いばや通信

ibaya.ex《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

生きれるだけ生きたら、野垂れ死にます。

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諸事情が爆発して、静かに人生が終わろうとしている。クラウドファンディングで500万円弱を調達したのが去年の4月。ごちゃまぜの家が誕生をする。税理士の方から「税金の申告をしないとやばいですよ」と声をかけてもらったのが今年の2月。税理士の方々の協力のもと、(最大の苦手分野である)税金を支払う。と、国的なものから「なんだお前、収入があるじゃないか」ということとなり、怒涛の税金ラッシュが押し寄せているのがここ最近。金額が半端ではなく、いよいよ、首がまわらなくなった。

 

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追い込まれるほどピュアになる。

いま、熱海と横浜に家はある。横浜の家【ごちゃまぜの家】は守る。熱海の家【逢初庵】を、多分、9月以降を目処に手放すことになる。どのような形になるのかはわからない。熱海の家は、家なし生活を2年間続けた後、ブログ読者の方に購買をしていただいた(半端なく思い入れのある)家だ。それ以降、この家を自分のためだけに使うのも違うと思い、利用希望者の方々に無償で開放をしてきた。逢初庵も終わるのか、と思うと複雑な気持ちにもなるが、形は消えても記憶は残る。残り一ヶ月ちょっと、熱海の家を拠点に最後の生活を送りたいと思う。やらないといけない雑務は、山のようにある。

 

山のようにあるはずなのに、ここ数日、炎天下の中を歩きまくっている。一日3万歩は歩いている。歩くほどに透明になる。人間、不思議なもので、追い込まれれば追い込まれるほどピュアになる。道端の草花に感動をしたり、吹く風の心地良さに生きている喜びを覚えたりする。まったく金がないくせに、手元にある金を誰かのために使ってみたりする。歩きながらカーペンターズのI NEED TO BE IN LOVEを聞いた。カレン・カーペンターは拒食症で亡くなった。晩年のカレンの身体は悲しくなるほどにガリガリで、しかし、身体が痩せ細るほどにカレンの声は(切なくなるほどに)透明度を増した。あの身体では、声を出すこともつらかったはずだ。それなのに、カレンの声は、自分の命と引き換えにするかのように、深い透明度を帯びていった。カレンの声が胸に沁みた。

 

空海道元親鸞良寛や般若心経に、ここ最近、立て続けに触れた。キリスト教と仏教には、大きな違いがあると思った。キリスト教は「神様はいる。神様はあなたを見守っている」的なことを言う。仏教は「仏はいる。あなたも仏になれる」的なことを言う。神様は『ある』もので、仏様は『なる』ものなのかもしれない。クリスチャンは、決して「俺も修行をすればキリストになれる!」なんてことを言わない。が、仏教では「あなたも頑張れば仏様になれますよ」と言う。私は良寛が好きで、良寛の生き方に触れていると安らぎを覚える。良寛は、見る人が見ればただの世捨て人にすぎない。五合庵という名前の草庵に暮らし、自然を愛し、こどもを愛し、托鉢をしながら詩歌を詠んだ。そういう生き方に憧れている部分もあるために、窮地の際は「托鉢をすればいい」「ソーシャル乞食になればいい」「テントを持って暮らせばいい」などと思っている自分がいる。いま、まさに、それにふさわしいタイミングが訪れているのかもしれない。

 

真の言葉には安らぎがある。

仏教などでは「一切は空である」と言う。全然詳しくはないのだけれど、多分、自分がからっぽになるほど「からっぽになった部分に神様がやってくる」ということなのだと思う。私は思う。財を成せば現世的な利益を得ることができるし、財を成せなくても(自分はからっぽのままだとしても)宗教的な利益を得ることはできる。結局、どちらに転んでもOK。何かしらの恩恵に触れることはできる。そう思えば、気楽なものだ。33年間生きて来て、いい家に住むとか、いい車に乗るとか、うまい飯を食うとか、有名になるとか、財を成すとか、そういうことに自分は興味がないのだということはわかった。問題は「では、真の関心は何処にあるのか?」ということだ。私は、さて、何を求めているのだろうか。

 

表面的にはカネの問題に見えることでも、私は「カネが欲しい」とはあまり思っていない気がする。確かにカネがあれば諸々の不幸を避けることはできるかもしれない。が、なにか、本質的な問題は手付かずのまま残っているという不完全燃焼感を覚える。我武者羅に金を求める人生を悪いとは思わない。が、私の場合、それだけでは「虚無っちゃう」瞬間が必ず来る。カネのためだけに生きる人生は虚しく、生活のためだけに生きる人生は虚しい。では、私は、なにのために生きれば虚しさを覚えることなく生きることができるのだろうか。これまでの人生、多分、ずっとこういうことばかりを考え続けて生きて来た。答えはない。あるのは問いばかりだ。我々は、死なないために生きている訳ではないと思う。死なないことよりも大事なこと、それは「生きたいと思うこと」だと思っている。生きたいと思う気持ちのないまま、ただ、生きているだけならそれは拷問のようなものだと思う。生きるためには希望が必要だ。問題は、その希望を何処に見るかだと思う。

 

自分のような生き方が通用するとは思わない。説教を受けても仕方がないと思うし、「能書きを垂れてないで働け(みんなそうやって生きているんだ)」と言われたら、返す言葉もない。では、ちゃんと生きるとはどういうことだろうか。人間社会を生きる以上、決められた約束事には従う必要がある。が、その約束事が「人間を幸せにするもの」なのか「人間を不幸にするものなのか」が、自分にはよくわからない。誤解を恐れずに言えば、約束事に従うことで幸せそうに生きている人よりも、約束事に従うことで苦しそうに生きている人の方が多い印象を受ける。私は根本的にひねくれているので、約束事に従うことよりも「みんなが幸せになる方向で」約束事を更新する方が、重要だと考える。真の言葉には安らぎがある。私は、自分のこころが安らぎを覚える言葉を頼りに、これまでの日々を生きてきた。正論とされる言葉は、どれだけ正しくても「冷たさ」を帯びている場合が多い。これができる人間は生きていてもいいが、これができない人間は生きている資格も値打ちもないと、人間を断罪する冷酷さを覚える。正論に従えば、生きていくことはできる。が、生きていきたいと思う熱量【希望】を維持することが、難しくなる。反面、真の言葉には安らぎがある。温度があり、慈しみがある。それに触れた人間を「生きていきたい」と思わせる。私は、その力によってここまで生きてこれたのだと思う。

 

わたり文庫『小さな一歩から』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、三浦綾子著作『小さな一歩から』です。三浦綾子さんの文章に触れていると、こころが安らぐと言いますか、読書の素晴らしさはこういう瞬間の中にあるんだよなあという感覚になって「神様、ありがとう!」と思います。本を通じて、人間と会話をできている感覚を覚えます。小生、えらく感銘を受けた部分がありましたので、長くなりますが全文を引用させていただきます。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

 

アウシュビッツ収容所で、一人の囚人の代わりに、自らの命を捧げて死んだコルベ神父の名を知らぬものは、まずないであろう。

 

洞爺丸台風と呼ばれる台風が、1954年北海道を襲った時、二人の宣教師が、見も知らぬ日本の若い男女のために救命袋を譲って、嵐の海に命を果てた。これは私の小説「氷点」の中にも書かれている実話である。

 

また1912年、北海道塩狩峠において、長野政雄は突如暴走した客車の乗客を救うために、線路に身を投じて尊い命を散らした。これも、私の小説「塩狩峠」に詳しく書かれている。

 

この三つの事件は、すべてキリスト者の犠牲の死を伝えるものである。これらの話を聞いて、感動しない者はいない。しかし、深く心を打たれながらも、

 

「とてもわたしには真似ができない。自分たちとは別な世界に住む人だからできたことだ」

 

という言葉をしばし聞く。ある時、この言葉について私は姉と話し合ったことがあった。姉は言った。

 

「わたしも真似はできない」と。

 

むろん、私も同じことを思った。が、その時、姉はまた言った。

 

「わたしたちは、なかなか命は捧げられないけれど、小さなものなら、捧げられるのではないかしら」

 

なるほどと私は思った。小さな犠牲なら、私たちも捧げられるかも知れない。例えば、自分の庭に咲く一番美しいバラを、病んでいる人のために切って捧げることはできないか。

 

そう思った時、捧げようと思えば、もっともっと捧げ得ることに私は気づいた。つまり、どんなに忙しくても、一日に十分の時間を誰かに割くことはできないかと思ったのだ。電話でもいい、葉書でもいい、その人のために祈るだけでもいい。要は小さな一歩から始め得るのではなかろうか、と。

 

三浦綾子『小さな一歩から』【講談社文庫】 

 

自伝風物語もよろしくお願いします。

 

note.mu

 

生きれるだけ生きたら、野垂れ死にます。

話し相手がいることのありがたみを思う。ごちゃまぜの家には、よしえさんという女性が暮らしている。よしえさんは孤児院のような施設で働いている。孤児と聞くと、多くの人々は「社会的に悲惨な状態のこどもたち」というイメージを抱くと思う。が、彼らも我々と同じ人間で、いい感じの対応をされたらうれしくなるし、いやな感じの対応をされたら悲しくなる。だから、とよしえさんは話す。「私は、こどもたちをかわいそうだとは思わない。ただ、かわいいなあって思う。毎日、こどもたちに会えるのがうれしいから仕事にいく。本当に、ただ、それだけです」と話す。かわいそうな人間はいない。あるのは「かわいそうな人間を生み出す考え方」だけだ。そういうことを、私たちは話した。そのあとに思った。世間の常識とやらに、負けちゃいけないのだと思った。

 

どんな状況でも笑えるってことが大事なのだと思う。社会的には悲惨なこどもたちも、楽しいときは笑うし、うれしいときは笑うことができる。家のあるなしも、金のあるなしも、仕事のあるなしも、家族のあるなしも関係ない。私は、そういうことを証明してやりたいのだと思う。なにもなくても幸せになれる。幸せになるために、誰の許可も要らない。誰の評価も要らない。誰の承認も要らない。いま、この瞬間に、誰もが幸せになれる素質を持っているということを、生き様を通じて証明してやりたいのだと思う。世の中で決められている約束事が、自分には、ひとに優しいものだとは思えない瞬間がたくさんある。従いたくないものには従えない。それよりも「こっちの方がいいでしょ!」と、新しい在り方を提示してやりたいのだと思う。世間的な常識に、誰かが決めた価値観に、負けちゃいけないのだと思う。自分を殺してしまってはいけないのだと思う。

 

なにが起きても大丈夫。不思議と、自分の一番奥の部分は、そんな風にささやいている感覚を覚える。なにが起きても大丈夫。だから、安心をしてね。いままでどうにかなってきたように、これからもどうにかなっていくのだから。焦らないで、恐れないで、自分を閉じてしまわないで、勇敢に、前を向いて歩いていきなさい。あなたがあなたの命を生きるほど、あなたのまわりのひとたちも、自分のなかにある勇気や希望を取り戻していくのです。あなたの心のなかには、誰にも奪うことのできないたくさんの豊さがあります。草花に感動をする思いや、吹く風の心地よさに生きている喜びを感じる感覚を、自然を愛する気持ちを、こどもを愛する気持ちを、なくしてしまわないように。それがあれば、大丈夫。命はあなたと共にある。あなたは守られている。だから、安心をして生きていきなさい。命は、いま、この瞬間もそんな風にささやいている。

 

 

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しゃぼん玉飛んだ。。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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