愛に従って生きれば、脱線をするようなことはない。
熱海の家【逢初庵】の目の前に海があり、そこから朝日が昇る。5時前に空が明るみを帯びる。壮麗なグラデーションを織り成し、思わず「うわあ…」と声が出る。早朝の空気は澄み渡っている。まだ、誰にも汚されていない1日がはじまる。空気を深く吸い込むと、清らかな気持ちになる。毎日取り入れても飽きることのない海や空気を前に、ああ、本質的なものは永遠に飽きることがないのだと感じた。飽きるとしたら、それは、(そのひとにとっての)自然ではなくなったからなのだと感じた。
ひとりひとりが楽器であり、それは奏でられることを待っている。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年4月25日
私は歌う。私の中にある神の愛を歌う。そのことによって、誰かもまた歌い始めることを待っている。そして、やがて「わたしとあなた」による協奏が生まれることを期待している。
愛を歌え。 - いばや通信 https://t.co/4v0e4tNxq0
逢初庵は約3年前にムラキさんが購買をした。この家にまつわるエピソードは108個くらいあるのだけれど、そのうちのひとつに(当初の売値は750万円くらいだったこの家を)ムラキさんが「200万なら買います!」と鬼の提案をし、売主の方も「よし、わかった!」的な流れで奇跡的に商談が成立。ムラキさんは「軽自動車を買う感じでおうちが買えた♪ルンルン♪』とよろこびを表現していた、というものになる。わたしは最近頻繁に思う。お金ってなんなのだろう。お金というよりも『値段』ってなんなのだろう。そのようなことを、先日、ある業者のかたとのやりとりのなかでえらく実感した。
値段とはなんだろう。
熱海ではスーパーカブというバイクに乗っている。数年前、佐賀県出身の男性から譲り受けた宝物になる。当時は家がなかったので、荷台に野営道具を積載して各地を流転していた。先日、バイクの鍵を紛失した。ので、業者を呼んだ。ネットで見ると「鍵の作成8000円」とあった。高いっちゃあ高いけれども2万円くらいする業者もあるからこれは安い方なのかなと思って依頼をする。業者が来る。鍵の作成は2万円を超えると話す。なんだそれと思う。私は「これは話が違うじゃないか」と思う。
業者に「8000円と聞いていたのですが」と伝える。すると、業者の方も「我々も下請けで来ているものでして・・・」的な対応をする。色々と話が違うからキャンセルは可能か尋ねる。すると、キャンセル代金が5000円程度かかるとのこと。これはすごい話だなあと思った。安い料金で注目を集め、あとから料金を追加する。これはきっとどこにでも転がっている話だと思う。わたしが「どうしたものか!」と悶々していたら、業者の方が「それなら1万5千円でやらせていただきます」ということになった。なんだこれは、いきなり値段が変わったぞと坂爪は混乱。値段ってなんなのだろうか。そのようなことを考えながら、結局、1万5千円で鍵を作成してもらった。
鍵を作成してもらえたことはありがたかったが、後味は悪かった。後味は大事だ。いかに「後味をよくするか」こそが人生の肝だとさえ思う。おかねとはなにか。値段とはなにか。わたしはお金を稼ぐことが非常に苦手であるために(そのくせに財布のお札は必ず向きを揃えるようにしている)、儲けるための方法は知らない。ただ、思うことは「偉大なものほど無料である」ということだ。海は無料。太陽は無料。早朝の空気は無料。そういうことだ。だからわたしは無料でごちゃまぜの家をやりたいと思った。食事無料。飲物無料。休憩無料。宿泊無料。交換の原理で生きるのではなく、循環の原理、贈与の循環のなかでひとつの空間を成立させる実験をやりたい(どこまで通用するのかを知りたい)と思い、現在、横浜&熱海を拠点にごちゃまぜの家の活動を続けている。
愛に従って生きれば、脱線をするようなことはない。
ハワイ島にごちゃまぜの家をつくりたい。その思いから先日までハワイ島に足を運んでいた。非常にありがたいことに、ハワイ島に使っていない土地を持っている方と明日日本でお会いさせていただくことになり、もしも可能であればその土地を使わせていただくことは可能かを相談(?)することになった。ごちゃまぜの家を言語で説明することは難しい。多くの場合、怪訝な顔をされて終わってしまう。私は、明日、どれだけ言葉(および生き様を含めた人間性全体)で説明をすることができるのだろうか。私は信用に足る人間なのだろか。それとも、一目見ただけで「ああ、こいつには任せておけないな」と一蹴をされて終わる存在なのだろうか。この結末は、多分、明日の夜にははっきりとしている。
ごちゃまぜの家@横浜では、現在、新規入居者を募集している。前回の記事では「ここに暮らすと自然に癒されます」的な書き方をしたけれど、多分、癒されることを目的にこの家には住まない方がいいのだと思う。この家にはいろいろなひとが来る。基本的には静かだけれど、ただ、静かなだけではない。基本的に鍵をかけていないので、世間的には防犯性に欠けると思われる(坂爪個人としては、開放することが一番の防犯だと思っている)。変なひとも稀に来る。そんなにじゃないけど、月に一回はなにかしらがある。私は、基本的に「最悪の場合は刺されてしまっても構わない」と思ってこの家をやっている。だから、言いたいことがあれば(それで怒りを買って最悪の場合は刺されることがあったとしても)言いたいことは言うようにしている。帰ってほしいひとには「帰れ」とも言う。逆に、言いたいことが言えなければ、わたしはこの活動を続けることはできなかっただろう。大袈裟な言葉で言えば、わたしは、(危ない目に遭わないためではなく)最悪の場合は死んでしまっても構わないと思いながらこの家の活動を続けている。だから、新規入居者の方は『一般的ではない環境を面白がれるひと』および『最悪の場合、死んでしまっても構わない的な腹のすわり方をしているひと』がよいのかな、などと思う。
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それでもやはり、世間的な常識にひっぱられることもある。誰でも来れる状態は危ないとか、女性が集まると変な男性が寄って来るとか、無料で開放をするとフリーライダーに占領される、とか。が、それでもなお「ごちゃまぜの家は無料であるからこそ価値がある」のだと思う。だから無料を続けたいと思うし、制限付きの開放ではなく無制限の開放を目指したいと思う。家中の壁に「この家の使い方」とかがびっしり張り紙されまくっている環境なんて絶対にいやだ。ルールで縛るのではなく、自ずから「ルールを守りたくなるような空間をつくる【神社感を醸し出す】」ことにエネルギーを注ぎたい。そして交換の原理ではなく、循環の原理。贈与の循環の原理。これがキーワードだと思う。私は頻繁に間違える。頻繁に道を外し、頻繁に自爆をしては「もう生きていけない…」などと思ったりする。が、おそらく、いつでも愛にしたがって行動をしていれば、脱線をするようなことはないのだと思う。恐れによって、愛を閉じてしまわないように。常識は無視。合理性も採算性も無視。やりたいことは、そういうことではないのだと思う。全部がだめになったとしても、最悪の場合は、ただ、野垂れ死ぬだけのこと。自分なりの愛の名のもとに死ねるのであれば、それは、無名のままで終わるとしても素晴らしい生涯だと思う。東洋のハワイ【熱海】は快晴です。生きることは死に向かうこと。小生、愛に従って死にたいと思います。
愛にしたがって行動していれば、脱線するようなことはない。常識的にどうだとか、合理性や採算性がどうだとか、そういうことを考えるのは後回しでOK。そこはどうにかなる。最悪でも、野垂れ死ぬだけのこと。愛の名のもとに死ねるのであれば、無名で終わったとしても、それは素晴らしい生涯だと思う。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年4月27日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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