いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ。

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最近のテーマは「ルパン感を出して行こう!」ということで、ルパン三世を意識しながら生きている。ルパン感とは「風のように現れ、サッとお宝【それはあなたのハートです】を盗み、あっという間に過ぎ去ること」であり、わたしはこれを別名『ほの字狩り』と名付けている。出会うひとびとの心臓を射抜き、なんだか知らないけどキャー!【ほの字!】みたいな状態を作り上げた後に(半端な執着を残さないためにも)音速でその場を離れる。秋の季節は紅葉狩りちびっこギャングはおやじ狩り、我々いばや【坂爪圭吾】はほの字狩りということで、今後とも、隙さえあらば小粋な風を吹かせていきたいと思っている(とは思っているものの、常に「調子に乗ったら即死する」という自戒を忘れてはいけないのだと思う)。

 

 

一日一回は、いままでやったことのないことをやりたい。昨日、ごちゃまぜの家に来てくれた女性C様が「こんにゃく湿布」なるものを施してくれた。鍋にお湯を沸かして10分程度湯煎したこんにゃく2袋を(袋のまま)タオルに包み、丹田&肝臓周辺に置いて30分寝る。その後、うつ伏せになった状態で仙骨&背骨周辺(?)にこんにゃくを置いて再び30分。極楽の温泉体験に並ぶ気持ち良さが尋常ではなく「これは金を獲れるレベルだぞ!(マッサージみたいに自分のカラダを動かす必要もないから疲れることもないし)えりか姫、やれ!」と命令をした。えりか姫も「これはやばいですね!」とご満悦だ。えりか姫にはガシガシと働いていただき、今後はごちゃまぜの家の大黒柱になっていただきたいと思う。菊名の家を「Retreat KIKUNA」とか名付けていい感じに仕上げたら、いよいよいい感じになるのかもしれない(なんて思いました。みなさまもお試しあれ!!)。

 

【イベント情報】【2th「Yabaival days!!」/TPD48】

 

「こころの充足感」を与えるもの。 

菊名の庭をハイパーオーガニックガーデンと名付け、花を植えたり野菜やハーブを育て始めている。この時期の湿気は苦手だけど、植物を育てていると(水やりをする手間も省けるから)梅雨も悪くないなあと思う。ぐんぐん伸びる野菜の成長を眺めていると、静かな安らぎに満ち溢れる。巷で言われ過ぎていることだけれど、人間を幸せにするものはモノでもカネでもなく「こころの充足感」なのだと思う。目覚めの珈琲を淹れる時間、土をいじっている時間、焚き火用の小枝を拾い集める時間、こどもの笑い声を聞いている時間、歌を歌う時間、ひとと話す時間、踊りを踊る時間、料理を作る時間、愛するひとと抱き合っている時間、ロウソクの灯りに囲まれた時間、虫の声を聴きながら夜空を眺めている時間、など、静かな充足感を与えてくれるものは「お金のかからない」ものが多いことに気がついた。

 

 

夢や目標を持つことは悪くない。高い志を抱くことは結構なことだ。ただ、遠くにあるものを追い求め過ぎるあまり、手元がお留守になってはいないかと、自分に感じることがある。他人【理想の自分像】との比較がモチベーションに繋がる場合もあるとは思うけれど、基本的に「比べる限り負け続ける」ものだとわたしは思う。他者との比較で実力を語ったり悦に入ることほど、愚かなことはない。人間に価値があるとすれば、それは自然と同じように(相対的なものではなく)絶対的なものだと思う。何かあるからすごいという訳でもなければ、何かがないからダメだという訳でもない。普遍性とか本質などと呼ばれるものの真価は『不増不減』のものであり、ただ、自分は自分以上でもなければ自分以下でもないのだと真っ直ぐに感じることができた時、はじめて「(他の何者でもない)自分であること」を誇りにすることができるのだと思う。静かな充足感は、そういうことを教えてくれているように感じている。

 

手紙とはな。

これまでの人生の中で、ああ、この習慣は素晴らしいなと思えるものがふたつある。ひとつは「わたり文庫」の活動で、わたり文庫の当選者の方には(毎回という訳じゃないけれど)本と一緒に季節の花や紅茶の袋を香り付けに添えてみたり、チョコやクッキーなどのお菓子を同封したりしている。わたり文庫の当選者の方からお返事の手紙をいただくこともあり、この年になるとなかなか手紙をもらう機会もないものだから、小包を開ける瞬間はまるで「クリスマスのプレゼントを開封するこどもの気持ち」みたいなものが蘇る。手書きの文字には、メールにはない温度【温もり】がある。だからなのだろうか、わたり文庫当選者の方や届いた手紙の返事を書いている時間は、ああ、なんだかこれは非常に素晴らしい時間(絶対に途絶えさせてはいけない時間)だなあと思う。

 

もうひとつは「おはなをあげる」という習慣。わたしには、余裕がある時期限定で(特別な理由は何もないけれど)出会うひとびとにおはなを配る癖がある。おはなを配っていると、想像以上に喜んでもらえることが多い。なかには涙を流すひとまでいる。わたしには財力がないので、高価なダイヤモンドを購買する余裕はない。ただ、おはななら買える。安いものなら一輪百円程度からある。おかねをおはなに変え、出会うひとびとに配布をする。いい感じの空気が流れる。はなの威力は素晴らしいものがあると思う。これからも隙さえあれば「おはなをあげる」営みを続けていきたいと思うし、何かしらピンと来るものがある方は、このあとすぐにでも誰かに手紙を書いたり実際におはなを渡してみたりしてもらえたら嬉しい(と思う)。 

 

菊名の家は現在も絶賛準備中で、少しづつではあるけれどお客様を出迎える体制(?)も整ってきた。菊名の家を見てみたいという方は、現在管理人を務めているえりか姫か榊原仁美さんに直接ご連絡をいただけましたら幸いです。遠方にお住いの方は、えりか姫や榊原仁美さんが謎の文通相手(?)になる可能性も充分にあり得ますので、そちらも前向きにご検討ください【こんなことを言うと非常に図々しいことこの上ないのですが、我々、差し入れをいただけた瞬間は飛びあがるほどよろこびます!!参考(あくまでも参考!)までに、えりか姫の好物は珈琲豆、榊原仁美さんの好物は果物全般、坂爪圭吾の好物は植物全般となっております!!】。

 

さかつめけいごの連絡先

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たかやまえりかの連絡先

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さかきばらひとみ(つるの仁美)の連絡先

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【参考記事】ラプンツェル仁美の懺悔室♡クズでごめんなさい - 地球に生息する榊原の一種

 

幸福とは「感謝」である。 

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わたしが不在の間、ごちゃまぜの家を訪問してくれたお母様方とこどもたちの写真が届いた。こどもたちの姿がまぶしい。家に小さなこどもたちが来てくれるということは、まるで、自分が作った庭に蝶が遊びに来てくれたように嬉しい。大袈裟な表現になるけれど、こどもたちを見ていると「これが未来だ」という気持ちになる。こどもたちの笑顔がゆっくりと削られてしまう世の中ではなく、こどもたちの笑顔がいつまでも続く世の中になればいいと思う。

 

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写真を見ながら、なぜだかちょっとだけ泣けた。いろいろなことをやっているといろいろなことが起きて「いろいろなことがあるなあ…いろいろなことがあるなあ!!」と軽いダメージを喰らうこともあるけれど、このような瞬間を目撃させていただけると「ああ、素晴らしいじゃないか…人間って素晴らしいじゃないか…!!」という気持ちになる。大袈裟な言葉になるけれど、肯定されたようなうれしさと、報われたようなよろこびと、自分がやっていることに間違いはなかったのだと思えるこころ強さをもらった。そして『感謝と幸福は同義である』ということを思った。感謝をしろと言われてやらされる感謝はあんまり好きじゃないけれど、内側から「感謝をせずにはいられない!」と湧き上がる、この瞬間の幸福感にはたまらないものがある。

 

【過去記事】好きなひとに嫌われても、自分を選ぶ覚悟。 - いばや通信

 

わたり文庫『生きていることを楽しんで』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、引き続きターシャ・テューダー著作『生きていることを楽しんで』です。先日、ターシャ・テューダーを愛する方とお話をさせていただいた際に、その方が「ターシャさんには、女の一生【すべて】がはいっているような気がするんです。赤ちゃんのようでもあり、少女のようでもあり、処女のようでもあり、お母さんのようでもあり、おばあちゃんのようでもある、ターシャさんの表情にはそのすべてが詰まっているみたいだなって思うんです」と話してくれて、わたしは「おお…まじだ…」と思いました。ターシャさんのような人間の存在に触れると、人間はいくらでも「素晴らしい形で年齢を重ねることができるのだ」と思える希望の力をいただきます。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

世間を騒がすような嫌な事件は、いつの時代にもありました。そのようなケースは、ほんとうは少数なのに、メディアが大々的に取り上げるものだから、そこまで事件を起こさない人までもが、それをお手本にして行動してしまうのではないかしら。まともな生き方は、ニュースにはならないけれど、そちらのほうが大多数であることを、信じましょうよ。

 

親が、自分ができなかったことを、子どもにさせてやりたいと思う気持ちはわかりますが、その結果、子どもに干渉しすぎるようになっているのは残念なことです。子どもは、のびのびとした楽しい子ども時代を過ごし、その間に自分で感じ、考え、夢を見、決断し、実験する必要があるのです。子どもは大人のミニ版ではないのですから。

 

近しい人の死や、かわいがっていたペットの死は、これきりもう会えないのだと思うと、生前のことがいろいろと思い出され、悲しみにくれました。でも、この世は生きている人のものだと、気づいたのです。生きている人に必要とされている自分、その人達なしでは生きられない自分に。

 

「美は見る人の目の中にある」と言います。醜い考えを排し、そばにいる人に愛を施し、思いやりある行動をとっていれば、それを見る人の目には、あなたの周囲が美に満ちている、と映るでしょう。

 

生きていれば、落ち込むこともあります。状況を好転できると思ったら、ぜひ努力すべきです。でも、変えられないなら、それを受け入れて歩み続けるしかありません。何があっても「生きていることを楽しもう」という気持ちを忘れないで。ー ターシャ・テューダー『生きていることを楽しんで』【メディアファクトリー

 

生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ。

誤解を恐れずに言えば、人間の役割や使命や意味なんてものは実はなくて、あるとすれば「自分を楽しませること」とか「自分を幸せにすること」くらいだと思う。逆に言えば、どれだけ素晴らしいとされていることをしていたとしても、自分がそれによって窮屈そうに生きていたり、他人に犠牲を強いてしまったり、何よりも自分自身が無理をしてしまっていては、その『無理をしている感じ』は空間に思い切り反映をされる。主催者が自由な精神の持ち主であれば、空間全体にも自由な精神は反映をする。主催者がガッチガチのギッシギシであれば、空間全体もガッチガチのギッシギシになってしまう。わたしはガッチガチのギッシギシな空間があまり好きではないために、一応、ごちゃまぜの家の主催者としては「まずは自分を楽しませる(もっともらしいことを言うのはその後だ!)」ということを繰り返し思う。

 

 

わたしは過去に大学を辞めた。大学を辞める時は、周囲のひとから「辞めて何をするの?」と五億回は問われた。わたしは「やりたいことがあるから辞めるんじゃなくて、やりたくないから辞めるんだ」と答えていた。理解されることは少なかったけれど、あの時に辞めて本当に良かったと思う。責任【無責任】とは何だろうか。わたしは思う。責任とは「自分を生きる覚悟」ではないだろうか。何かをはじめることと同じくらい、何かをやめることには勇気がいる。しかし、その勇気を通じてしか得ることのできない覚悟が、多分、ある。わたしには、そのように感じることがこれまでも頻繁にあった。

 

 

自分であること以外に、何があるだろうか。自分を生きるということは、これがあるから安心だとか、これがあるからきっと生きていけるだとか、自分の外側に張り付いている諸々の条件を取り除いたあとに残る「何もなくてもいい【生きているだけでいい】」と思える状態だと思う。わたしは思う。生きているということは、生きているというまさにそのことにおいて、まるで『奇跡』みたいなことなのだと思う。耳が聞こえること。目が見えること。足があること。腕があること。友達がいること。家族がいること。電車に乗ること。酸素があること。言葉を話すこと。料理を作ること。季節が巡ること。草木が茂ること。果実が実ること。心臓が脈を打つこと。ひとを好きになること。ボールを投げること。ボールを受け取ること。今夜眠る場所があり、着る服があり、明日食うに困らない金があるということ。見出そうと思えば、ありがたいことは無限に転がっている。自分にはこの肉体とこの精神しかないのだから、ないものを嘆くよりも、あるもので生きる。何者かになりたいとは思わない、ただ、自分でありたいとは思う。この瞬間は常に最初で最期、今日の自分【世界】は今日だけのもの、明日には二度と取り戻すことはできないのだから、自分は自分をまっとうして死にたい【生きたい】のだと思う。

 

 

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光にあふれている。。。

 

人生は続く。

 

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