いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

人生の本質は「JOY」だ。

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不食(食べないで生きているひと)でお馴染みの森美智代さん推奨『スイマグ』を10ケース(!)いただき、隙を見て飲む。乱暴に説明をすると「人畜無害の下剤」であるスイマグは、飲み続けることで長年腸壁にへばりついていた宿便を溶かす。スイマグを一年飲み続けていたらカラダが軽くなったばかりか花粉症やアトピーなどのアレルギー症状も治ってハッピー!という話を頻繁に耳にするものだから、自分を使って試している。なにかこう、カラダをよくするためには「何を食べるか」ではなく「何を食べないか【引き算の美学!】」なのだとわたしは睨む。ソリッドな肉体を獲得できたら個人的にあがる。カラダが軽くなることは嬉しい。昨日は満月ということもあり、新月に向かうこのタイミングに合わせて「自分を一回からっぽにする」ことに興味がある。これはカラダに限った話ではない、多分、精神的にも「軽くなる方向を選ぶ(気持ちが楽になる道が正解!)」なんじゃないのかな、などと思うことは多い。

 


ごちゃまぜの家をほったらかして「おはなをあげる」日々を過ごしている。現在は岡山市内にいて、これから尾道を経由して向島にはいる。明日の朝9時に広島駅におはなを届けた後は何も予定がない。その後は福岡に向かう予定になるのだけれど、広島で何も予定がはいらなければ福岡に向かう(広島駅周辺で「おはなちょーだい!」という方はお気軽にご連絡ください!)。その後は「福岡→那覇バンコク」という流れになりました。バンコクではごちゃまぜの家の候補地も探すことができたらとっても嬉しいので、広島&福岡&沖縄&バンコク周辺でお時間のある方はお気軽にご連絡ください(菊名の家も、管理人のひとみさんとえりかさんが懇切丁寧な対応をしているので興味のある方は彼女たちに直接連絡をしてください!!)。

 

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【イベント詳細】 おはなをあげに、いかんばなんね。

 

悪態のすすめ。

昨日、愛媛県松山市にあるリトリート施設で開催されたトークイベントに登壇(?)をした。前日の夜は会場に宿泊をする流れだったのだけれど、個人的に「こんな場所で寝たくねーな!!」と思うポイントが8個くらいあったので、よし、ここは自分に正直になることが大切だと一念発起をして家から逃げた。わたしには「大事に使われていない感じが満載の空間で長時間を過ごしていると体調が悪くなる」という持病があるのだけれど、なんだか物置で寝かされているような気持ちになってしまって「なにがリトリートだ!ふんがー!」と静かな怒りが爆発、結果的に最寄りの海で野宿をした。自分の扱われ方に憤慨をしていたわたしだけれど、海に出たら出たで「ああ、なんか海っていいな」と怒りも収まり、ギターを弾いていたら多幸感があふれてきた。最初は「海で野宿をするなんて俺は世界でいちばんの不幸者だ」と自己憐憫に浸りかけていたものの、夜の海が良すぎて「俺は世界でいちばんの幸福者だ」と形勢は逆転をした(が、海で変な虫に噛まれてその後足が腫れた)。

 

よく、自分に正直に生きることが大切だという(ひとが多い気がする)。わたしは、綺麗事があまり好きではないので「いいこぶってんじゃねーよ!」と思う。そこで、愛媛県トークイベント終了間際に「悪態をつきましょう!」ということを(家を飛び出した例などを出しながら)提唱した。悩み相談みたいな話になると「どうすればひとから嫌われないでいることができるでしょうか【どうすればうまくやることができるでしょうか】」みたいな話になることが多いけれど、潔く、一回嫌われてみることを推奨したい。何回も何回も何回も書いていることだけれど、うまくやろうとするためではなく、よし、失敗してやろう、傷ついてやろうと思って突撃をすればすべてが筋肉に変わる(成功も失敗もなくなる)。家を飛び出す前は勇気がいるけれど、家を飛び出したおかげで海の素晴らしさに出会えた(あとは快適な野営を行う実地的なスキルが向上をした)。多分、この世の中には「悪態をついたおかげで獲得できる生きる力」があるのだと思う。

 

うまく言葉にできている自信がまったくないけれど、わたしは「自分を殺して生きるくらいなら、自分を出して死にたい」と思っているタイプの人間なので、できることならば自分に正直でありたいと思う。何者かになりたいとは思わない、ただ、自分でありたいとは思う。自分であり続けることには時に「試練の時」みたいなものが訪れることがあって、その瞬間、神的なサムシングから「それでもお前はお前でいることを選び続けることができるか?」と問われる。悪態をつくことは、ひとつの正義である(俺は何を言っているのだろうか)。多分、悪態をつくセンスというものがある。センスの良い悪態は、意外なことに「周囲にいい感じの風を吹かせる」ことができる。多分、ああ、こんなことをやっちゃってもいいんだ!というある種の許しを、見ている人に与えることができるからなのだと思う。中途半端な悪態は、周囲の反感を買うだけで終わる。悪態のセンスを磨くこと。これはひとつのテーマである。わたしもまだまだ修行中の身である。今後も「悪態のセンス」に磨きをかけていきたいと思う(リトリート施設の方とはそのあと無事に和解をしました。器の広い対応をありがとうございました!!)。

 

どうでもいい話。

ごちゃまぜの家の第2号を世界のどこかに持ちたい。いく先々で候補地になりそうな場所を探している。どうでもいい話になるけれど、個人的に「立ちションができる場所が周囲にあること」が理想的な条件になる。こいつは突然何を言い出すのかと思われるかもしれないけれど、昔から「トイレ一回で使う水量は多すぎるだろ!」と密かに思っていた。一年前から熱海で暮らすようになり、もちろん、熱海の家にはトイレもある。しかし、流す水がもったいないのでお小便に限っては外でするようにしている。男性ならわかってもらえると思うが、野外でお小便をしていると「なんだか俺って自由だな」という気持ちになる。熱海の家は山に囲まれているために、場所に困ることはない。が、菊名の家は住宅地のど真ん中にあるために色々と困ることが多い。トイレに行くたびになんだかちょっぴり悔しい気持ちになる。

 

このような話は馬鹿にされるだろうなと思って黙っていたけれど、ある日、ウルトラ可愛い女の子にこの話を試しにしてみたところ、非常に驚いたことに「こんなことをひとに話すのははじめてのことなのですが…わたしも外でしていますよ!」との返事が返ってきた。しかのこの女性はかなりの猛者で、大も小も一旦バケツにした後に、肥料になるからという理由で庭に埋めている(!)のだと話す。なんていうか、ああ、素晴らしい話だな【素晴らしい女性だな】と思った。彼女いわく「わたしは地球から酸素とか野菜とか果物とかいろいろなものを貰いながら生きているけれど、貰ってばかりの自分が地球に還せるものってなにがあるんだろうって考えた結果、うまく言えないのですが自分の排泄物くらいしかないのかなあって思って、トイレットペーパーを流すと地球に悪いとか言う話も聞いたことがあったから、こっそりやるようにしているのです」とのこと。

 

これらは非常に誤解を招きかねない話題になるために、あまり大きな声で話すことはできない。そのため、ごちゃまぜの家の候補地を探している時も「立ちションができる場所がいいです!」なんて言えたものではないから、オブラートに「おはなを買わなくても、周辺の野花を摘んでお部屋に飾れるような環境が理想的です」などとファンタジックに話している。これは余談になるけれど、日本には『糞土師』なるひともいて、その方は「屋外【非常時】における用の済ませ方」とか「トイレットペーパーよりも快適にお尻をふける自然の葉っぱランキング」的なものも(自身の体験から)数冊の本にまとめている。世界は広い。いろいろな生き方があるのだ(それで本を出しているひともいるのだ)。こういう話を聞くと、生きることがちょっとだけ楽しくなるのは自分だけなのだろうか(自分だけなのかもしれない)。

 

【過去記事】この空があれば大丈夫だ。 - いばや通信

 

わたり文庫『マザーテレサ あふれる愛』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、沖守弘著作『マザーテレサ あふれる愛』です。糞土の話をした後にマザーテレサの話をするのもアレですが、こちらの本はマザーテレサ関連でもずば抜けて素晴らしい最高の一冊になると思います。読んでいるだけで心が洗われるような気持ちになります。こういう気持ちを忘れてはいけないのだと思う。マザーテレサの生き方や、マザーテレサの周辺のひとびとの生活に触れると「俺も贅沢を言っている場合じゃないな。もっと生きていることを慈しみたいな【生きていることを慈しめるな】」という気持ちになる。ブックオフでも(多分)100円程度で手に入ると思うから、無理矢理にでもみなさまに読んでいただきたい一冊です。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、広島県にわたりました ※※※

 

人間にとってもっとも悲しむべきことは、病気でも貧乏でもない、自分はこの世に不要な人間なのだと思いこむことだ。そしてまた、原世の最大の悪は、そういうひとに対する愛が足りないことだ。(中略)とにかく貧しいひとを見たら、そのひとたちのために仕える手と愛する心、それに『聞く耳』を持つことですよ。貧しいひとたちはね、オキ、お金を恵まれるよりも食べ物をあたえられるよりも、なによりもまず自分の気持ちを聞いてほしいと望んでいるのよ。実際は何も言わないし、声も出ないけれどもね。健康な人や経済力の豊かな人は、どんなウソでもいえる。でもね、飢えた人、貧しい人は、にぎりあった手、みつめあう視線に、ほんとうにいいたいことをこめるのよ。ほんとうにわかるのよ、オキ、死の直前にある人でも、かすかに震える手が〝ありがとう〟っていってるのが。

 

沖守弘「マザーテレサ あふれる愛」【講談社文庫】

 

人生の本質は「JOY」だ。

愛媛県松山市のイベントに、二人のこどもを育てているシングルマザーのお母さんA様が遊びに来てくれた。A様は震災経験後「(死んだら死んだで仕方がないから)自分が楽しめることだけをやろう!」と一念発起をし、神奈川から愛媛県に移住をした。愛媛県でごちゃまぜの家にもちょっとだけ似ている活動をやりつつ、どうしたって周囲のひとびとに叩かれることもあるもので、それでもいばや通信を読みながら「もうちょっと頑張ろう」と思ってくれていたのだと話す。こういう話を聞けることは物凄い嬉しい。このひとと出会えただけでも愛媛に来てよかったと思う。A様は笑いながら「シングルマザー三ヶ条っていうのがこの世の中にはあるみたいで、わたしはそれが大嫌いなんです!」と話してくれた。わたしは「三ヶ条ってなんですか??」と問う。A様は「寝ずに働かなければいけない。ボロアパートに住まなければいけない。楽しそうに生きていてはいけない」と教えてくれて、わたしは思わず笑ってしまった。

 

 

イベント参加者の方が「さかつめさんは昔からそんなに自由だったのですか」と問う。わたしは返答に困り、しばらくした後に「(自分のことを特段自由だとはあまり思わないけれど)ここにいるひとみんな、最初は自由だったんじゃないのかなって思います」と答えた。多分、誰もが、小さな頃は思い切り自由に生きていてそこらじゅうを遊び駆け回っていたのだと思う。それが、いつからか「これをしてはいけない」とか「あれをしてはいけない」などと制限をされたり、両親の顔色を伺いながら「両親を悲しませないため」などといった理由で自分の気持ちを制御するようになる(のだと思う)。いつからか自分の気持ちよりも『自分以外の他人』の気持ちが優先されるようになり、生きることが楽しみではなく「我慢」とか「苦労」とか「忍耐」の度合いでその良し悪しを測られるようになってしまう(ような気がしている)。

 

 

人生の本質は「JOY」だ。わたしはそのように思う。苦しみに耐えたものにだけ褒美が与えられるのではなく、この世界に生まれて来たというまさにそのことにおいて『誰もがみな、褒美のど真ん中を生きている』のだと思う。問題は、そのことを実感できているかどうかなのだと思う。選ばれたものにだけ褒美が与えられるのだというともすると排他的な思想から、生きとし生けるものは誰もがみな祝福をされている(とっくの昔から我々は恩恵を受けていたのだ!)と思い出せるコミュニケーションを、交わしていきたいのだと思う。トークイベントの休憩時間中に、勝手に外に飛び出して手頃な花を摘んで参加者の女性の方に「お近づきの印に…(はあと)」と渡した瞬間に、なんだかいい風が吹き抜けたような気がした。おはなにはそういう力がある。そういう力がある世界に生まれたことを、性懲りもなく「素晴らしいことだ」とわたしは思う。

 

 

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瀬戸内の夏。。。

 

人生は続く。

 

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