額を打ち込み、送金ボタンを押せば、わざわざごちゃまぜの家に足を運ばないでも(自分がいまいる場所から)活動をサポートできる。便利なシステムだとは思う。が、しかし、私は「なにか一番肝心な部分を、人間がやるべき部分を、機械が代わりにやってしまっているのではないか」的な気持ちを拭い去ることができない。では、一番肝心な部分とはなにか。それはコミュニケーションだと思う。
家がない生活をしていたとき、周囲から「無料で泊まれるカウチサーフィンとか、住み込みで働けるWWOOFのサービス(いわゆるマッチングサイト)を使えばいいじゃないか」と散々に言われた。しかし、私は嫌だった。需要と供給が一致をするから、とか、利害関係が一致をするから、という理由で取引を行うことに抵抗があった。繰り返しになるが、世の中が便利になるほどに「本来であれば人間が面と向かい合ってやるべき部分まで、機械が代わりにやるようになってしまっている」と感じることは頻繁にある。要するに、私は、コミュニケーションをとりたいのだと思う。利害が一致をするから一緒にいるのではなく、コミュニケーションをとることで(利害を超えたところで)一緒にいることができる、という、そういう関係性を求めているのだと思う。
そう思って活動を続けてきたのだが案の定資金は尽きた。想定の範囲内と言えば、想定の範囲内でもある。これは時間の問題である。無料でなにかを連日振る舞い続けていれば、やればやるほど赤字になる。当然のことだ。そこでどう動くか。それが問われている。まずは身近な方々に土下座をしてまわりたいと思う。「なにかしらのかたちでごちゃまぜの家に関わってもらえたらうれしい」とか「いままでよりも近い距離で、あなたと付き合っていきたい」みたいなことを言いながら頭をさげるのだと思う。運営資金は尽きた。しかし、ごちゃまぜの家を終わらせるつもりはまったくない。合言葉は『Remember JOE(新島襄を思い出せ)』である。誠心誠意があれば道は開ける。要するに、純度が問われているのだと思う。
わたり文庫『ちいろば先生物語』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、三浦綾子著作『ちいろば先生物語』です。近年稀に見る半端ない名著です。実在する牧師の尋常ならざる生涯を綴り尽くしたこの一冊。読めば確実に希望と勇気を感じ取ることになるでしょう。小生、この本を読み、生きうる限り生きて自分の最善を尽くして死にたいのだと、思いを新たにいたしました。奇跡は起こり得るのでございます。自分が置かれている苦境なんてちっぽけなものだと、生きる力をいただきました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※
神に従うとは、自我を捨てることや。
ごちゃまぜの家日誌もよろしくお願いします。
ひとりになるな。ひとりになったら死ぬ。
税務申告のミスと言えばいいのだろうか、いろいろあって現在の私は(無収入の身でありながら)毎月の保険料を6万円くらい払わなければいけない状態にある。健康保険を停止することも考える。最近、寒暖差の影響なのか体調不良でのどが痛い。カラダが弱ると弱気になる。自分のような人間は、体力がなければ生きていけない。カラダは資本だとガチで思う。健康を失ったら即刻退場である。同時に、精神面のケアも必要だ。何事も自分ひとりで背負いこまないこと。新潟生まれの我々には「ひとりになるな。ひとりになったら死ぬ」という危機感(というか弱さ)が人一倍ある。
状況だけみたら結構悲惨なのだが、同時に、この状態を楽しめている自分も感じる。「また、はじまったな」と思っているこの感覚。過去に家のない生活を2年間続けた。あのときの感覚と少しだけ似ている。苦境は好機だ。渦中にいるときは結構しんどいが、振り返って見ると「あのときの苦境が、自分の、人間としての器を大きくしてくれた」ことは頻繁にある。大事なことは希望とユーモア(あとは感謝)を見失わないことだ。どのような状態に置かれても、心は自由に遊ばせること。そして「どんな未来になったら嬉しいかな??」と、無邪気に空想を膨らませる余白を、胸に抱き続けること。
腹をくくったからかなんなのか、体調も悪いしカネもないけどこころは晴れ晴れとしている。なるようになる。否、人生はなるようにしかならないのだから、すべては神にお委ねをして、迷わず、恐れず、自分なりの最善を尽くすばかりである。では、最善とはなにか。私はクリスチャンでもなんでもないけれど、それは『神の愛を伝える』と言う言葉で表現をするときにしっくり来る。俺の愛ではない。俺の成功でもなければ、俺の功績でもない。自分を通じて神の愛を伝える(神の愛を伝える道具になる)ことである。みたいなことを書くと「坂爪圭吾の言うことは宗教じみていてキモい」などと批判も受けるが、もう、どれだけ笑われても平気である。自分には信じているものがあるのだから。あとはもう、それを貫くばかりである。
強さとはなんだろう。一人で生きる強さもあれば、誰かに助けを求める強さ、自分の弱さを認める強さ、さみしいときにはさみしいと言う強さもあるように思う。一人ですべてをなんとかしようとする強さは、多分、強さじゃない。それはただ、臆病なだけ。強さとは、自分を、他人を「信頼する力」だと思う。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年1月25日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu