いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

明日死ぬとしたら、なにを語るだろう。

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ハンモックで生きる練習をしている。わたしは恐ろしくチキンなため、不測の事態に備えたサバイバル能力を高める系の生き方【遊び方】を好む傾向がある。なにかしらの事情で家や金(いまもない)や仕事(いまもない)や社会的信用(いまもない。なにもないじゃないか!)を失った時に、できるだけ冷静で在りたいと思う。ハンモックテント【筆者は『ヘネシーハンモックのバックパッカー』を使用】の素晴らしいところは、なによりもまず『揺れる』ことだと思う。幼少期の揺籠体験が思い出されるからなのだろうか、ゆらゆら揺られていると(たとえ眠気はなくとも)数十分で眠りに落ちる。あとは「適当な二本の木があればどこでも寝床になる」という点で、適当な木が見つからない場合も、雨よけのタープを器用に張ればツェルト風のシェルターになる。地肌がゴツゴツしている場合の寝心地は快適とは言えないけれど、これも「どこでも寝れるようになるための修行【遊び】の一種」だと思えば楽しむことができる(まったく楽しめないこともある)。

 

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数日前の深夜2時頃、横浜界隈が地震で揺れた。たまたま目が覚めていたわたしは、あ、地震だと思って精神的に身構えた(身体は横になったままだった)。揺れはすぐに収まったものの、ああ、当たり前のことだけれど人間死ぬときは死ぬんだよなということを思った。常日頃から「いつ死んでもいい」などと大言壮語を吐いておきながら、やはり、震災に見舞われた場合などは「死にたくない。生きていたい」などと全然思っている自分を見る。死を強烈に意識することは、時に、最高のスパイスになる。明日死ぬとしたら、今日、わたしはなにを語るだろうか。これから語ろうとしていることは、遺言に足る言葉になり得るだろうか。なり得るかどうかはわからない、ただ、あらゆる言葉は「これが最後の言葉になるのかもしれない」と思いながら使いたい。死にたくないと思うのは、多分、伝えきれていないなにかがあるからだ。それは「さよなら」という言葉であり、あなたに会えてよかったとか、愛しているとかいないとか、あなたのおかげで最高な人生になったとか、多分、生きていたいと思うのは「伝えていきたい」と願うからなのだと思う。

 

【過去記事】楽になる道が正解だよ。 - いばや通信

 

誰もが内面に静けさを抱えている。

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SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】にカブトムシが来た。横浜のど真ん中にこんな生き物が生息していたとは露知らず、小一時間ばかり戯れていた。ひとりきりの時間も、昔より孤独を覚えなくなった。人間の孤独を慰めるものは、なにも人間に限らないのだということを思う。自分の中で、自然を見る目を変えるささやかなルールを設けた。まるで『虹が飛んでいる』みたいに色彩豊かな蝶を目た時は、なにか良いことが起こる前兆だと思うようにした。幸福のシンボルとしてお馴染みのとかげを見た時は「よっしゃー」と思うし、小鳥がちゅんちゅんやってきた時は「肩の力を抜きなさい」とメッセージを伝書しているのだと認識するようにしている。雨の音や風の音に耳をすませる。もしも、雨や風がなにかを語っているのだとしたら、なにを語っているのだろうか。そういうことを考えている時間は、多分、ひとりではない。雨も風も花も鳥も、言葉としてはなにも語らない。なにも語らないからこそ、時に「なによりも雄弁である」と感じる(こともある)。

 

誰もが内面に静けさを抱えている。居場所と呼ばれるものは、場所ではなくて人間のことだと思う。他の誰かではない『自分自身のこころ』のことだと思う。騒がしい頭意識の裏側には、みな、静寂で美しい世界がある。居場所【ホーム】とは、自分の外側に求めるものではなく、多分、自分の内側に発見するものだと思う。だからこそ、いま、必要なのは「静かになれる場所」だと思う。ひとりきりになれる場所、沈黙を共有できる場所、誰かといるときは「まるで世界にふたりきりになれる」ような気持ちになる場所、沈黙を共有できる場所、そういう場所が(とりわけ都心部には)必要なのだと思う。英語に「インナーモスト」という言葉がある。『最も深い部分』を意味するこの言葉に、わたしはコミュニケーション全般の醍醐味を感じる。誰もが内面に静けさを抱えている。その静けさに触れることができた時、わたしは、言葉にならないうれしさを覚える(ことがある)。

 

最近、ロウソクにはまっている。夜、明かりを消してロウソクを灯す。ロウソクの灯りはまるで生きているみたいで、静かな安堵感を覚える。古民家で灯せば山小屋のような雰囲気になり、夜に電気はいらないんじゃないだろうかという気持ちになる。過剰な照明のもとで交わされる会話には、過剰ななにかが混入する(ような気がする)。落ち着いた雰囲気の中で話をすれば、会話の内容も自然とインナーモストなもの【自分の内面から湧き上がるもの。自分の内面を掘り下げるもの】になる。ひとがたくさんいる時も、少数で食卓を囲む時も、ひとりきりでいる時も、内面にある静けさにアクセスすることができるような、SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】がそのような空間になればいいと思う。

 

わたり花瓶『MoMA

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菊名の家はTPD48の拠点【フルマラソンのエイドステーション的存在】としても使われている。最近、TPDの私物が家に増えてきたので「明日までにある私物は全部処理をします」という旨をメンバーに伝え、強制断捨離を敢行した。不要物は捨てたりご希望される方にあげたりして、おかげさまで家は非常にすっきりとした。が、まだ少しだけ残りの財宝が眠っています。まずは『MoMA』のビニール製フラワーベース×2。光の屈折が美しく、ビニール製なので割れることもなくお子様のいる家庭でも安心。ご希望される方は坂爪圭吾まで直接ご連絡ください。

 

※※※ こちらの花瓶は、新潟県にわたりました ※※※

 

わたり下駄『桐』

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続いては「女性用の桐下駄(23〜24.5センチ)」です。なぜか下駄箱に箱入りで眠っていたので、必要とされる方に無料でリリースをいたします。ご希望される方は、非常にお手間ではありますが坂爪圭吾まで直接ご連絡ください。

 

※※※ こちらの下駄は、神奈川県にわたりました ※※※

 

わたり革靴『PRADA

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続いては『PRADAの革靴』です。一足も靴を持っていなかった数年前のわたしを見かねた神様が「これを持って生きなさい!オフィシャルな場面とかもあるでしょ!」とお譲りいただいたものになるのですが、この数年間一回も履くことはなかったので「今世は、オフィシャルとは無縁の人生になるのだろう」ということで必要とされる方に無料でお譲りします。靴のサイズは26センチ(自分には小さかった!)です。非常に良好な状態で、なんというかこの品物をくださった方が最高に素晴らしい方なのでそういった意味でのご利益(?)も期待できるかと思います。ご希望される方は坂爪圭吾まで直接ご連絡ください。

 

※※※ こちらの革靴は、神奈川県にわたりました ※※※

 

わたりアンティーク『椅子』

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最後は、群馬県在住の美容師の方から譲り受けた「アンティークの椅子(昔、床屋で使われていたもの)」です。ずっしりとした重量感が半端なく、昔風の家具を愛するひとには最高の逸品になると思います。座る部分が若干壊れているというか凸凹になっている(座る分には問題なし!)のですが、それも愛嬌のひとつだと思える方に無料でお譲りいたします。ご希望される方は坂爪圭吾まで直接ご連絡ください(無料で郵送をいたします。が、実施に取りに来ていただける方を優先します!)。

 

※※※ こちらの椅子は、神奈川県にわたりました ※※※

 

わたり文庫『ロングトレイルという冒険』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、加藤則芳著作『ロングトレイルという冒険』です。著者はアメリカにあるアパラチアン・トレイルという全長3500キロ(!)もある道のりを歩いた経験の持ち主で、世界には半端ないひとやものやことが大量にあるのだなあと嬉しくなりました。他にも、日本には(知名度が低すぎて誰にも重要視をされていないものの)世界的に有名な国立公園が何箇所もあるそうです。日本中の国立公園(公園とはいうものの、なんというか「日本を象徴する最高の自然」という意味で使われている言葉です)を遊歩するのも楽しそうだなあ、などと夢想をします。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

何日も何十日も、大自然の懐でそのような生活を続ければ、人はだれでも謙虚になれる。日々、最小限の水と燃料と健康でいられるだけの最小適切な食料とをバックパックに詰めて歩けば、すべてのものがいとおしいものとして、心の壁に染みわたってくる。朝と晩の2回、450ccのコッヘルにそれぞれ一杯だけお湯を沸かす。それでフリーズドライを食べ、スープを飲み、コーヒーを飲み、歯を磨き、コッヘルは拭くだけ。歩きながらの水分補給は別とすれば、たった2杯の水で毎日を生きてゆく。食べ残しは絶対に出さない。残り滓を地面に捨てることもしない。むろん、歯磨き粉も洗剤も使わない。可能な限り自然に負荷をかけないで生きていくテクニックを、歩くという生き方のなかから学び、それを街の生活にも生かし、実践していく。 

 

加藤則芳『ロングトレイルという冒険』【技術評論社

 

明日死ぬとしたら、なにを語るだろう。 

先日、菊名の家で「家族」をテーマにトークイベントを開催した。広い意味での『家族会議』的な意味合いも含まれていて、登壇者だけが話すのではなく参加者の方々の話こそ聞きたいと思っていた。前回の記事にも書いたように「天涯孤独になってもいい」という覚悟で性転換をされた方の話もあり、大袈裟な言葉になるけれど「たまたま同じ場所に居合わせたひととでも、自分の中心にある話ができる限り『だれもが家族になる』のではないだろうか」と思った。この日、富山からひとりの女性S様がはるばる足を運んでくれた。S様には両親がいない。唯一の血縁であるお祖母様は現在危篤の状態にあり、それこそ「天涯孤独になりそうです」ということを事前に話していた。彼女との出会いは数ヶ月前、全国の何処でもおはなを配りにあがりますという企画をやっている時に、S様から「もしよかったら富山県に来てください。おはなが欲しいです」と連絡をもらったことがきっかけになる。 

 

 

後日、S様から連絡が届いた。そこには「家族の話を聴けたり、念願のみっつと話せて良かった」ということや「夜中の1時半に祖母が旅立ってしまって、ごちゃまぜの頭でメールの乱文すみません」ということ、そして「祖母が重篤な状態にも関わらず菊名へ行くという勇気をこれからも大事にしたいなぁと思います」ということが書かれていた。わたしが言葉にすると陳腐なものになるために、S様に了承をいただいてその全文を最後に引用させていただきます。ひとにはそれぞれの事情があるのだな、と思う。そして、誰もが事情を抱えながら、それでも生きていこうとする姿の中に「美しさ」のようなものを覚える。トークイベントの最中も、参加者の方々の話を聞きながら「素晴らしいな。人間って素晴らしいな」と思うことが何回もあった。なにが正しいとか、なにが間違いだとか、そういうことではなく「無様でも、不器用でも、精一杯に生きようとしている姿は、どのようなものであれ生命に輝きを与えるのだな」ということを思った。

 

 

明日死ぬかもしれないのだから、やりたいことをやろう、この瞬間を大切に生きよう、愛するひとには愛していると伝えよう。そのように語る言説は無数にある。同時に、いまを生きるということは、時に「刹那主義」だと悪い意味で使われることもある。わたしは「自分のこころを込める限り、刹那的にはならない」ということを思う。こころを込めるということは『種を撒く』ことに似ている。これから自分がやろうとしていることに、自分なりに精一杯のこころを込めることができた時、その営みのひとつひとつは『種』になる。その種のすべてが芽を出すとは限らないけれど、いつの日か、それをしていなければ絶対に遭遇することのできなかった果実を目にする瞬間が、必ずある。自分でも忘れていた頃に花を開く奇跡を目にする瞬間が、必ずあるのだと思う。こころを込める限り、刹那的にはならない。自分がこれからやることのひとつひとつが、そのまま自分の遺言になり得るような、そういう生き方をしたいと思う。

 

 

 

こんにちは。


この前はありがとうございました。

 

坂爪さんのブログを読みはじめてから、わたり文庫を送って頂いたり、富山に来て頂いたり、私が菊名へ行けたり、生きてるって本当に素晴らしいなぁ。何が起こるかわからないから楽しい。

 

本当にありがとうございます。


家族の話を聴けたり、念願のみっつと話せて良かったです。


みっつといろいろ話せて良かった。また話したいなぁ。ありがとう。

 

ゆっくりと振り返りたかったのですが、夜中の1時半に祖母が旅立ってしまって、ごちゃまぜの頭でメールの乱文すみません。

 

祖母が重篤な状態にも関わらず菊名へ行くという勇気をこれからも大事にしたいなぁと思います。

 

映画のモアナで、おばあちゃんとモアナの別れのシーンがあるのですが、おばあちゃんは「おゆき」って言うんです。でもモアナは躊躇する。

 

おばあちゃんはまたこう言うんです。「どんなに離れてても、おばあちゃんはいつもそばにいるよ」

 

そしてモアナは勇気を出して、おばあちゃんから離れて自分の道を走り出す。

 

それがシンクロして、菊名へ行くことができました。おばあちゃんありがとう。無事に行けたし待っててくれたんだね。

 

別れは悲しいけれど、そばにきっといて見守ってくれている。

 

両親を見送る時は罪悪感というか、悲しみだったけれど祖母は感謝というか、生きていてくれてありがとう。育ててくれてありがとう。家族でいてくれてありがとう。孫でいさせてくれてありがとう。様々な出会いの中で恐れから感謝になれて本当に良かったと思います。


この前の話で天涯孤独という言葉が出ていて、私は自分は少し前までそうだったし、恐れていました、ばぁちゃんがいなくなったらどうしよう。置いて行かないで。さみしいよ。でも、その気持ちを感じきって向き合って、さらに菊名まで行ったら、なんだか私は全然孤独じゃないなぁって。

 

みんな何かしら抱えているし、血の繋がりを超えた人と一緒にいれば孤独じゃない。

 

そう私が思えたから、ばぁちゃんは安心して旅立てたのかなぁと思います。


この前はお花ありがとうございました。

 

祖母にお花をあげれて嬉しかったし、家の玄関にずっと飾ってたんです。

 

そしたらお花は大往生し、実は綿毛になり種を残していきました。祖母も花のように大往生し私に勇気の種を残していったと思います。


ブログ読んでリフレッシュできました。
ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 


◯◯◯◯

 

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何もなくても大丈夫。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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