いばや通信

ibaya.ex《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

俺を愛して欲しいとは思わない。ただ、世界を愛して欲しいとは思う。

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ハワイから大阪を経由して横浜に戻る。この世にタブーとされているものはいくつかある。死の話題。性の話題。金の話題。政治の話題。宗教の話題。などなど。ただ、様々な人々と話す機会を通じて「最大のタブーは家族なんじゃないか」と思うようになった。悩みの根源を遡ると、家族関係に行き着くことは多い。父親の影響。母親の影響。たとえば、私の母親は働き者だけど怠け者で、よく笑う女性だ。だからなのだろうか、私は「働き者だけど怠け者で、よく笑う女性」を好きになる傾向があるように思う。

 

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ある人は話す。小さな頃、母親から「役に立たない子はいらない」と言われた。だから、役に立たない限り自分には存在価値はない(生きているだけではダメなんだ)と思ってしまう。自分は奉仕精神がある人間だと思っていたけど、それは「自分の中にある無価値観を消したい」という思いに支えられているのかもしれない。またある人は言う。父親がすぐに怒る人間だったので、家庭では「怒られないこと」が最優先事項だった。だから、人間関係は基本的に『恐怖』からはじまる。相手を怒らせないこと。相手に不快な感情を与えないことが生き癖みたいに染み付いていて、自分の気持ちを表現することはタブーだった。だから、いまでも「自分の本音がわからない」と感じることは多い。と。

 

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幸せな家庭のイメージは「シチューのCM」みたいなものなのか。 

現在、私はごちゃまぜの家という「誰でも無料で泊まれる家」的な活動をしている。過去、家なし生活を二年ほど続けたなかで、私は「家族とはなにか?」とか「家とはなにか?」という問いを抱きはじめた。家という言葉や、家族という言葉には、どちらにも共通して「安心感を与えてくれるもの」という雰囲気がある。が、蓋を開けてみるとビックリ、これさえあれば安心感を得られると信じていたのに、実際にやってみたら、思いのほか安らぎを感じることができなくて戸惑っていると話す人たちと、少なからず出会った。

 

家庭という言葉には「シチューのCMのあの感じ」的な雰囲気がある。が、家庭とは、平気でやばいことが行われている密室でもあると思う。家族仲がよければ問題はないが、家族仲が極悪な空間は地獄だ。家族間の距離感は近い。密室で、かつ、あの距離感では「平気でやばいことが行われてい」たとしても、周囲の人間は容易に気づけない。不思議と、家庭の話が外部で話されることは少ない。当たり前だけど、誰もが、家族といっても「自分の家族」しか知らない。だから、それが(どれだけ異様なものだとしても)自分にとっての『普通』になる。私は、家なしの日々のなかで「人様の家にお世話になる日々」を過ごした。これは、どこか、潜入捜査的な日々でもあった。俺は、ひとりで家族旅行をしているみたいだと思っていた。この日々は非常に興味深いものだった。様々な方々と出会うことで、私は、家族の誰かを憎んでいる【家族が、愛情の対象ではなく報復の対象になっている】方々が少なからずいることに、結構な衝撃を受けた。

 

一番強く思ったことは「現在の家族は、風通しが悪い!」ということだった。風通しの悪さ。これは、きっと、家族以外にも言えることだと思う。だから私はごちゃまぜの家をはじめた。様々な人間が交錯するなかで、自分にとっての普通が、あれ、実はあんまり普通じゃなかったのかなと思える空間。それによって、自分のなかの普通が拡張をして、いろいろな形があるのだなあとある種の自由【風】を感じることができる空間。そんな空間になればいいと思ってはじめたごちゃまぜの家で、現在、お試し家族的な営みを始めることにした。数日間とか、一週間とか、決められた期間の範囲内で「一緒に暮らしてみる」「一緒に家族をしてみる」「期間限定の家族になってみる」というような試みだ。ツイキャスを通じてささやかな告知をしたら、早速、女性から参加希望の連絡をいただいた。昨日は、ごちゃまぜの家関係者と共に、みんなで居間に布団を並べて寝た。

 

家庭で見出した役割を、家庭の外でも継続する。

家族は興味深い場だ。私は三人兄弟の末っ子として生まれた。不思議なことに、兄弟が三人いると、同じ両親に育てられたはずなのに全然性格が違う。性格が違うというか、家庭内で背負う役割のようなものが異なる。私は、言うなれば『道化役』を担って育った。ある種のバカを演じることで、深刻になりそうな空気に風穴をあけるような役割。自分が道化を演じることで、家族のバランスを取ろうとしていたのだと思う。この「バランスを取るためにやったこと」はひとによって異なり、あるひとは仲裁役になる役割を担ったり、あるひとは「病気になる」とか「不良になる」とか「圧倒的な優等生になる」ことで、家族間のバランスを(無意識のうちに)取ろうとしたりするのだと思う。

 

もうひとつの家族ということを考える。私の知り合いにTさんという40代の女性がいる。Tさんにこどもはいないが、Tさんの妹は結婚をしていてこどももいる。隣近所に住んでいるために、妹のこども(10歳の女の子・Mちゃん)は頻繁にTさんの家に遊びに来る。Tさんと二人きりで遊びに出かけたり、母親と喧嘩をしたときなど、家を逃げ出してTさんの家で延々とコナンを見ていたりもする。Tさんも、Mちゃんを最高に愛している。私は、この関係性を見て「すごいいいな」と思った。まるで、Mちゃんには「母親がふたりいる」「逃げる場所がある」「もうひとつの家族がある」ように感じた。Tさんにとっても、こどもを育てるという疑似体験(?)ができる。私が小さな頃、家の居心地が悪いときに、逃げる先なんてなかった。だから私は海に行った。家族がひとつ限りだと「全か無か」ということになる。が、複数個の家族があれば、グラデーションが生まれる。

 

私は、性格的に「人類みな兄弟!ハロー!ハロー!」という感じではない。来る人来る人をあたたかく出迎えることができたら最高なのだろうけれど、あるひとには優しくできても、あるひとには優しくできないということがざらにある。ムラがあるのだ。なぜ、こんな自分がごちゃまぜの家などをやっているのだろうかと頻繁に思う。が、やはり、家族とか家というものに対する興味があるからなのだと思う。それは、言い換えるならば「なにが安心感をもたらすのか」ということなのだと思う。だからこそ、この場を通じて「足を運ぶ人々と一緒に試行錯誤しながら、新しい形を模索していきたい」と思っているのだろう。私は、まだ、答えをもっていない。あるのは問いばかりだ。私はしばらくごちゃまぜの家界隈にいる。お試し家族の実験は続く。引き続き参加希望者を募集するので、なにかあったらご連絡ください。家族とはなんだろう。結婚とはなんだろう。制度とはなんだろう。わからないことばかりだ。が、これからの日々の中で、ごちゃまぜの家を通じて『もうひとつの家族』を模索していけたらと思っている。

 

わたり文庫『人間の永遠の探求』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、ハラマハンサ・ヨガナンダ著作『人間の永遠の探求』です。こちらの本は、岡山県在住の女性から「わたり文庫に是非!」と郵送をしていただいた一冊になります。みなさまは『あるヨガの自叙伝』という、半端ない本をご存知でしょうか。ヨガ界隈の方々にはあまりにも有名なそちらの本の、続編(?)と言いますかその著者の講和集になります。猛烈に重厚ではありますが、猛烈に濃厚な一冊だと思います。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、長野県にわたりました ※※※

 

人生の目的は、真の自己を見つけることです。真の自己を自覚しなさい。あなたの心の奥に、宇宙に遍満する神の大海原の鼓動を感じなさい。自分がその大海原に漂いながら、広大な力強い神のみ胸に抱かれて揺すられていると想像しなさい。それから岸に向かって泳いで行くときもなお海全体を感じ、浜に上がって歩いて行くときも背後に海のうねりを感じなさい。私はそんなふうに神を感じています。神はご自分の子供たちを一瞬たりとも放ってはおかれません。あなたのどんな問いにもすべて答えてくださいます。そしてそのとき、あなたの一切の恐怖や不安は消えるでしょう。ー ハラマハンサ・ヨガナンダ『人間の永遠の探求』【Self-Realization Fellowship】

 

自伝風物語もよろしくお願いします!

 

 

 

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俺を愛して欲しいとは思わない。ただ、世界を愛して欲しいとは思う。

身の上話を聞いたり、悩み相談のようなものを受けていると「え、こんな人が!」と驚くことが頻繁にある。誰が見ても幸せそうに生きている風に見える人も、実は、誰にも言えないとんでもない問題を抱えていたりする。ひとは見かけによらない。自分も、自分なりの生きづらさを抱えていると思っていたけれど「いろいろな人がいるんだなあ」と思うと、自分の悩みなんてちっぽけなものに思えて来る。自分の悩みが相対化されるというのだろうか、ああ、自分は結構まとも(というかマシ)な方なんだなと思ったりする。

 

悩みを話すひとは「どう生きるべきか」ということを、絶えず頭で考えている印象を受ける。が、私は、頭の問題を頭で突破することは難しいんじゃないのかなとか思ったりする。悩み相談に答える(頭に頭で応える)より、なんだか、気持ちを込めて抱き締めた方が色々解決するんじゃないのかなとか思ったりするのだけれど、そこは理性が働く領域であるためになかなか実行できることは少ない。この国は深刻なハグ不足であると感じることは多いが、やり方を間違えるとセクハラになるので慎重になる。そしてもう一点。自分の中で決めたルールのひとつに、誰かを救おうとしないことというものがある。それよりも「自分がやりたいと思うことを楽しみながらやっていたら、結果的に問題が解決していた」という状態を愛している。ごちゃまぜの家も同じだ。もっといろいろなことをごちゃまぜにした方が、単純に「自分が楽しめる出来事が増えそう」という思いから、こうした活動をはじめている。自分のためにやっていることが、結果的に誰かのためにもなった(家族の問題をほぐしていた)のであれば、それを最高だと思う。

 

先日、ある女性に告白をされた(なんて書き方は淡白に響いてしまうかもだけど、詳細は割愛する)。非常にうれしかったし、非常にありがたいと思ったのだけれど、同時に「ああ、俺の中には『愛されたい』という思いはあまりないみたいだ」ということを思った。俺は、俺を愛して欲しいとは思わない。ただ、目の前にいるひとが『誰かを愛することを通じて、世界全体を愛するようになって欲しい』とは思っている。そのきっかけとして、自分が存在できているのならば、それは最高だなと思った。俺を愛して欲しいとは思わない。ただ、世界を愛して欲しいとは思う。愛は、人間を自由にする。真理も同じだ。真理は人間を自由にする。縛るなら、固定されるなら、見返りを求めるならば、空白を埋めるためのものならば、それは愛ではないように思う。願わくば、家族というものが、ひとを愛するということが、自分が生きているということが、周囲の人間を『より自由にする』ものとして、いい感じの働きを生むようになればいいと思う。

 

 

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#hawaii #BillyGyallow #lifeisgood

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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