いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

世界の秘密を知ってしまった。

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携帯代金が五万円を超えた。クラウドファンディングの御礼に電話をしまくった結果であり、ああ、無料通話コースに変えておけばよかったと思ってもあとの祭りだ。無料通話コースに変えておけば、などと言っておきながらそういう各種手続きが大の苦手だから、もう、通話機能そのものを解約した。現在は、SIMフリーiPhone格安SIMLINEモバイルの通話機能なし3MBの月額千円程度)を使用している。節約上手である。が、今月も半ばだというのに早くもデータ制限を迎えかけているために、いま、バンコクにいる。表向きは「おはなを配る!」とか「ごちゃまぜの家の候補地を探す!」とは言っているものの、裏のテーマは「海外のワイファイを使い倒す!(そして愛するパパイヤを食べまくる!)」というものになります【バンコク界隈でお時間のある方はお気軽にご連絡ください!今後の予定は何もないので、近隣諸国にも(交通手段さえどうにかなれば)行けるかと思います!】。

 

 

ナイキのフライニットという靴を購買した。靴が変わるだけでこんなにも変わるのか!と感動&興奮をしている。思わず外を走りたくなる。野営道具など、自分を外に連れ出してくれる【思わず外に飛び出したくなる】道具は最高だ。移動を続ける生活を通じて「結局、最後に必要なものは体力だな!体力がなければ、楽しめるものも楽しめない!」ということを悟り、極力、足を動かすようにしている。初めて訪ねる街を歩く(走る)と、街全体と仲良くなれる感覚がある。移動が続く日々を逆手に取り、いわゆる「旅ラン」を日課にしたいと思う。運動をしている(あと、りんごをかじりながら街を歩いている)と「おれはまだまだ戦える」という気持ちになる。野性味とか動物性とか、そういうものが刺激をされているのかもしれない。友達のまゆちゃぱうぉにか姫が日本で半端ないイベントを企画していたので、無事に日本に戻れたら、一緒に歩きまくりたいと思う(ものの、片道切符でバンコクに来たために帰る目処は立っていません!!)。

 

【イベント詳細】『超沈黙型エンターテイメント』 〜神様たち10日間も喋らないで歩くらしいよ?マジ無理じゃない?え、それうちがやるの?絶対死ぬやつだってぇ卍SP〜

 

あらゆるものは神様のものである【誰のものでもないからこそ、みんなのものになることができる】

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おととい、沖縄県の久高島にいた。那覇空港から安座間港まで「車を出しますよー!」と言ってくださる女神様(A様)から連絡が届き、お言葉に甘えてお願いをした。 久高島も良かったけれどA様がよかった。久高島は「所有をしない」ことで有名(?)な島だけれど、元来、琉球という国そのものが「あらゆるものは神様のものであり、わたしたち人間は『それを使わせてもらっている』と思って暮らしています」とA様は話す。A様の話を聞きながら「いやあ、もう、まさにおっしゃる通りなのだと思います。使わせてもらっているという感覚がなくなると、ひとは、簡単に傲慢になってしまう(あらゆるものを『当たり前だ』と思いあがっちゃう)ものなのだと思いまくります」と自戒を込めて返した。

 

ごちゃまぜの家のような「誰でも自由にどうぞ!」的な活動をしていると、稀に、かなりの無礼者に出会うことがある。誤解を恐れずにいうと「自分の権利ばかりを主張する」とでも言えばいいのだろうか、共有されている空間を大切に使おうという意識は皆無で、「自由」イコール「好き勝手にふるまう」ことだと勘違いをしている(ように見受けられることがある)。わたしは、こんな感じのひとを見ると「下品な生き物だな」と思う。しかし、どなたでもどうぞと言っている手前、誰でも一旦は受け入れる。そして、受け入れた後に観察をする。いい感じのひとといい感じではないひとの違いが、A様の言葉を通じて明確になった。多分、なにをするにせよ「使わせてもらっている(やらせてもらっている)」という感覚がなくなった時に、人間は品位を失い、謙虚さを忘れ、傲慢になり、下品な生き物になるのだと思う。

 

わたしは海が好きだ。海が好きだから、海を綺麗に使うひとが好きだ。海は自分のものではないけれど、海を汚すひとを見ると「なんだお前は!」と思う。多分、ごちゃまぜの家に関しても同じ気持ちなのだと思う。ごちゃまぜの家を『みんなの家(人間の家)』的な説明をすると語弊が生まれる。これからは『神様の家』的な説明でいきたいと思う。ごちゃまぜの家は誰のものでもない。誰のものでもないからこそ、みんなのものになることができる。わたしたちは「使わせてもらっている」身であるということを、忘れていない方が『その場における幸福度』は高いと思う。感謝と幸福は切り離すことができない。使わせてもらっているという感謝が自然と湧き上がるとき、わたしは、幸せのど真ん中にいる。家だけじゃない、海だけじゃない、もしかすると『自分自身(自分のカラダや自分のココロ)』さえも、自分のものではなく神様のものであり、わたしたちは使わせてもらっているだけなのかもしれないと思うと敬虔な気持ちになる(ことができる)。

 

ひとつの大きな命を生きている。

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古代マヤ語の挨拶で「インラケチ」というものがあり、これには「あなたはもうひとりの私です【私はもうひとりのあなたです】」という意味がある。大木に例えるとわかりやすいのかもしれない。人間ひとりひとりは大木【地球】に成る葉っぱの一枚一枚であり、根本は同じである(という意味だと思う)。わたしはこの感覚を気に入っていて、この感覚になれている時は自分の中にある菩薩モードが発動をして優しく穏やかな気持ちになることができる。多分、現代社会の問題点は「分断化が進みまくっている」ことだと思っていて、行き過ぎた個人主義は全体感を破損する。自分のことは自分でやるということは一見すると責任感のある生き方であるようで、内実は「分断化を推し進めている【おれは自分の力で(生かされているのではなく)生きているのだという『奢り』を生む】」のではないだろうかと思う(ことも稀にある)。

 

インラケチの考え方はいいなと思う。この感覚を言い換えると「あなたは私の代わりに生きている【私はあなたの代わりに生きている】」ということだと思う。わたしは家のない生活をしていた。当時、あらゆるひとから「あなたの生き方には憧れるけれど、自分にはできない」という声を聞いた。誤解を恐れずに言うと、真似をする必要はまったくないのだと思う。逆に言えば、人間、おれみたいになれと言った瞬間からダサくなるのだと思う。自分は自分を生きること。自分を生きることが、結果として(根本では繋がっているから)誰かのためにもなるのだということ。わたしは、たまたま『家のない生活』ができる状態にあった。だから、あなたの代わりに自分がその生活を生きる。その生活を生きることで感じたことを共有する。だから、あなたはあなたを生きること。あなたを生きる中で感じたことをおれにも共有してもらえたらうれしいと、そういうう風に感じていた。

 

生き方には正解はないのだから、生き方には間違いもない。それが世間一般的なものとはかけ離れていたとしても、自分の命を誠実に生きる限り、必ず何かしらの果実を得る。その果実こそが『自分は自分である』ことの最高の収穫物であり、ひとと同じであることに神経を擦り減らすことよりも、人並みであることを捨てて「おれはおれを生きる」と決めたひとから、結果的に人類全体における最高の共有財産を築いていく(のだと思う)。わたしたちは別々の命を生きているのではなく、多分、ひとつの大きな命を生きている。自分が自分を生き切ることが、結果的に「誰かの人生にも貢献することができる」ものだとしたら、それほど素晴らしいことはないと思う(そして、事実世界はそのようにできているのだと思う)。

 

わたり文庫『葉っぱのぐそをはじめよう』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、伊沢正名著作『葉っぱのぐそをはじめよう』です。前回の記事でご紹介をした糞土師の方の著作で、タイトルからして結構やばい(本屋で購買する時は恥ずかしかったです!)が、内容は最高でした。こういうひとが日本にいることが素晴らしい・・・この本が三省堂岡山駅ビル店の『華道』のコーナーに陳列されていたことにも笑いました。やはり、笑えるということは素晴らしい。笑い飛ばしたあとに発見もある(世界が広がる)感じも最高で、個人的には『屋外で用を足したあとに使用する葉っぱを通じて、季節の移ろいを肌【ケツ】で感じることができる』という件には「ほっほー!(季節感っていいですよね!)」と思いました。無料郵送をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をさせていただきます。 

 

 ※※※ こちらの本は、沖縄県にわたりました ※※※

 

大災害が起きると、まずはライフラインがストップし、水と食糧が不足し、トイレも使えなくなり、生きるための基本が脅かされることになります。じつは東南海地震で心配されることの一つが、静岡県富士市周辺に製紙工場が集中しているため、地震津波でその操業が停まるとトイレットペーパーの約4割が、一ヶ月ほど供給が滞ると予想される点です。そこで水や食糧だけでなく、携帯トイレと紙の備蓄が防災対策の大きな課題として取り上げられるようになりました。

 

東日本大震災では私の住む茨城県の田舎町でも震度6強の揺れを記録し、我が家は半壊。電気が止まり、3週間断水、多くの人がトイレを流すために沢水や側溝から水を汲んだりして苦労していました。また、各地でトイレットペーパーの買い占めも起きました。ところが以前から葉っぱノグソをしていた私は、世間の混乱を尻目に、排泄に関しては普段とまったくかわらない生活を送ることができたのです。

 

伊沢正名『葉っぱのぐそをはじめよう』【山と渓谷社

 

【過去記事】人生の本質は「JOY」だ。 - いばや通信

 

世界の秘密を知ってしまった。

わたり文庫の活動をはじめてから、様々なひとが「これは無理やりでも読ませたい!」と思う本をくれる。いま、わたしは広島県で受け取った『モリー先生との火曜日』という本を読んでいる。この本が最高で、最高の本に出会えると猛烈に嬉しくなる。素晴らしい本との出会いは、素晴らしい人間との出会いにも並ぶ喜びがある(そして、人生全体を肯定する力がある)。この本の中にはいくつもの名句が飛び出しているのですが、とりわけ印象に残っているものがある。それは『われわれのこの文化は人びとに満ち足りた気持ちを与えない。文化がろくな役に立たないんなら、そんなものいらないと言えるだけの強さを持たないといけない』というもので、ああ、モリー先生!!という気持ちになりました。

 

 

モリー先生は難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)に侵されている。死に行く直前に「これから最後の旅に出る自分を見てくれ。そして、自分から学んでくれ」と話す。死ぬことは自然なことなはずなのに、死にたくないと思っている自分がいる。死んでしまうことは悲しいことで、それを避けたいと思っている自分がいる。死ぬことを避けたいと思うあまりに、最後の瞬間が訪れることを知っておきながら、死ぬことを信じていない(死ぬことを信じていないような生き方をしている)自分がいる。いつまでも生きるつもりでいる自分がいる。明日死ぬとしたら絶対にこれはやるだろうと思えることを、先送りにしている自分がいる。死に方を考えることは、そのまま「生き方を考える」ことにつながるのだろう。死ぬことをリアルに感じる時、この瞬間に「いまだけ」の強烈な光が宿る。憎しみ、怒り、悲しみに貴重な時間を割いている時間はないのだということを、残された時間があるならば、愛しているひとに伝えたいことがあるのだということを思う。

 

 

多分、死は「人間を謙虚にする」力がある。終わりを強く意識することで、いまここにある瞬間が際立つ。やり残していることが明確になり、人生を真剣に生きることができるようになる。恥ずかしがっている場合ではないのだと、先送りにしている場合ではないのだと、出し惜しみをしている場合ではないのだということを思う。明日死んでしまうとしたら、やり残していること【言い残していること】は何だろうか。わたしは、わたしが大切だと思うひとに「自分が死んでも悲しまないでほしい」と思っている。死んでしまったあとも、天国みたいな場所があるとしたら、そこからあなたのことを確実に見守っているのだと伝えたい。会えなくなることはさみしいことかもしれないけれど、さみしさに飲み込まれてしまうのではなく、残された日々を生き切ってほしいと思う。自分を生きて欲しいと思う。最善を尽くして欲しいと思う。そして、天国と呼ばれる場所があるのだとしたら、その場所で再会できたらうれしいのだと思っている。

 

 

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世界の秘密を知ってしまった。

 

人生は続く。

 

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