ハワイ島に着く。四日目。各島々によって空気感が異なる。ハワイ島は「帰ってきた感」が強い。同行者のY様も同じ感想を抱いた。自分は霊的感覚に鈍いタイプの人間だけれど、それでも「ここは(土地の力が)強い」と思う。最近はまっている芸人ふーみんさん風に言えば、みぞおちの穴に指突っ込んで、チャクラをガタガタ言わされている感覚になる。強制的に胸を開かされるというか、内側にあるどろどろとしたやつを全部見せてみろよと、島全体から言われているような感覚になる。
キラウエア火山の大噴火により、靄がかかっている。前回足を運んだ際、ハワイ島南部にあるウォームポンドという温泉に偏執狂的にはまった。だが、悲しいことに、溶岩がウォームポンドを跡形もなく流し去ってしまった。もう、あの場所は伝説の場所になってしまった。大事なものがいつまでもそこにあるとは限らない。だからこそ、行きたい場所ややりたいことや会いたい誰かがいるのなら、いま、実行をした方がいいのだと思う。形は消えるが、記憶は残る。ウォームポンドは消滅したが、ウォームポンドに足を運んだ記憶は残る。愛は時間だ。大切なものは、大切にした時間だけ大切になる。
自分がいる場所を天国にする。
ホテルにいると「ホテルにいるなあ」と思う。が、ホテルの外にいると「ハワイ島にいるなあ」と思う。土地のエネルギーをリアルに感じたければ、できるだけ屋外にいなければ動き出さない気がする。どれだけ素晴らしい環境に囲まれていても、(たとえそれが駐車場の一角だとしても)屋外でちょこんと体育座りをしている時間には勝てない。壁が、自然を切り離してしまう。屋根が、空を遮ってしまう。部屋のなかにいると、極端な話、恋人とゴム手袋をしながら手を繋いでいるような感覚になる(ことがある)。
ハワイ島に来るのは今回が3回目。改めて「この場所は最高だ」と思う。できることならば死ぬまでに全人類に一度はハワイ島に行ってみてほしいと思う。こんなに好きならばハワイ島に住めばいいじゃないかと自分にツッコミをいれたくなるけれど、違う。私は、ハワイ島の空気感を日本で実現したいのだと思う。この空気感を日本に輸入したいのだと思う。ハワイに住みたいのではなく、ハワイの空気感を日本でも実現したいのだと思う。だから、生きることに疲れたときはまたハワイ島に足を運び、チャージをして日本に戻る。どこの国にいても思う。私のホームは日本であり、多分、私はどうしようもなく日本人なのだと思う。
ハワイ島の空気感は最高だが、どこか既視感を覚えた。ふと考えたら「あ、これは熱海の空気感と同じだ」と思った。現在、私は熱海駅から徒歩20分程度の場所にある古民家を自由に使わせてもらっている。熱海駅を降りた瞬間に「あ、」となる。空気の違いを感じる。そして伊豆山を登り家に着く頃には、ああ、帰って来たという気持ちになる。玄関前の椅子に座りながら、日光浴をしたり読書をしていると「他にはなにもいらねえ」と思えるほどの充足感を得る。この感覚は、ハワイ島で感じた空気感と似ている。懐かしさと開放感、安心感、帰って来たという感じがブレンドをされた空気感だ。
あなたの人生にいっぱいいいことがこれからも起こりますように。満点の星のように、朝の光のように、きれいな滝の水みたいにどんどんふりそそぎますように。
これは、よしもとばななの小説「サウスポイント」にある言葉だ。サウスポイントはハワイ島にあるアメリカ最南端の岬になる。愛は見返りを求めない。自分が幸せなとき、幸せの余剰として(まるでお裾分けをするような感覚で)誰かの幸せを自然な形で願うことができる。愛は絞り出すものではない。あふれ出るものだ。愛することの喜び、愛するひとと出会えたことの喜びのひとつに「こんな気持ちにさせてくれてありがとう」と思える、というものがある。あなたと出会えたことで、自分の内側から湧き上がる泉の存在を知った。自分にも、こんな気持ちになれたことが何よりも嬉しいのだ。ということを、愛すること(愛するものの存在)によって認識する。
never stop exploring... #hawaii #bigisland #BillyGyallow #thenorthface #lifeisgood
自伝風物語もよろしくお願いします。
横を見るな。縦を見ろ。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年7月8日
横(人間関係)だけにつながりを求めると辛くなる。比較して疲弊したり、無理解を嘆いたりする。縦(天と地)のつながりが大事なのだと思う。
生きることを諦めないために。
ホームをレスした話(14)|坂爪圭吾 @KeigoSakatsume|note(ノート) https://t.co/XRfGicoAoE
ずっとこのシリーズを読み続けていますが、(14)は自分の中に入ってくる感じ、そう、そうよね!という感じがしました。縦の繋がりを忘れたときに辛くなる。 https://t.co/zOXNaHEFTF
— いく (@pikake0102) 2018年7月8日
"私は、権威に服従をしたいのではなく真理に服従したいと思っていた。"
— Chaco (@chaco0528) 2018年7月8日
最高にロックンロールだ。
そして、「横ではなく縦の繋がりを意識する」
まさにキリスト教徒的思想だ。
相反するようでいて、根底は同じ。
坂爪さんの生き様、言葉に心が揺さぶられる理由が、ほんの少しわかった気がする。 https://t.co/k6EgwG2XwT
命は生きたがっている。
ハワイ島では色々なことを思った。良いとか悪いとか言う時、その基準は何処にあるのか。ただの社会通念に過ぎないのだろうか、それとも普遍的なものなのだろうか。永遠に変わらないものなどあるのだろうか。わからない。ただ、永遠にこのままであって欲しいと願う瞬間はある。何が本当なのだろうか。わからない。ただ、これは本物だと思った瞬間ならある。愛も然り。何が愛かを私は知らない。ただ、この瞬間は「確かになにかを愛していた」と思った記憶ならば、誰のなかにもあるのだと思う。あらゆるものは流れている。現実を固定することはできない。世界は、どこまでも流動的なものだ。
夜。星を見上げる。とんでもない数の星が輝いている。俺たちは、いま、この瞬間も「とんでもない惑星の上」に暮らしているのだなと思う。日常的に、そのことを意識することは少ない。我々は、バックミンスターフラーが言うところの『宇宙船地球号』の乗組員であることを意識することは少ない。宇宙を漂っている惑星の上で、公転と自転を繰り返している惑星の上で、何気ない顔をして暮らしていることの「とんでもなさ」を自覚することは少ない。科学技術の発達で、我々はいろいろなことをわかったつもりになって生きている。が、夜の星空を見上げただけでも、神秘を前に言葉を失う。我々は、わかっていることを前提に生きているけれど、本当は「わからないことだらけの世界」を生きているのだな、これは奇跡を生きているのと同じだな、などと思わされる。
生まれたくて生まれた人間はいない。誰もが、気がついた瞬間には「生まれてしまっていた」のだと思う。死にたいと思うことがある。生まれてこなければよかったと思うことがある。でも、どれだけ死にたいと思っていても、それと同じくらい、否、それ以上に「生きていたい」と強く思う自分がいる。私たちは、自分が生きていると思っている。しかし、本当は「命が自分を生きている」のだと思う。死にたいと思うのは頭の働きだ。生きたいと思うのは命の働きだ。だからこそ、どのような状態に置かれても「生きたい」と思う気持ちを捨て去ることができないのだと思う。命は生きたがっている。自分が生きているのではなく、命が、自分を生きているのだと思う。人間の役割は、人間の存在意義は、与えられた命を、どのような形だとしても構わないから全うすることにあるのだと思う。それも、ただ生きるのではなく、できることならば「しっかりと生きていきたい」と思う。だから悩む。だから迷う。だから苦しむ。命の声に、真剣に耳を傾ける限り人間は悩む。しかし、それは悪いことではない。それは真剣に生きていることの最大の証明であり、その態度こそ、その在り方こそ「生きていること」に他ならないのだと思う。
決めつけてはいけないのだと思う、自分も、他人も。自分は大丈夫だとか、自分はダメだとか、あのひとに好かれたとか、あのひとに嫌われたとか、人の気持ちはいつまでも同じ場所にいることはできない。すべては流れていく。あらゆることは「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」のだと思う。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年3月28日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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