いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

この空があれば大丈夫だ。

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「あらゆる病気は断食で治る!」とはよく聞く話で、多分、その通りなのだと思う。愛するムラキテルミさんが「固形物を食べないファスティングは良い!」とブログの中で言っていたので、早速真似をしている。自分の食い癖を眺めてみると、腹が減ったからという理由よりも「暇だから」とか「ストレスが溜まっているから」という理由で何かを口にしている時が多い。これではいけないと思う。ので、自分を使った人体実験【肉体改造】を試している。まずは「ある程度の運動をしなかった日は自分に食事(固形物)を与えない」というところからはじめたい。身体を動かしたあとに食う飯には動物的(?)なうまさがあるが、特になにもしていない時に食う飯は『惰性の味』がする。

 

 

過去に、友達と一本下駄登山をしたことがある。一本下駄で登山をするのは割と過酷で、下山後には「よくやったなー!」と自分で自分を褒めたくなった。下山直後、最寄りの自動販売機でファンタグレープを購買して「乾杯!」と祝杯をあげた。これまでの人生で一番美味かった飲み物は、間違いなくあの時に飲んだファンタグレープだと思う。そして、あの時ほど心の底から「乾杯!」と言えた瞬間はない。いまだにあの味を更新できていない自分がいる。多分、なにを飲むかではなく「どのような状態で飲むか」の方が五億倍重要で、砂漠の中で飲む水は豪華なラウンジで飲むカクテルの五兆倍美味い(気がする)。こういう話をすると「あなたはストイックだね」的なことを言われることがあるけれど、ストイックとは結局「その先によろこびがあることを信じている」ゆえの行為であり、多分、よろこびとは『落差』だと思う。極限を生きると、当たり前が当たり前ではなくなる。当たり前の輝きが増す。

 

【イベント詳細】おはなをあげに、いかんばなんね。

 

生きている実感。

おはなを配る日々を過ごしている。一昨日は宇都宮に、昨日は熱海から浜松を経由して名古屋&岐阜に、今日は奈良から梅田を経由して神戸にはいり、明後日は愛媛県松山市で開催されるイベントに登壇をした後に今治に向かう。移動が続く日々を過ごしていると、いま、自分が何処にいるのかわからなくなる。自分をある種の混乱状態に陥らせることにの中には、過酷さと楽しさがある。合理的でもなければ効率的でもなんでもないことをやっていると、そういうことを(この年齢になっても)できている自分を「いい感じだな」と好きになる。これから、おはなを届けるためだけに自腹でレンタカーを借りて奈良県の奥地に足を運ぶ。俺はなにをしているのだろうと思うこともあるけれど、同時に、こういうことをしていなければ絶対に遭遇することのなかった面白い目に遭うこともできているから「バランスはとれているのだな」と思う。

 

移動を続ける日々を過ごしていると、家がなかった頃を思い出す。家のない生活をしていた時の方が、乱暴にまとめると『生きている実感』があった。家がないと、当たり前が当たり前でなくなる。お湯が出ることとか、風呂にはいれることとか、布団で眠れることとか、屋根があることとか、その程度のことでいちいち感動できる『幸福多感症』な自分になる。何もかもを一回失ってみることは、必ずしも悪いことではない。金も宿も何もない日は野営をすることもあった。野営をしている瞬間は孤独にもなるが、野営をしていなければ絶対に出逢うことのなかった朝日の美しさや小鳥の囀りや朝露の煌めきがある。紅の豚じゃないけれど「綺麗…世界って本当に綺麗。」だと思う。家のない生活を通じて、わたしは体質が変わった。朝日が昇る前に身体が勝手に目覚めるようになり、目覚まし時計が不要になった。そして「目覚し時計で目覚める日々は、もしかすると人間的ではないのかもしれない」などと思うようになった。

 

熱海と横浜に家があるいまも、定期的に家出をする。多分、家がない生活が懐かしいのだと思う。当たり前を当たり前と思わないために、定期的に「何もない状態」に自分を追いやる。誤解を恐れずに言うと、自分のためだけならば家はいらないのだと思う。家は「女やこどものため」に必要なもので、多分、自分だけのためには家はいらない。いま、ごちゃまぜの家の活動をしているのは自分のためというよりも「自分の周囲にいる女やこどものため」であり、こんなことを言うとあまりにも偉そうだけど『男は外に出てなんぼ(外に出ている時の方が状態が良い)』なのだと思う。逆に言えば、わたしの場合は家を増やすことは得意でも家を整えることは苦手だ。だからこそ、女の人に家を整えてもらえると猛烈に助かる。この点においても「バランスはとれているのだな」と思う。家はたまに帰る場所【ルンバにとっての充電器】であり、長居をしてしまうと「男性的ななにかがダメになる」的な危機感を覚える。落ち着きがないと言ってしまえばそれまでの話だけれど、日本を離れることで日本の素晴らしさを知るように、家を離れることで家の素晴らしさを知ることは多い。

 

塩をなめる。

と、ここまで書いて時間が流れた。現在は三ノ宮駅前にあるドトールにいる。奈良県でおはなを渡した方は非常に素晴らしい方で、なんと、わたしが持参したおはなを「今日はこの方にお渡ししたいと思ってお願いしたのです!」と、その場にいた別の方にプレゼントをした。素晴らしいおはな(及び坂爪圭吾)の使い方だと感動をした。その後、梅田に移動をして「幸せのパンケーキ」なるものをご馳走していただき、これから三件おはなを渡した後に今夜は三宮駅前のホテルに泊まる。このホテルは、なんと、これからおはなを渡す予定の方が「もしよかったら宿も予約をしておきます!」と手配をしてくださったものになる。本来であればわたしが『与える側』であるはずなのに、いろいろなものを貰っている。ああ、生かされている、自分は生かされているのだとうれしくなる(ここでは書ききれないほどお世話になっているみなさまほんとうにありがとうございます!!)。

 

「運動をしない限り食事を与えない」などと書いておきながら、早速誓いを破ってしまった。特別ルールとして「ひとと食べる限り食事はOK!」ということにする。自分で約束をしたことを音速で破る自分はなんなのだろうと思う反面、そんな自分が嫌いではない。カバンの中に『マグマ塩』という塩がある。この塩はムラキテルミさんおすすめの岩塩で、汗をかいた後などに食べると猛烈に体力が蘇る(ような感覚になるから大好きです)。今後は塩を舐めながら命を繋いでいきたいと思う。旅先でランニングをする「旅ラン」をやりたいと思い、暇な時間を見つけてはランニングウェアやシューズをネットで物色している。こういう時間は楽しい。スポーツウェアを私服にして、いつでも走り出せる体制を整えておきたい(なんてことを考えていると楽しくなる)。

 

また、ごちゃまぜの家の第2号を日本のどこかに持ちたいと思う。どなたか「使っていない家があって管理に困っている」的な方がいたら、格安で譲っていただけないだろうかと思う(もちろん超絶大切に使います!)。インターネットで空き家バンクを物色していたら、安いものだと5万円(!)程度から売りに出されている物件が大量にあった。賃貸で家を借りるより、格安で家を購買(?)した方が自由度は高いような気がする。これは余談になるけれど、ある日突然財政破綻的なことが日本でおきて「明日からお金はただの紙切れになります」みたいなことがあった時に、平気でいるひとたちは『食糧や水やエネルギーを自炊できているひとたち』なのだと思う。ごちゃまぜの家のようなものが(ロシアのダーチャみたいな感じで)世界各地に複数個あれば、仮にひとつの場所がダメになっても他の場所で代替可能になるのかなと思う。何かが起こる前に、何が起きてもいいような状態を(遊び感覚で楽しみながら)整えておけたら「ベストだな!」と思う。

 

【過去記事】生きとし生けるもののうえに幸いあれ。 - いばや通信

 

わたり文庫『ウルトラマラソンマン』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、ディーン・カーナゼス著作『ウルトラマラソンマン』です。この本は、近年稀に見る名著【全男性必読!】だと睨みます。このひとはうまく言葉にできないのですが最高の愚か者で、自分が愚か者であることを自覚している点において猛烈に賢い。そして、愚行を通じて生きるために必要なエッセンスを確実に抽出している感じが最高に素敵!読後感の爽快感が半端なく、生きるためにはまったく必要ないけれど、生きていることを楽しむために必要なあれこれが大量にあふれているなあと思いました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、愛知県にわたりました ※※※

 

翌朝、ジュリーを起こさないように夜明け前に起きて、ゴールデンゲートブリッジに向かって走った。太陽が上がると魚釣りの船が沖に向かい始め、小鳥も鳴いていた。一ヶ月以上も鳥の鳴き声を聞いていなかったが、極限の地に行くといつも近くにある日常のありがたみを深く感じる。世界を新鮮な目で見られるようになり、当たり前と思わなくなる。自分の限界まで走ることは、自己再生をするチャンスなのだ。

 

自分をそんなに苦しめるなんて正気ではないと、誰もが思う。でも僕らはどこかの時点で、快適さを幸福と取り違えてしまったように僕には思える。僕は、実は正反対なのだと信じ始めていた。「苦痛は意識の唯一の起源である」ドストエフスキーの言葉は正しい。苦痛が始まると、感覚が研ぎ澄まされる。苦しみにこそ、幸福に至る秘密が隠されているのだ。

 

サンタクルーズに向かって走りながら、僕は深い達成感を感じた。多くの人はそこに辿り着くことはない。大変なことをやるのを嫌がっているのか、臆病なのか、負荷が一番少ない楽な道を選んでしまうからである。でも僕に言わせれば、苦しんで頑張ることが意味ある人生につながる。自分を常に駆り立てながら、前に進みながら、学んで成長するべきだ。自分が居心地の良い狭い範囲を超えなければ、無意味な存在に甘んじることになる。素晴らしい人生の旅を歩めなくなってしまう。

 

ランニング仲間が言った言葉に、「墓に入る時は無傷のきれいな身体ではなく、使い果たし、疲れ果てた体で、『最高だった』と叫びながら、滑り込みたい」とあった。

 

ウルトラランニングは僕の生きがいでもあり、僕が墓に入る時までの生き方でもある。だから今ここで連続2日間かけて、自分の精神的・肉体的限界を試しながら、もっと上を、もっと遠くを目指し、もっと出し切ろうとしていた。自分が選んだ道を極めるなら、どんな精神的な障害物があってもそれをぶち抜き、どんな強烈な痛みと絶望感の壁に当たっても、頑張り続ける勇気を持たなければならない。

 

ディーン・カーナゼス『ウルトラマラソンマン』【Discover】

 

この空があれば大丈夫だ。

偉大な人間との出会いや、偉大な自然との出会いは人間を謙虚にする。自分なんてまだまだだなと思える瞬間の敗北感には、ある種の清々しさがある。世界にはまだまだ自分の知らないすごい奴らが大量にいるのだと思える時、どうしてなのだろうか、これからの自分が楽しみになる。多分、人間というものは違っているように見えて実はたいした違いなんてなく、ひとりの人間ができるということは人類全体ができるということであり(やる必要があるかどうかは別として!)、偉大な人間は「俺はすごい!」という個体の優位性を主張しているのではなく「(俺を含めた)人間という生き物は素晴らしい!」ということを証明してくれているように思う。大袈裟な言葉で言えば「自分の代わりに生きている」のが他人であり、あなたはわたしの代わりに生きていて、わたしはあなたの代わりに生きている(だから同じである必要は微塵もない!)のだと思う。

 

 

 

最近は「欲望を追い求めるとキリがない」ということを思う。ごちゃまぜの家を菊名ではじめてから、あれも欲しい、これも欲しいみたいな感じで次から次へと欲望が湧き出る。ひとつのものを揃えると、また新しい「これがあるならこれも欲しい!」みたいな気持ちが湧き出してきて、なんだかもうキリがなくて疲れてしまう。だからこそ、あくまでもベースは『ない』に置いておきたいと思う。これがあるから大丈夫という思考ではなく、これがなくても大丈夫(最悪の場合は「家がなくても大丈夫!」)的な思考を忘れたくないと思う。あるものは楽しむ。あるものには最大限の感謝をする。ただ、ないならないでどうにかなるのだという思考を忘れたくないと思う。家のない生活をしていた頃に、お湯が出ることや風呂に入れることや布団で眠れることなどにいちいち感動をしていた自分の感受性を、忘れてしまいたくないと思う。

 

 

移動中に見上げた空が綺麗だった。空が晴れているだけで、こんなにも嬉しくなるのはなぜなのだろうか。たったそれだけのことで自由を感じる。笑顔になる。元気が出る。世界に空があってよかったなと思う。空を見上げながら、ああ、この空があればどのような時も自分は大丈夫なのだと思った。空だけではない、花に、鳥に、風に、月に、こんなにも多彩な世界に生まれてよかったなと思う。すぐそこにある彩りを、すぐそこにある豊かさを、すぐそこにある奇跡のような出来事を、忘れるたびに思い出していける自分でありたいと思う。何度でも、何度でも、この空があれば大丈夫だと思えた時のあの感覚を、心臓に刺青を掘るようにしっかりと刻みたいのだと思う。

 

 

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この空があれば大丈夫だ。

 

人生は続く。

 

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